桶狭間古戦場跡
08・9・9
名古屋市緑区有松町桶狭間


久しぶりに大陸よりの高気圧が張り出し爽やかな秋晴れとなった。 何時の間にかアブラ蝉は声をひそめ

代わってツクツクボウシの頃となった。 季節は徐々に秋色へとうつって行く。

季節の替わり目は自然が何かを話し掛けて来る。 今日は暑さも少なく尾張の南端にある桶狭間古戦場を訪ねた。


名鉄戦で有松駅でおりる。 駅前には街の規模には不似合いの大きなショッピング・センターがある。

有松は江戸時代、有松絞りで栄えた東海道の宿場町である。 旧東海道には、今でも古い街並が残り絞の町屋がある。

これから桶狭間へは徒歩で向う。 駅より南へ繁華な通りをぬけ1号線に出て左折する。1号線を進み桶狭間交差点で右折。

20分ほど歩くと幕山バス停があり桶狭間古戦場公園の標識が見える。標識に従い進むと木立に囲まれた小さな公園があった。

想像していたより小さく、確かめてみると大きい石碑に桶狭間古戦場公園と彫られてあった。 

公園の中程の石垣には薄紫の萩の花が、そっと咲き秋を告げていた。  周囲は住宅も建ち、

ここで織田・今川の合戦が行なわれたとは、ちょっと想像が出来ない。

 もっと自然が広がっていたのであろう。





16世紀の中頃から、この地方は尾張の織田氏と駿河の今川氏との国境支配を巡り攻防の地域であった。

桶狭間の合戦時期は今川氏の最盛期で、駿河、遠江、三河の3カ国を領し、更に尾張の沓掛、大高、

鳴海まで進出していて今川氏の勢力は織田氏に比べ圧倒的なものであった。

以前、今川義元が裕福寺に滞在したことを触れたが、http://www13.plala.or.jp/chisoku/jimokji.htm 

その後、今川義元は大軍を率いて裕福寺から沓掛城(豊明市)に入り、更に大高城(名古屋市)に

向う途中、桶狭間に陣を張った。


その諜報を聞いた織田信長軍は朝早く清洲城をたち熱田にて兵を集結して中島砦(名古屋市鳴海)から桶狭間に向った。

  午後になると、天気が急変し暴風雨となり、沓掛の峠に立つ大楠木が音をたてて倒れた。 織田軍は

これぞ熱田明神の御力と叫びあった。 やがて空が晴れるや織田信長は槍を天に突き出し、大声で

「すは かかれ」と最後の下知を下した。 全軍は義元本陣目掛け黒い珠となって駆け出した。

この様を目にした今川勢はひとたまりもなく崩れて行った。     信長公記



 
桶狭間古戦場案内

公園には今川義元の首洗いの泉や、義元戦死地の碑、慰霊の碑、馬繋ぎの塚などがある。


 
この碑は桶狭間古戦場とあり裏面には
文化13年(1816年)丙子5月とある



桶狭間古戦場田楽坪の碑

この碑は合戦時、今川軍の先陣を受け持った松井左衛門宗信(遠州二俣城主)の

子孫の松井石槻氏が昭和8年に現地を訪れた際、揮毫されたものと言う。




  
この碑は「義元公馬繋杜松」とあり、義元がこの地に休憩した                今川義元戦死之地碑   

 時に駒を繋いだ杜松(ネズ)の木があったそうだ。                             






「駿公墓碣」とあり駿公は義元を意味する。






「義元公水汲みの泉」と言われ、この地に休息の際、水を汲み暑さを

凌いだとされる。又、織田信長軍の急襲を受け、この地で討死し首級を

清めたことから「首洗いの泉」とも呼ばれている。



青線は今川軍が沓掛より現地に侵入したルート。

赤線は織田軍が中島砦より侵入したルート。

真横に走る太い道路は国道1号線(東海道)上の細い道路が旧東海道

この絵図によると古戦場公園の東側の道を南に行くと、長福寺がる。

そちらに行って見る。 南へ歩くと大きな池(桶狭間・大池)があり、池に沿って更に南に行くと

池の端、左手に「和光山・長福寺」の石碑が立っていた。



桶狭間・大池

この大池の周囲に桶狭間縁の史跡が点在している。 南東の端には今川家臣・瀬名氏俊の陣所跡


池の南西の岸には「戦評の松」、その南は「桶狭間神明社」がある。



長福寺への参道

長福寺の石碑より緩やかな参道を行くと正面に三門が建ち案内板があった。

