京都 西陣界隈と金閣寺・化野念仏寺
2013.12.31〜2014.1.1
孫息子が今年は人生の一つの節目である高校受験であり、学問の神の総本社である北野天満宮参拝のため
暮より京都に出かけた。 東名阪道路は伊勢神宮の年越し参りで混雑が予想されるので名神高速を使って向った。
予想通り道路は空いていて京都へは順調に入ることが出来た。 東山地区は混雑が予想されるので今度は紫野
から金閣寺、嵯峨野方面に行くことにする。 1号線にて5条に出て堀川5条より右折堀川通りを北上し今夜の宿、
二条城前の京都国際ホテル前を通って堀川北大路で左折、北大路を走ると右手に目的地大徳寺が見えてくる。
大晦日にしては駐車場が空いていて留める事ができた。
大徳寺・大仙院
大徳寺総門を入ると右手に利休の建てた重文の三門「金毛閣」があり、奥へ仏殿、法堂、方丈とつらなっている。
大徳寺の広大な敷地は石畳で仕切られ、西側は織田信長や前田利家、細川忠興、大友宗麟、蒲生氏郷など
多くの戦国時代・武将所縁の塔頭が並ぶ。 大徳寺は臨済宗大徳寺派の本山で開基は大燈国師・妙超が
1315年に開いた寺院で後醍醐天皇の1300年代初期には五山の上位にあったのだが足利政権になると
後醍醐天皇に近かった関係で衰退し、更に応仁の乱では荒廃したが、一休禅師が復興し、その後、本能寺
で敗れた信長の葬儀が行われてから貴族や武将の塔頭も増え栄えた、利休は坐像を三門二階金毛閣に
飾られたことから秀吉になじられ、切腹の一因になった寺でもある。
利休の建てた三門二階金毛閣
仏殿
法堂
仏殿、法堂を参って方丈の奥にある塔頭・大仙院が公開していたので参観する。
大仙院は1509年大徳寺住職76世大聖国師・宗亘により開かれ大徳寺塔頭22の
中でも由緒ある名刹で、国宝の本堂は室町時代、方丈建築の先駆けで、床と玄関は
最古と言われる。また、枯山水の庭園は縦長の奇岩を蓬莱山に見立て流れ出る水は
白砂で表され方丈の南と北の大海に流れている。 残念ながら撮影は禁止されている。
外国人の参拝者が多く、中に入ると、こちらの住職が英語交じりで外国人に一生懸命に
説明をしている。 どうやら住職は名説法で有名らしく住職の前には自身の禅や心に関
する本が多く置かれ売られていた。 我々は係りの人に案内され庭園を案内してもらい
方丈に入ると、次ぎの様な禅語があった。
係りの説明によると「気は長く心は丸く腹立てず、人は大きく己は小さく 」と読むそうで、
人間は短気に走らず気を長くもって、心は素直に穏やかな気持で、他人を立て己を控えめして、
利己よりも利他を考えよってことらしい。 普段からこんな気持ちで心がければ、怒りや妬みや
恨みを押さえ対人関係はうまく納まり生活も楽しく幸せに送れるに違いない。そんなことを考えながら
入口まで戻ると住職が、「案内書を貸しなさい」と言うので、差し出すと「お名前は」と言うので、名乗ると
「いい名前だ立派な人です」と言って、案内書にサインをしてくれた。 偉く褒めてもらったものだ。
気恥ずかしく、大仙院を出て北大路を西に向って次は金閣寺に向う。 5分ほどで鹿苑寺・金閣に
到着する。 流石に金閣寺の駐車場は大きい。 駐車場から大文字山が見え、こちらに車を留めて
風格ある総門より入場する。
鹿苑寺(金閣寺)
金閣寺・総門
境内に入ると右手に真新しい庫裏が見える。 その前を通って奥に進むと池の奥に
衣笠山を借景にして鹿苑寺の金閣が冬の鈍い陽光を浴びて黄金色に輝き静かな
池の水面にその姿を写し、時折吹く風によりさざ波に揺らぐ。 流石に此処まで来て驚く
のはアジアの外国人の多さにである。 特に中国(含む台湾)、韓国人の多さに驚く。
円安で観光客が増えてるようだ。 金閣をバックに場所を取り合い写真に夢中である。
庫裏
鹿苑寺は臨済宗相国寺派の禅寺で相国寺の山外塔頭寺院で舎利殿の金閣で有名となった。
この地は鎌倉時代、西園寺公経の別荘地であったが、三代将軍足利義満が1397年西園寺家
から譲受け、山荘「北山殿」を造ったのが始まりで、金閣を中心とした庭園建築は極楽浄土を形
