官位の授与は、朝廷からされるものですから、基本的には天皇陛下がくださると言うことになります。しかし何万にも上る人に天皇陛下御自ら下さるわけにも参りませんし、身分的に陛下の御前に出られない者もおります。
 そこで正一位から従五位下までは、天皇陛下から直接位階をいただきます。これを勅授と申します。勅授を受けた者は大夫と呼ばれる習わしがあり、堂上に上がる権利を持ちます。位記には、内印という「天皇御璽」と彫られた印が押されます。
 正六位上から正八位下までを奏授といいまして、叙位される人々の名を書して陛下にご覧いただきました。それ以下については太政大臣が判署することとなっていました。
 但し、外官(地方官)については、奏授は従七位下以上となっておりました。

 位記には、文官と武官での違いがあり、文官の位記には大臣と納言、式部省の役人が連署し、武官のものにはこれに兵部省の役人が連署しました。
 後ほど述べますが、官位には相当の官職があり、基本的には官位が低いとなれない職が多くありました。
俸禄表
大宝律令トップ
四部官(四等官)
 すべての役所は、四つに分けた職分とそれ以下の無位の人々でなっておりました。この制度は極めて完成されたもので、現代でもその形は随所に残っております。
 則ち役所の責任者を長官(かみ)、次を次官(すけ)、役所内を取り締まり、糺す役を判官(じょう)、各種事務を執り行う者を主典(さかん)の四種とし、役員として官位が付せられました。ごく一部の例外を除いてすべての役職は、どのような字を充てようと括弧内の読み方をしました。例「内匠頭:たくみのかみ」「左衛門尉:さえもんのじょう」また、例外「蔵人頭:くらんどのとう」「検非違使判官:けびいしほうがん」
補任
 役職に補任せらるる儀式を除目と云い、これを二つに大別すると司召と県召となります。司召とは都の内の役所則ち「京官」を任ずる儀式で、元は立春以降、後には秋に執り行われました。また県召とは「外官」(地方官)を任ずる儀式で、正月十一日から三日間のうちに執り行われました。しかし後には春と秋の二回へと変更されました。外官への任官は、国司の守でもない限りたいていの人が落胆したといいます。
 役職に補任せらるることを「任官」「拝任」といいました。多くは次の役職のことが伝わってきて、事前にある程度のことはわかるものですが、急な辞令の場合は大騒ぎとなるのが常だったようです。大臣についてのみ、任官前に「兼宣旨」というものが下され、あわてずにいられました。

 役職が上がることを転任、文官から武官へ・外官から京官へと上各の部署へ移ることを遷任といい、目上の人から推挙せられて上がることを推任、役職を複数持つことを兼帯・兼任・兼官などといいました。兼帯の場合は公文にも「兼」の文字が入りました。
 辞職後に再び同じ役職に就くことを再任や還任、還補といい、短期間官職を離れることを停任といいました。官を辞したり解かれたりすることを解官、年を取って辞職することを致仕といいました。また、任期満了後も後任者が赴任するまで止まることを延任、次期も任ぜらることを重任といいました。

 宮中では、服喪・血の災い(穢れ)・病の穢れ(病は罪や穢れから来ると思われていた。)を重視していたため、服喪について出仕できない(当時は喪中となると一〜三ヶ月は門を閉じていた)場合は服外といって長期に亘って官職に穴が開き、喪が明け除服して出仕すれば復任しました。「忌み」に関する考え方は、現代の感覚では考えられないほど厳しく、官の内の祭に於いても凡そ祭を挟む1ヶ月は人を裁くことは禁じられ、葬儀参列はおろか病人の見舞いすら嫌われました。牛車で参内中犬の死骸を見ただけで祓えをしたと言われます。
官位相当
 位階に対しての就任できる官職は、大体ですが決まっておりました。これを官位相当と言います。大体とは言いましたが、これを大きく逸脱することはあまりありませんでした。しかし多くの官人を抱えていると、能力が高いのにまだ位階が足りない、位階が高いがその人に適任な部署は下の位にあるといった事例は出てきます。その場合はやむを得ず「守」「行」と言う字を官職名の上に記しました。役職の方が上で位階が足りない者には「守」を、位階の方が先行しているものを「行」としました。一例「従四位上行神祇伯臣大中臣朝臣安則」
 細かい官位相当は、各官省職寮司に記しますので、ここでは省きます。

身分の差
 位階によってその権利も大きく違いました。まず一位から三位まではまったく扱いが変わり、公卿の列に入っており常に朝議に参列しました。
 五位と六位の間にも大きな差があり、五位以上は大夫と呼ばれ、昇殿することが許されておりましたが、六位以下では余程のことがないかぎり昇殿できませんでした。
 後には大夫という言葉は五位の者にだけ使われるようになりました。また、「令義解」には五位以上になることを「通貴」と言うとあります。やはり世間の人の見方も違ったのでしょう。別に五位以上になることを叙爵といい、五位自体を栄爵とも言います。殿上に上がることができることから殿上人とも言います。
 六位以下は地下人といいました。
 左の写真が、衣冠です。神主は官職を持たないため、腹部中央より下がる幅5寸程度の平緒を下げません。
 また、武官は冠の掛緒(顎紐)のこめかみあたりにおいかけという2寸くらいの扇状の物を付けます。
 帯は石帯、袴は下のふくらんだ奴袴、足下は足袋ではなくしとうずに浅沓を履きます。笏は5位以上が持ちます
 冠の掛緒は、武官もしくは特に勅許が無い限り付けることができず、巾子(こじ:髷をいれる筒状の部分)に簪で冠を固定しました。このほうが掛緒で固定するより安定性が良く、落ちることがありません。
 官位と服装

 朝廷に出仕する際には、官位に対して決まった色の服装をして行かなくてはなりませんでした。
 まず、着るものは七位まで束帯。八位以下は白い布衣(ほい)。武官に関して六位以下は藁袴でした。
 宿直(とのい)の時は、衣冠という幾分略した服装になりました。大きな神社のお祭りなどで神主が着ている服装です。もっとも略装とは言っても一揃いで10キロもあるようなもので、着慣れた私も着装に10分以上かかります。これも束帯と同じ色の物を着装します。
 しかし、束帯も衣冠も動きづらく、後に束帯は大礼や節会の時のみとなり、通常の朝廷では衣冠で宜しい、となりました。
叙位・補任
 これら束帯と衣冠は身分によって色が定められておりました。
 一位と二位は黒色、三位は紫、四位は濃い赤色、五位は薄い赤色、六位は濃い縹(はなだ:みどり=実質的に現代の青色)、七位は薄い縹、八位以下は黄色の布衣(ほい:布製の狩衣)となっておりました。しかし四位の濃い赤は暗い場所では紫に近く見えることと卿に任ぜらるるなど身分的に十分であることから紫を着るようになり、さらには一位から四位はすべて黒色になってしまいました。
 上衣たる袍には闕腋(腋が開いている)と縫腋(腋が縫ってある)があり、闕腋は武官が動きやすくあるよう、とされてました。
 冠には有紋と無紋があり、有紋は五位以上が付けられました。紋は全体に鏤めてあり、後ろに下がる嬰(えい)にまで入っていました。また冠の額(甲)は成人している者は大きく、未成人は小さい物でした。
 位階俸禄のトップ頁で位階の沿革と概要を挙げましたが、この頁では、叙位(位を賜ること)と補任(官職を賜ること)、許可される服装について説明します。