神祇官
 平安時代の官制で、(形の上で)もっとも上位に来るのが、神祇官でした。実質的には長官の官位も高くなく、名目上であるというのが実相ですが。
 その職務内容は、国家の祭典を司り、全国の祝(はふり。今で言う神主。)を支配・管理するというものです。祭政一致の当時の感覚では、神拝行事が最優先されたためにもっとも重要な部署とされました。「職原抄」という書物にも、「神国の風儀、天神地祇を重んずるの故なり」とあります。
 しかし、先に挙げましたとおり専門職であるために予算規模・人員共に太政官より遙かに小さい役所で、神祇伯の地位からもわかるとおり太政官から指示を受けて祭儀をこなしていたようです。
神祇官の有名無実化

 神祇官自体は、戦乱の世から江戸時代を通じて明治の御一新まで廃止されることなく存在しました。しかし平安時代末期以降朝廷の権威が失墜し、限られた財政の中では班幣(宮中の祭典に際して全国の官国幣社に天皇陛下や国家から絹の布が奉納される行事)等の重要な儀式ができなくなり、最終的には宮中の八神殿の守護の他、全国の神主に免状と官位を与えるだけの存在となってしまいました。
 更に室町時代の応仁の乱で宮中の八神殿が焼失してしまい、卜部氏(当時はすでに吉田氏と称していた。以後吉田氏と称する)が勢力を持っていた吉田神社に八神殿の御霊が移され、以後明治の御一新まで八神殿が宮中に再興されず、吉田神社に仮遷座されたままでした。もともと吉田氏は、神祇官の役人でしたから、自分の神社に八神殿が存在するので自分が正当として神祇伯白川家を通さずに神主を自由に任免・叙位しました。もっとも、神主の任免は別として叙位の方はいいかげんで、実際に天皇陛下に奏上したものは1割に満たなかったようです。ですから「大炊守」とか「陸奥助」などといった実在しない官職名が乱発されました。
その後の神祇官

 明治の御代に入ると、王政復古により古代のような政治形態に戻そうと神祇官・八神殿も復活されましたが、王政復古は近代化に適さないとして大きく進路が変更され、暫く残っていた神祇官も予算的制約もあり、廃止されてしまいました。無論仏教の某宗派からの圧力があったことも大きな原因となっております。最後には神社は文部省管轄下になり、やっと内務省に移管されたと思ったら終戦でした。
官制

 神祇官の長官は「伯」。通常は、どのような字でも「かみ」と読みますが、神祇官は特例で「はく」と呼びました。ですから「神祇伯」と記載・呼称されます。官位相当は従四位下で、もっとも高位の役所の割には他の省の卿(現在で言う大臣)と同じでした。この官位の低さは、実際問題上国政に致命的な影響を与えるわけではないので高位とする必要がなかったからでしょう。

 以下次官は大副・少副・権少副、判官は大佑・少佑、主典は大史・少史、四等官以下が神戸・卜部、宮主、御巫、戸坐でした。この中で官位を有するものは四等官に含まれる少史までした。
長官

 長官たる伯の役職は創設当時は世襲や門閥性が全くなく、色々な氏族の人が任命されておりました。しかし花山天皇の御代に皇子清仁親王の御子で延信王が補任されてからは、延信王の子孫が世襲するようになりました。何代かは王氏として苗字がありませんでしたが、後に臣籍降下して白川姓を名乗られるようになりました。故に「伯白川家」と申します。
次官以下の四等官

 大副・少副と権少副は就任できる家系が大体決まっており、それぞれ中臣氏・齋部/忌部氏・卜部/吉田氏の散位(官位を有するが特に役職を持たない人)の中から補任されましたが、大佑以下の職は諸氏がなることができました。
 しかし、これは実質的には中臣・齋部・卜部氏以外は、次官クラスに上れないと言うことを意味しております。
 職掌は、主に神祇官内の事務でした。
四等官に入らない役職

 神戸(かんべ)は全国に散らばる忌部氏や中臣氏の末裔を束ねて神祇官を支えておりました。
 卜部(うらべ)は卜術(亀の甲羅や鹿の肩胛骨などを使った占い)に優れる者を伊豆から5人、壱岐から5人、対馬から10人、都に召しだして亀卜などの国家の占いをしていました。職掌は亀卜の他に大祓・祭事の供奉・雑務などでした。特に陰陽道系の祭りを奉仕しておりました。

 宮主(みやぬし)は卜部20人の中から選ばれ、大宮主(内宮主:天皇の宮主)、中宮宮主、東宮宮主、齋宮寮宮主、齋院司宮主の5人と亀卜長上2人の計7名でした。卜部氏であれば4等官の中からも兼帯することもありました。卜部から選ばれる者ですから、その職掌はほぼ同じですが、各職の祭事にも奉仕するという点が違いました。
 宮主はその職掌上高貴な身分の方に近づくこともあり、四等官に属しないながら位階を持つ者が多くいました。

 御巫(みかんなぎ)は、簡単に言ってしまえば巫女のことです。現在の内掌典のようなものです。

 戸座は、七歳以上の子供から占いによって選ばれました。

 以下専門職として神琴師という職もあり、祭事に際して和琴を引きました。下に権神琴師、神琴生があり、神琴を錬成していました。

 他に役人として、主典である史の下に官掌(かじょう)、使部、直丁があり、事務や雑用を執り行いました。
 卜部氏は卜占を主務とすることから占いを重視する当時の宮中では、低い官位の割に絶大な信頼を勝ち取ることができました。これを背景に卜部氏は着々と神祇官内の権勢を強めると共に、世襲の禁止も亀卜の大家といわれる伊豆の卜部平麻呂が中心となってからはうやむやになり、遂には副・佑・史の各職をほぼ独占してしまいました。この流れは止まらず、室町時代には大副・少副を完全に世襲、応仁の乱以降は伯以外を独占して神祇官代を称するようになりました。これはある意味やむを得ないことで、戦乱で神祇官の役所が焼け落ちてしまったからでありました。こうして卜部/吉田氏は全国の神主の8〜9割を傘下に収めたのです。
 神主の立場から言って、伯白川式と吉田式は祭式等については大きな違いはありませんが、その考え方と紙垂(しで:しめ縄などに垂らす半紙などで作ったもの)の作り方に違いがありました。
 左が吉田式の紙垂、右が伯白川式の紙垂。
  四部官    長官    次官    〃    〃    〃
   職名     伯    大副   権大副    少副   権少副
   官位   従4位下   従5位下   従5位下   正6位上   正6位下
  四部官    判官     〃    主典    〃
   職名    大佑    少佑    大史    少史
   官位   従6位上   従6位下   正8位下   従8位上
神祇官官階表
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