造ったものと言われ、御所に匹敵するほどの政治の中枢でもあり、明交易も進み北山文化の中心
でもあった。しかし義満没後、夢想疎石を開山として義満の法名・鹿苑院殿から2字を採り「鹿苑寺」
となった。 明治維新以後、廃仏毀釈で多くの寺領は失ったが庭園及び金閣を一般に公開すること
により、現在では国宝の世界文化遺産に指定されている。
舎利殿・金閣
舎利殿・金閣は漆地に金箔を貼った三層建造物で一層は寝殿造り風の「法水院」とよばれ
二層は武家風書院造で「潮音洞」と言う。 三層は禅宗仏殿造りで「究竟頂」と呼ばれ三層
三つの様式を調和させた建物で屋根は、こけら葺で頂上には金銅製の鳳凰が飾られ
室町時代を代表する建物である。 中には三層に仏舎利が安置され二層には観音像
と四天王像、一層には釈迦如来像と足利義満像が安置されている。 金閣を観賞し
庭園の遊歩道に沿うと右手に真新しい鹿苑寺の方丈があり、更に金閣の裏手へと小道
は続く。 インド人の子供が何かを母親に強請っているようだが、母親は聞かない。
中国人のグループが何かその母親に話し掛けているが、母親は断っているようだ。
お互い育った文化の違いか、インド人は御節介と見たのか?疎通が難しいようだ。
鹿苑寺方丈
裏より見る舎利殿・金閣
裏手に回り、金閣を見納めて小道は右手に大きく迂回して進む。 途中、泉や竜門滝をみて
金閣寺垣を通り「夕佳亭」に出る。 夕佳亭は江戸時代の茶道家・金森宗和が建てた数奇屋
造りの茶室で夕日に映える金閣の眺めが佳いことから「夕佳亭」と名づけられ、後水尾天皇に
こちらで献茶された所だそうで、床柱には南天の古木が使われ、右手の棚は「萩の違い棚」
があり、古今の名席と言われている。 蹲も義満公伝来の物だそうだ。
茶室・夕佳亭
世界遺産だけあって大勢の観光客であるが、秩序よく右回りに誘導され巧く人は流れ、これで
大勢の外国人の観光客が予想されても混乱は避けられ拝観がスムースに流れ安心できる。
庭内を一周して、金閣寺を出て、次は龍安寺、仁和寺を経由して嵯峨野へと続く「きぬかけの路」
を走る。 福王子を貫けると長閑な嵯峨野に入る。 大覚寺の大沢池を通って嵯峨野の北の奥
にある化野に到着し民営の駐車場に留める。 こちらは金閣の雅さとはすっかり違い客も少なく、
真反対の詫びた農村的な世界である。 通りから石の道標のある階段を上がると寺はあった。
化野念仏寺
「あだし」とは儚い、むなしいとの意味で、又「化」の字は「生」が化して「死」となり、この世に再び生まれ
化ることを意味し、極楽浄土に往来する願いなどを意図したことと言う。化野は古くは墓地で風葬の地で
近世では火葬場として知られた所である。 小さな部落があり、念仏寺はその一角にあり、浄土宗の寺で
伝承によれば空海が1100年前五智山如来寺を建立し、野ざらしになっていた遺骸を埋葬したのが始まり
と言われ、その後、法然が常念仏道場とし、現在は東斬院念仏寺となっている。 境内は塀もなく垣根だけ
の囲いで本堂も京都の伽藍の様なものはなく極めて質素な庵のような本堂である。
すっかり素朴で寂びた境内
受付を入って左に大きなインド風のストゥ―パが見える。 この仏舎利塔はインドの聖地サンチー僧院
より奉じて、この地に安置されたもので、念仏寺住職・原弁雄師がインドのサンチーの大僧正と親交を深め
実現したものと言う。 ストゥ―パを見て右手に折れると、その先に小さな本堂が見えてくる。
本堂には華西山の額があり、湛慶作と伝わる阿弥陀如来坐像が祀られている。
ストゥ―パ・仏舎利塔
本堂・阿弥陀如来
本堂前には賽の河原の様な「西院の河原」が広がり真ん中に一際高い石の五輪塔が立っている。
此処には8000体を越える石仏・石塔があり、往古あだしの一帯に葬られた人たちの墓である。
何百年という歳月を経て無縁仏と化し、あだしのの山野に散乱埋没していたものを明治中期に
地元の人々の協力を得て集め、釈尊宝塔説法を聴く人々になぞらえ配列安置してあると言う。
”誰とても とまるべきかは あだし野の 草の葉ごとに すがる白露”