三門は古く、それらしい佇まいである。



長福寺・三門





長福寺案内

この寺の案内で上人の今川勢への歓迎ぶりを見ると当時の今川氏の隆盛振りが窺がわれる。




本堂

本堂は真新しく建てかえて間もなくの感じ、夏の終わりらしくサルスベリが咲き誇っていた。

境内の右隅にはこんもりと木立がありその中に杉の木があり茶色の案内板がたっていた。




案内板には「林阿彌が首検証命ぜられ後供養した所。

供養杉は伊勢湾台風で枯れ2代目の杉である」とあった。

杉は径20cm程のものである。



案内板

杉の傍に「今川義元公首検証之跡」という石碑があり、「永禄3年5月、此の付近に

於いて林阿弥が今川家の首検証を命ぜられた所」と記されていた。


*林阿弥 (りんあみ):今川氏に仕え、1560年5月今川義元に従って上洛の途につくが桶狭間で信長に義元が討たれ、

自身も捕縛され、義元ら諸将の首検証を命ぜられ、その後、釈放されて義元の菩提を弔ったとされる。

首級(くび)は、その後、最後まで抵抗した今川勢の鳴海城(名古屋市)城主・岡部元信が織田信長と交渉し

首級と引換で城を明け渡し、駿河へと持ち帰ったと伝えられている。



今川義元公首検証之跡の碑





寺内に建つ桶狭間合戦供養塔

慰霊塔に参り寺を出る。 


昔、寺の前を南北に流れる鞍流瀬川があり合戦場の田楽坪の先から流れていた。

当時は戦いにより人馬の血と雷雨で、この小川が真赤に染まり馬の鞍・鎧などが流れ

その戦いの激しさは言を絶したと言う。 それで、この川を鞍流瀬川と呼ぶようになったそうだ。



現在の鞍流瀬川、先に鞍流瀬川橋がある。

この寺の前の鞍流瀬川に合戦の戦死者を寺の阿弥陀仏に託す為、浄土橋を造り

極楽浄土を願ったが、今は開発により埋め立てられ川は一部が残っている。



鞍流瀬川と浄土橋の由来碑

この後、神明社へ行こうと思っていると、地元の子供が来たので訊ねてみると、

近いから一緒に行ってやろうと言う。 折角の親切に、あまえて同行してもらうこととする。

大池に沿って西に進む。 彼らが神明社に何があるのかと訊ねるので、

「桶狭間の戦い」知っている? と聞くと、知ってる! 桶狭間の戦に縁のある神社だろ?

 と聞くと、ふーん、と何も関心を示さない。 彼等は中学生で、何も興味がないようだった。

考えてみれば自分も同じ様に中学生の頃は歴史など興味もなかったな〜

やがて神明社の前に来ると、ここを上がって行って下さい! と言って彼等は立ち去った。



案内してくれた中学生達





神明神社

こんもりとした茂みを貫けると境内が広がり、中央に拝殿があり、参拝者は見かけなかった。

綺麗に掃除がされ、社もよく整備されていて、氏子の守が行き届いているようだ。




神明社は天照大神のご祭神で、南北朝の1340年代、南朝の落武者が桶狭間に隠れ住み

その人々が祀りだしたと伝えられている。 桶狭間の戦いでは今川軍の先発隊・瀬名氏俊が

武運を祈願したとされ、その後は元禄年間に尾張4代藩主・徳川吉通が参拝し神木を植樹している。




奥に見えるのが本殿

神明社を出て大池の方に戻り、JA桶狭間支店の隣にある「戦評の松」による。

こちらは桶狭間の合戦の時、今川義元の先発隊・瀬名氏俊が武将を集め

評議をしたと伝えられている所である。



史跡「戦評の松」






「戦評の松」案内板





戦評の松の碑

松ノ木の根っこが「戦評の松」の碑の横にむき出しになり残っていた。


桶狭間の古戦場は、2ヶ所あり、ここから北東に600m程の豊明市の国道1号線沿いにも「国指定史跡桶狭間古戦場伝説地」があり、

こちらは桶狭間の地名は残っていないが、義元の墓や義元の本陣跡の碑などがある。 しかし、真偽の程は定かでない。 

何れにしても大勢の兵が追っかけたり、追われたりして戦えば、広範囲に広がり豊明とは600m程度の距離であり、

この辺り一帯に屍は散らばり、両地域が戦場となったのであろう。

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