シ リ ー ズ − 【 美 術 と 岩 内 】

 

  美術と岩内(2)  
 
 
 

― 錦絵に描かれた岩内 ―

 錦絵は江戸中期の 1765 年に絵師鈴木春信によって多色刷の浮世絵として考案されました。従来の簡単な木版画の方式から多数の色彩を適切な簡所に応じて摺りあげるという技法をあみだしたのです。錦絵は広く庶民に受け入れられ、美人画、役者絵、風景画として商品化され、明治期まで絵師は時代を写し出す記録者として活躍しました。浮世絵は海外でも評価されています。

 1870 (明治 3 )年に岩内の雷電が錦絵に描かれています。徳川幕府が崩壊したあと、新政府は薩摩と長州が中心となり体制づくりが行われるなかで浄土真宗東本願寺は幕府に協力していたとして処分すべきとの意見が起こります。東本願寺 21 代の厳如上人は、朝廷に赤誠を示し米四千俵、金壱萬八千両を献納しますが、新政府はさらに北海道の開拓を言い渡します。厳如上人は 54 歳で老人格となっていたので、 19 歳の現如上人に北海道開拓の要務が任ぜられました。

    明治 3 年 2 月現如上人一行は「新道の切り拓き」「農民の移住奨励」「教化活動」のためと開拓の旅に出ました。 7 月 7 日に函館に到着し、 11 日函館を出発、長万部―黒松内―歌棄―磯谷―雷電峠を越え―湯之岱― 1859 (安政 6 )年に創立された岩内御坊智恵光寺のある岩内で一泊、―根森―峠の下―余市山道―余市―小樽と長旅をし 7 月 24 日に札幌に到着しました。途中の雷電越の図は急峻な峠で馬が谷底へ落ちるというものです。雷電越の苦難が伝わる錦絵です。帰路は長万部―大野―江差―松前―福島と日本海沿岸回りで函館へと戻りました。この道中が錦絵となりました。函館港、落部村、山越村、訓縫、歌棄、雷電越、余市、銭箱、札幌本庁、渡島帰帆、新道切開図の二十枚が「現如上人開拓図」として東京甘泉堂より発行されました。絵師は、一曜斉国輝、一立斉広重(三代目)、一鮮斉永濯です。三代目広重はのちに「内国勧業博覧会美術館之図」を描いています。本願寺の新道は四本拓かれました。軍川から駒ヶ岳を抜け砂原へ出るもの。大野村から鶉村への江差街道、山鼻から発垂別(川沿)への道、そして中山峠を越え伊達村尾去別への本願寺街道が切り拓かれました。陸路で岩内は重要な中継地だったのです。

(R.M)
 
 
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美術と岩内(1)