西行の歌であるが「化野の露」は、人生の無常感としての表現だそうだ。
眺めていると、 こんな歌が浮かんだ。
「あだしのに 枯野の御霊 安かれと 西行の思い今も偲ばる」
賽の河原・西院の河原
参観を終え、嵯峨野らしい「竹林の小径」を通る。 少し竹が茂り過ぎの様だ。 もう少し光が入ると
もっと風も通り美しい小路となるのだが・・・ 通りぬけて本日の行程は終わり、ホテルへと走る。
竹林の小径
京都国際ホテルロビー
ホテルにチェックインすると、部屋は9階で広い部屋がリザーブされていた。 一息入れて
食事は以前、訪れたことのある木屋町通りにある庭園の綺麗な「高瀬川二条苑」に行く。
高瀬川二条苑
電話を入れていたので、和服の姉さんが庭側の席に案内してくれた。 こちらは戦国期の京都の
茶屋家と並ぶ豪商で、安南貿易や高瀬川の開削を私費で行った「角倉了以の別邸跡」で小堀遠州
作の茶庭も残っている。 こちらは和食が専門、メニューも豊富で安くて新鮮なのが何よりである。
和御膳を貰い晦日の夕餉とする。 食と言うものは、腹を満たすだけでなく、日常と違った処で戴くと
心まで満たされるから不思議である。 今夜も酒も入って満足な気分で店を出ようとすると、中国人
の団体が大勢入って来た。 流石に京都は外国人観光客が増えているようである。
急いで喧騒を逃げてホテルに戻る。
庭園
翌朝は新年、食事にエレベーターに乗ると、低層階の団体の皆さんが奈良へ行くと言ってもう出て行った。
ダイニングルームに行くと、団体客が出かけた為か、空いていた。 今朝は和洋のバイキングである。
どうやら落ちついて食事が出来そうだと思ったら、ウエイターが別室に案内してくれて、ゆっくりとできた。
ダイニングルーム
北野天満宮
今朝は第一番に北野天満宮に行くことにする。 ホテルからは北西の2・3kmの処である。
堀川通りを北上し、今出川通りで左折し上七軒の三狭路でより上七軒の茶屋街を進む。
室町時代、天満宮の再建の時、残った機材で七軒の茶屋を建てたのが始まりと言われ
秀吉の北野の大茶会の頃より花街としても栄え「細雪」にも登場する。 通りを突き当たると
北野天満宮であった。 既に参拝客が大勢来ていた。 参道には両側に屋台が並び
楼門へとつづく。
北野天満宮・楼門
楼門を潜ると左に絵馬所があり、真直ぐ参道を進むと、右手に神楽殿、社務所と続き、参道から外れて
左に中門がある、そこを入ると社殿(国宝)が鎮座していた。 早速、孫の合格祈願をする。 後は本人が
残された時間を悔いのない様に励んでもらいたい。
社殿(唯一の国宝)
北野天満宮は菅原道真公が祀られた神社の総本社であり、947年ごろに多治比文子に神のお告げがあり
滋賀県の比良宮の神主神良種らによって神殿が建てられたのが始まりで、その後、藤原氏により社殿の
大造営があり、987年、一條天皇の勅使が派遣され、国家の平安が祈念された。 1004年には一條天皇の
行幸があり、代々皇室の崇敬をうけ、国家国民を守護する霊験あらたかな神として崇められてきた。
菅原道真公は和歌を嗜み格調のある漢詩を作るなど、学者出身の政治家として優れた力を発揮し
異例の出世を遂げた。 そんなことから藤原氏に妬まれ策謀によって無実の罪で大宰府に流され、
2年後に波乱の生涯を閉じた。 その後、都では落雷などの災害が相次ぎ、これが道真の祟りだと
畏れ、当時の怨霊信仰から、朝廷、藤原氏により鎮魂の祈りがなされた。 またこちらでは1587年
豊臣秀吉が九州平定と聚楽第竣工を祝って大茶会が開催され、秀吉自ら亭主を勤め茶を点て無礼講
で振る舞い1000人以上の人が集い黄金の茶室や秘蔵の名茶器、道具なども展示されたと言う。
当時、細川忠興が茶湯に使用した三斎井戸や太閤井戸も境内に残っている。
細川忠興使用の井戸はこの内にあり、茶席・松向軒は大徳寺・高桐院に移築された。
天満宮参拝の後は4・500m程東にある大報恩寺(千本釈迦堂)に行く。
大報恩寺(千本釈迦堂)
大報恩寺は通称・千本釈迦堂と呼ばれ、真言宗の寺院で今から800年前の1227年に
