位階俸禄
大化の改新

 まず初めに確たる制度を定めて、世襲の廃止に手を付けたのが推古天皇の御代でした。推古天皇の11年に政治改革が興り、その際の法制整備では有名な「十七条憲法」と同時にこれまた有名な「冠位十二階の制」が布かれ、その功績によって冠位が与えられました。これによって、それまでの能力が低くても先祖の功績によって身分が保障されるという弊害が改められました。
 位階は12あり、冠位の名を徳・仁・礼・信・義・智として紫・青・赤・黄・白・黒の冠(大和では頭巾を冠としていたようです)にそれぞれ濃淡で大小を現して12位としました。

 さて孝徳天皇の3年(大化3年)、絶大な権勢を誇っていた蘇我氏が滅ぼされると、朝廷の制度改革が始まりました。冠位の12階に少々手を加え、織・繍・紫・錦・青・黒に各大小、更に建武という位を追加して13階となりました。
 しかし政治が安定してきても国家が膨張したために官人が足りなくなり、僅か2年後の大化5年には織・繍・紫(ここまでは大小のみ)・華・山・乙(各大小と上下・一例「大華下」)・最下位に立身の合計19階位となりました。

 上代から律令制まで

 位階が正・従一〜八位と大少初位に四位以下は各上下と決まったのは大宝令からで、それまでは屡々位階の名称や数が変更されていました。
 上古はその家柄、治世の功績などによって大臣(おおおみ)、連(むらじ)、曲部(かきべ:べのたみ)、国造(くにのみやつこ)などに任ぜられ、これを世襲しました。また、大陸の優れた文化を取り入れるために渡来人はその多くが官につきました。しかし特に定員はなく、人数も世襲制があったために徐々に増えていきました。
 その上、豪族連合の上古では官を賜っても天皇(当時は大王)の勢力と拮抗する者も多く、大和を一つに纏めることがなかなか難しかったようです。
 簡単に追っていきますと、
 大臣は執政で政治の中心にあり、武内宿禰の子孫である巨勢(許勢:こせ)、平群(へぐり)、蘇我、葛城氏らが任ぜられました。
 大連は同じく執政で様々の建言などを行います。大伴、物部の両氏が任ぜられました。また大伴氏と物部氏は武官をも兼ねており、久米(来目:くめ)部、靱負(ゆげい)部、太刀佩(たちはき)部などの兵を引き連れて大王の護衛をしました。
 門部は、前掲の久米、靱負部、太刀佩部などから宮門の護衛に選びました。
 以下に諸官を挙げますが、多くが律令制の官名の基盤となりました。
 祭祀系では神祇伯、中臣連、忌部連、卜部、祝部、巫部、神麻績部、玉造連、鏡作連など、大王の周辺のことなどは膳臣、掃守連、大炊部、多米連、酒部君、水取造、服部造、倭文部、衣縫部、錦部、車持公など、職工では土師臣、爪工連、鍛部、弓削部、矢作部、盾縫部、鞍部、陶部、石造部、その他内蔵、大蔵、舂米(つきしね)部などなど、まだ書ききれないほどありました。

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大宝令の官位

 全貌を先に述べますと、親王4階、諸王14階、諸臣30階となります。

 親王は一〜四品(ほん)、しかし親王でも位階を賜らない方もいらっしゃいまして、無品(むほんの)親王と呼ばれました。
 その他の官位は、一〜三位までは正・従が先に付き(一例「従三位」)、四〜八位は正・従が先、上・下が後に付きました(一例「正五位下」「従七位上」)。一番下に初位があり、これも正・従が先、上・下が後に付きました。
 これらの官位は品位と初位をのぞいて現代にも残っております。

 天皇家の内戚である諸王は六位以下に落ちることはなく、正・従一〜三位までと正・従四〜五位上・下の計14階でした。

 官位の読みには和名と漢風の二通りあり、「正」は和名で「おおい」「おおし」・漢風では「しょう」、「従」は和名で「ひろい」「ひろし」・漢風では「じゅ」、一例で言うと和名では「正一位」は「おおしいちのくらい」、漢風では「従五位上」は「じゅごいじょう」でした。漢風について一つだけ例外があり、「従三位」についてのみ「じゅさんい」ではなく「じゅさんみ」と呼びました。
 和名で「正」「従」に「おおい」「ひろい」の読みとしておりますが、語源は天智帝の頃の「大」「広」の読みをそのまま使用したと思われます。

神主の官位 (おまけ)

 各神社の古い資料に、国司守や介などに任ぜられたようなことを書いたものが結構残っております。これ自体重要な資料なのでありますが、実はこの官位と思われるもののほとんどが偽物です。大半は神祇官代を名乗る吉田家が出した宗源宣旨というもので、陛下の裁可を得ていません。だから「〜國頭(本当なら守)」「〜國助(本当なら介)」などというありもしない名前なのです。多少学んだ人なら、「あれ?」とすぐわかるでしょう。
 たちが悪いのが、江戸幕府が吉田家に奏上の権利を与えてしまったことです。吉田家はこれを利用して、奏上もしないで全国の神主に大金で偽資格を与えていました。責任は、徳川狸にあると言えましょう。(ひょっとして狸は神社制度に明るくなかったのかも…。ということは天海が口車に?いずれにしても大金は動いていたでしょう。)
 力がある神社では、諸社禰宜神主諸法度の通り公卿を使って官位を得ていたので問題有りませんでした。

 つまり、中世末期から近世の大半の小さな神社神主は大金を積んで偽官位をつかませられていたのです。情けない…。まあ、資料としては貴重なものですので…。

 天智天皇の3年(天智天皇から天武天皇13年までの3代は、国内が混乱していたため元号が無い)、織・繍・紫は同じく大小のみ、錦・山・乙に大小と上中下(一例「小錦中」「大乙上」)、建に大小の26階となりました。
 天智天皇が崩御され、弘文天皇が即位なさいますとすぐに天武天皇が皇位を奪い、国政にも大改革を施されました。
 官位は更に増加し、明(大・広に各一・二:一例「明広一」)・浄・正・直・勤・務・追・進(各大・広に壱・弐・参・肆:一例「大正参」「広勤肆」)の60階に膨れあがりました。裏返して言えば、産業の発展と制度の落ち着きにより人口が増え、職務が増加したために官人の数が不足したと言うことでしょう。
 さて、ここで冠位とせずに官位としたのは、このころから冠を賜うことが廃止されたからです。
 天武天皇の御代の制度が、後の大宝令の官制の基盤となっていきました。