浮き草 第1回




森亜人《もり・あじん》

     一

 雑音のほうが大きく聞こえるラジオを囲んで数人の大人たちが泣いていた。そこへ流一の姉のてる美が教科書を包んだ風呂敷包を抱えて、息を弾ませながら興奮ぎみに駆け込んでくるなり

「戦争、きょうでおしまいだって。これからは自由な国になるんだって。でも、女の人や子供たちは夕方になったら外にいると進駐軍に掴まるから家の中で静かにしていろって」

 と甲高い声を張り上げた。

 昭和二十年八月十五日。戦争の恐ろしさを知らないかのように、信州の空は夏の太陽で輝き、はけで掃いたような白い雲がぽっかりと浮かんでいた。

 戦地へ出征している父を除き、祖父母と親子三人が戦火に追われ、ひっそりと暮している諏訪の田宿の上に広がる空も間違いなく明るかった。

 流一は、その場の重苦しい雰囲気から逃げるように、道を一つ隔てた八剣神社の境内に出ていった。

 社殿は小さいが、由緒のある神社で、八千戈神(大国主命)を御神体と崇め、第十五代応神天皇が祭られていた。

 その昔は違う場所に建てられていたが、高島城築城の折、田宿に移転したもので、既に四百年近くにもなる。

 流一は十字路に立って通りのあちらこちらを眺め渡したが、人ひとり歩いているものなどいなかった。ラジオのない家の者はラジオのある家に行って、天皇陛下の話を聞いているはずだった。

 流一は六歳になっていた。近所の同年の子供に比べるとかなり体は小さく、どことなくひ弱でいつも腹ばかり下していた。戦中戦後の食料難のため、彼も姉も白い飯をふうふう吹きながら食べたことなどとっくに忘れていた。

 流一は子供たちの多くが持っているような分別くささは持っていないにしても、祖父母の泣くのが許せなかった。大阪の堂島に住んでいたとき、近所の知り合いの人が敵機の撒き散らしていった焼夷弾の黒煙で真っ黒な顔をして死んでいるのを見ても泣かなかったし、防空壕から出てみると広い範囲で空を焦がしているのを見ても涙ひとつ落さなかった。それなのに、天皇陛下が戦争に負けたことを言ったくらいで泣くなんて、流一には許せなかったのだ。

 八剣神社の境内にも誰ひとりいなかった。いつもなら近所の子供たちが戦争ごっこをしているのに、子供たちまでが天皇陛下の話を聞いているのかと思うと、自分だけこんなところにいることが悪いことのようで、思わずあたりを見まわしてしまった。

 頭上ではアブラゼミの声が熱気を震わせていた。流一はアブラゼミの鳴いているあたりを目がけて小石を投げてみたが、枝にぶつかってすぐ目の前に落ちてきただけで、蝉の声は止まらなかった。そのとき通りの向かいにある家の二階の窓が開いて、流一より三つ四つ年上のいがぐり頭が覗いて

「おおい流ちゃん、そんなところで何してる」

 と怒鳴った。

 周囲は蝉の声ばかりだったので、その子の声は神社の建物に反響し、高い梢を抜けてぎらぎら輝いている空の彼方へ吸い込まれていった。

 流一がびっくりしてそのほうを黙ったまま見上げると

「一人でいると鬼畜米英に掴まるぞ」

 と言って、舌をぺろりと出して頭を引っ込めた。

 流一は、男の子の影もない窓に向かって

「そなことあらへん」と怒鳴り返してやった。すると

「そなことあらへん…そなことあらへん」

 と、男の子の姉らしい声で、流一の口調をまねているのが、密生している葉のすきまを縫って聞こえてきた。

 戦火に追われて大阪から引き揚げてきたばかりの流一の話し方は、ここいらでは珍しいらしく、子供たちによくまねをされた。祖父の姪の家に落ち着く前までは、あちらこちらと居を変えてばかりいた。毎日のように爆撃に怯えて暮していた大阪での生活からすれば、諏訪は良いところだと思った。飛行機もこないし、防空壕に逃げ込むこともなかった。

 流一の家族は田舎に引き揚げてくる前までは、大阪市北区堂島中町二丁目三十九番地の二階家が住所だった。

 流一は堂島の友達をよく思い出した。夢にも見た。

 電機工という工場の庭でボール投げや戦争ごっこをしたものだった。流一は、いつも斥候の役で、しかも色が黒かったため鬼畜米英の役しか与えられなかった。日本軍の仕掛けた地雷に触れてすぐ死ぬ役しかもらえなかった。ときおり日本軍に入れてもらえることもあったが、前線部隊ではなく、弾丸を運ぶ役だった。それをさしてつまらない役とも思わなかった。

 いつも遊び場にしている電機工に、流一より十歳ばかり年長の女工がいた。その人が何という名であったか覚えていないが、姉とは違う優しさを持った人だったと、その人の澄んだ瞳と共に記憶している。

