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  かかとの高い靴やサンダルでどこへでも行く。なので、ヴィクトリア朝の淑女たちがベールを巻いたくらいの格好でピラミッドに登りまくったという話を聞いたら確かめずにはいられなくなった。噂の発生源は「トーマス・クックの旅」である。
  これが予想以上に面白い本だった。イギリス中がアル中っぽかった頃の話で、トーマス・クックは禁酒大会への日帰り団体旅行を大成功させたことによって国内の団体旅行を次々と依頼されることになる。本業は家具師でありながら極めて熱心な禁酒活動家でもあったトーマス・クックは、酒びたりの労働者に健全な娯楽を提供しようとがんばってるうちについには世界有数の旅行代理店を作り上げてしまうのだ。
  トーマス・クックはイギリスの観光客をどこへでも安価で送り込んだ。上流階級の特権であった旅は侵食され、トーマス・クック率いるパック・ツアーから逃れるべく辺境へ向かっても、ほどなく無遠慮無作法な団体がのこのこ押し寄せてきた。上流の人々はたまったもんじゃない。しかし、上流階級及び観光地から非難を浴びても、庶民の旅行についてトーマス・クックの考えは揺らがなかったようだ。

 トーマス・クックは観光の効用について次のように述べている。
  「偉大な道徳的・社会的な教訓を繰り返し教え込まれたのです。驚くべき熱心さで歴史と地理を現場で学びました。党派的・政治的な偏狭さは致命傷を受けました。自然の偉大さの中で名前や党派心は失われたのです。私たちの手配がなかったら見知らぬ他人で終わったはずの人々の間に知己が生まれ、友情あるつきあいが始まりました」

 どうやら本気で言っていたらしい勤勉誠実な男のツアーである。たとえ赤字を出そうともお客に快適な旅を提供するための数々の配慮と発想と実行力があり、実績による信用があった。ゆえにイギリス国内では窮屈極まりない生活を強いられていたか弱き淑女たちもトーマス・クックのツアーならば一人で参加し、大いにはめをはずすこともできたらしい。著者など砂漠の旅にもまったくへこたれない淑女たちのタフさ加減に本国では猫をかぶっていたとしか思えないとまで書いている。トーマス・クックの文章はこうだ。

 「現在の流行である華美な服装は、崖をのぼったりする時には、女性を困惑させることもあるかもしれませんが、それでも一切の困難をものともせずにやり抜くのです」

 それはやり抜くでしょうけれども、崖!。ピラミッドなんかさくさく登れる巨大な階段でしかなかったでしょうとも。びっくりしつつおかしい。あきれつつたのもしい。
 トーマス・クック社は、トーマス・クックの理想とは対照的にその息子の経営方針により王侯貴族や富裕層を顧客としてどんどん発展してゆく。父と子の対立は残念なことだが、時代背景を交えて語られる旅の手配ぶりや会社の拡大は心躍るものだった。絶版中なのがほんとに惜しい。 
 

 

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