義空上人によって開創された寺で本堂は創建当時の侭で、応仁の乱でも消失を免れて
京都最古の建築物として国宝に指定されている。 義空上人は藤原秀衡の孫で比叡山
で修業し苦労して本堂や伽藍を建立した。 本堂の建立にあたり、大工が過て柱を切り
落とし、途方にくれていた時、妻の「おかめ」の知恵により枡組を奨められ万事巧く納まった
ことから「おかめ」伝説として伝えられている。
京都では一番古い国宝・本堂
本堂の中に入ると、住職が説明してくれた。 この辺りは「応仁の乱」のころ西軍の将・山名宗全の陣のあった
西陣で、東軍の将・細川勝元は相国寺に陣を構えたと言う。 戦いは足利義政の継嗣争いなど複数の要因が
絡み全国守護大名まで巻き込んだ戦乱となり、1467年より始まり10年間続き、京都は灰燼と化し、ほぼ全域が
壊滅的な被害を受けた。 こちらの本堂は当時、銀杏の林に囲まれていたため火を避けることが出来、山名宗全の
計らいもあって生き残ったと言われている。 しかし堂内には柱の刀槍のキヅ跡が残り、当時の様子を物語っている。
柱は刀槍のキヅ跡
経王堂願成執寺は近隣の北野天満宮の門前にあった北野経王堂の遺物が保管されている。
明徳の乱で山名氏清が将軍・足利義満に背き争ったが義満に征伐された。 しかし氏清の
かっての功労武勲を重んじ、戦没者を悼んで、乱の翌年、北野万部経会を創始し1401年に
三十三間堂を凌ぐ大堂、経王堂を建立したと言う。 その仏像や遺品が祀られている。
北野経王堂願成執寺、横に山名氏清碑もある。
山名氏清・山名宗全の念持佛と言われる不動明王尊が祀られる。
大報恩寺を出ると丁度、昼、近所の「四恩」と言う店に入る。 京都の店らしく掃除が行き渡り
洒落た内装の落ちついた感じで、店の子に「四恩」の意味を訊ねると、仏教用語で
「天の恩、王の恩、師の恩、父母の恩、」と言うメモをくれた。 やはり京都らしい屋号である。
やっぱり人間、人への感謝。 きっと店主の思いが託されているのであろう。
掻き揚げ蕎麦をよばれて、午後は息子が寂光院に行きたいと言うので洛北大原に向う。
寂 光 院
千本通りから北大路にでて高野川に沿い北東へ進む。 宝ヶ池を越え八瀬を過ぎると街はずれ
となり、田舎道を北へと走る。 古い寂光院への石の道標があり、間もなく駐車場に到着する。
駐車場より歩くと寂光院の案内があり建礼門院の御寺と書いてあった。 こちらへは2010年秋に
来たことがあり見覚えがある。 入口より石段を上って行くと、菊のご紋のある三門があり、皇室所縁
の寺であることが分る。 門を入ると尼寺らしく小ぶりの本堂がある。
寂光院入口
当院は天台宗の尼寺で594年聖徳太子が用明天皇の菩提を弔う為に創建されたもので、
本尊は六万体地蔵尊である。 初代、住職は聖徳太子の乳母であった玉照姫で、その後
第二代は阿波内侍(藤原信西の息女)が勤め、 3代目は1185年、高倉天皇の皇后である
建礼門院・徳子が源平の合戦で壇ノ浦に没した平家一門と、我子・安徳天皇の菩提を弔う
ために出家して終生をこの寺で過ごした。 そのため御閑居御所とも呼ばれている。
本堂
本堂前には豊臣秀吉、寄進の南蛮鉄の雪見灯篭が見える。 本堂に案内され掛かりの女性が
説明を始める。 本堂の内陣は飛鳥様式で、外陣は桃山様式と言う。 本尊の等身大の地蔵菩薩が
中央に祭られ菩薩の手より紅い糸が伸びて、この糸に触れると、ご利益があると言われる。
本堂前の庭は平家物語の当時のままで、「汀の池」「千年の姫小松」苔むした石や汀の桜などがある。
1186年、本堂正面の山から花を摘み帰った建礼門院が後白河法皇と対面をした場所が
この千年姫小松である。 この古木も火災にて枯死したが、鐘楼や汀の池など往時を忍ば
せてくれる。 平家物語フアンには必見の所。
平家物語当時のままの庭 中央の枝の切られた古木が千年姫小松、左手は諸行無常の鐘楼
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