 彼女は流一を可愛がってくれ、こっそり飴玉をくれたり、芋を焼いてくれたりした。いつも目が笑っていて、流一は彼女を「おねえさん」と呼んでいた。

 流一は、おねえさんのことを思い出すと、必ず文次という十六か十七になる男を憎しみの心で思い出すのだった。

 五月末の暖かい日だったと記憶している。珍しく空襲警報のサイレンもならない日だった。流一はテニスボールを無くしてしまい、夕方も暗くなるまで叢を這って捜しまわった。防空壕の裏手に這い進んでいったとき、目の前に脚が二本にょきっと生えているのに驚いて思わず立とうとした。が、頭の上で男の声がしたので流一は叢に身を沈めた。

「おい、これをやるから誰にも言うな」

 それは文次の大人びた声だった。どういうわけか知らないが、お国のために工場へも行かずに家にいて、流一たちを掴まえては威張っている男だった。流一は彼に見つかることを恐れ、亀のように首を縮めて草の茂った中に潜んでいた。

 文次が誰かに抑えつけるような声で、「誰にも言うな」と念を押して逃げるように草をがさがさ鳴らして駆け去った。流一は文次の足音がすっかり聞こえなくなったのをたしかめてから首を恐る恐る上げてみた。

 おねえさんがうずくまって泣いていた。夕明りの中で、両手を顔に押し当てて泣いていた。濡れた頬と手のひらのあいだに一円紙幣二枚が挟まっていた。流一は、そのおねえさんがいつも自分を可愛がってくれている電機工のおねえさんとわかると、鉄柵を越えて走り去っていった文次に対して激しい怒りを覚え

「おねえちゃん、文次がいじめたんか」と小さな拳を震わせながら立ち上がった。

 おねえさんは流一の出現に肩をぴくりとさせて、「あっ」と叫んだが、何か流一の様子を窺うようにしてから

「ぼんか、ぼんやったんか」

 と呟くように言った。

 濡れたその瞳は物言いたげに流一の目を見つめていた。

「なあぼん、ぼんはそこでずうっと見てはったんか」

 おねえさんは不安の色を浮かべていた。

 流一は、また石を拾うと、さっきより太い立木を目がけて投げつけた。蝉の騒がしい声と、立木に命中した鈍い音がもの淋しく聞こえた。流一は八剣神社と道路を区分している石段に腰をおろしておねえさんの言葉を思い出していた。

「ぼんはそこでずうっと見てはったんか」

 とたずねられたとき、首を横に強く振ったが、もし縦に振ったらおねえさんはどうしたろうかと、ふと思ってみた。

 あのときのおねえさんはどうしているだろうか。名古屋まで逃げてきたとき、堂島は全部やられてしまったと祖父母が話していた。どんなに空襲でやられてもおねえさんが死ぬとは流一には思えなかった。憎い文次もどうしているだろうか。きっとあいつもどこかへ逃げたに相違ないと、夏の明るい空を見上げて思った。

 あれから一年あまりしか経っていない。流一にはこの一年という時の流れがはっきりわからなかった。記憶が不鮮明なために、汽車に乗って名古屋に降りたのと、おねえさんの濡れた頬に挟まっていた一円札とどちらが先なのか大人ならすぐわかるところだが、流一は、どちらが先だったかたしかなものを持っていなかった。

 あの一円札二枚もどうなったろうか。おねえさんと別れるときは、二枚とも叢に落ちていた。翌日、偶然にテニスボールを見つけたときには、どこにも落ちていなかったように覚えている。

 流一は石段の上のほうに座っていたが、強い日射に負けて段の下のほうに降りてみた。石段の横に畳半畳ほどの幅で、神社の敷地いっぱいまで水田を模したものがある。そこに稲が揺れている。イナゴがその上で幾つも跳ねているのを、流一は飽きもせずに見ていた。

 どのくらいの時間が経過したであろうか。誰も通らなかった道路に、ちらほらと人の影が差すようになった。そのなかのある者は泣きながら通りすぎ、ある者は首を激しく横に振りながら、口の中でぶつぶつ言って、急ぎ足で歩いていた。


 諏訪湖の周囲に秋がやってきたかと思うと、ほどなく、紅葉が坂を転がるように里へ降りてきた。それまで祖父から聞かされてきた偉大な兵隊としての父親の存在が、突如として流一の心に大きな位置を占める日がやってきた。

 刈り入れも終わった空は澄み渡り、鴨の鋭い声が聞こえる晩秋、父は戦地から復員してきた。そのころの流一の家族は、八剣神社の横に江戸の昔から続いている祖父の姪の家の二階を借りていたが、そこへ父は復員してきた。

 しかし、父は席の温まる間も惜しんで、会社のある大阪へ戻っていった。天災のように忘れたころ諏訪へ戻ってきたが、日頃は大阪のどこにいるのか流一は知らなかった。

 やがて、祖父母は祖母の兄の家に、流一たちは並木通りにある母の姉の家に分かれて暮すようになった。祖父の姪の家に、内地召集されていた息子が帰ってきたため、家が狭くなったからであった。

 広い通りに面した伯母の家には、姉より三歳ほど年上の女を頭に、流一と同い年の男の子と、三つ四つ年下の女の子がいた。 男の子は目が細く、笑うと目を開いているのか閉じているのかわからないくらいだった。背丈は流一と同じくらいだったが、体つきは頑丈だったので、喧嘩をしても流一のほうが負けてばかりいた。

 女の美代子は諏訪高女に行っていたし、末の加代子は生まれてまだ間もなく、頭の後ろは老人のように禿ていた。誰もがその子を可愛がるので、従兄弟の喜代志はいつも膨れっ面をしていた。

 伯母の家の二階から流一は外の物音に釣られて通りを眺めることがある。通りは欅の巨木のたくましい枝や、植えて間もない桜の木が並木を作っていた。空色の車体に白い線の入ったバスや、オートバイがときおり大きな音を立てて通り過ぎていく。

 手拭いで頬被りした老人の引く荷車や、ねえさん被りの女が引くリヤカーのあいだを、肥桶を肩に担いでいる人が歩いているときもあった。ときおり流一も見たこともないような金ぴかの車も通ることもあった。

 夏のあいだ、密生していた欅の葉は道向かいの家の二階を隠していたが、秋の深まりと共に窓や屋根が見えるようになっていた。

 その家は石屋だった。流一が伯母の家の二階から見る度に、頭の白い老人が、石を刻んでいた。天気の続く日には、その家の二階の窓に綿のはみ出した蒲団が干してあり、たまに蒲団と同じような色のぶち猫を見ることもあった。

 斜め前に、流一の家とは遠い親戚に当る病院があり、ときどき髪を振り乱した若い女の入院患者が、げらげら笑いながら中から飛び出してくることもあった。その度に、流一は、あの病院とは親戚でなければよかったと思ったものである。

 伯母の家はラジオ屋をしていたが、流一たちがこの家に移ってきたころは、店を閉じていて、ラジオの部分品の壊れたものが少しばかり転がっているだけだった。

 伯父は電電公社に勤めていたが、流一の父親と違い、全てに優しく、喜代志との分け隔てなどしなかった。それが喜代志には面白くないらしく、しばしば流一に辛く当った。

 家の裏手に共同浴場がある。

 ある日、喜代志とその妹と共に母親たちと入りにいった。喜代志が湯の中で小便をしているのを流一が見つけ、そのことを伯母に言うと、いきなり喜代志は流一の頭を掴んで湯の中へ押し込み、上から乗ってきた。

 流一は湯をいやというほど飲まされ、母親に助けられて湯から引き上げられた。そんなにひどい目に合わされたにもかかわらず、喜代志は叱られもしなかった。そのことが流一には強い衝撃だった。

 諏訪へ引き上げて一年以上も過ぎていた。流一の脳裏から堂島の出来事は消え、ひたすら田舎の風景に解け込んでいった。


 晩秋、流一の家族は伯母の家から狭くてうす汚れた家の立て込んでいる西大手に移ってきた。祖父母もそれに合わせて祖母の兄の家からそこに引っ越してきた。

 古い材木を寄せ集めて建てた家は、狭い道路と臭いどぶ川に挟まれたうなぎの寝床のような家だった。しかも、敷地は北に向かって先細りしていて、南の端では三間半くらいある幅も、北の端では一間半くらいしかなかった。その先には近所十数軒が共有する水道の汲み場があり、朝な夕な、誰かれとなく水を汲みにきていた。

 流一たちの住む家は小さな台所と、六畳と八畳の和室、猫の額ほどの庭には東側に風呂場、西側に便所があった。そこに五人が暮すのだが、祖父母は八畳に、流一たちは六畳に寝ていた。戦争でほとんどの家具を失っていたので、暮すのにそれほど狭く感じなかった。

 そんな家でも流一は嬉しかった。喜代志にいじめられなくても済むし、伯母の家の二階に暮していたときは、いつも階下の伯母たちに気を遣っていなければならなかった。だから、たとえ狭い家でも、祖父母に叱られても自分の家だと思うと、思いきり跳ねまわることができた。

 どぶの東側は流一の家より一メートルも地所が高く、そのうえ更に流一の家を潰してしまうような大きな建物が聳えていた。建物の内部からは、しゅうしゅうという音や、重く腹にずしんとくるような響きが、家の中まで伝わってきた。

 最初、流一は、その音が恐ろしく、母ではあまり頼りにならないと思って、夜など祖父の寝床に潜り込んでいった。その音にも馴れたころ、一度でいいからその音の正体を知ろうと、石炭殻が積み上げられている構内に入っていって、破れたガラス窓から巨大な機関車の動くのを見た。

 真っ黒な機関車が大きなピストンを動かしてじりじりと進んでくる姿は、まるで自分に襲いかかってくるように思え、流一は身を縮めて家に逃げ帰ってきた。そして、二度と機関庫へ行くまいと思ったが、二日三日と日を過ごすうちに、今度こそ逃げ出すまいと決心して行ってみるのだが、やはり前と同じように身を縮めて逃げ帰った。

 姉は祖母に似た一重瞼のきつい目をした女の子だった。優しいときと意地悪なときとでは、あまりにも違う顔になった。ときには唇が裂けてしまうほどの大きな雪の塊をむりやり口に押し込まれたり、目の下から顎にかけて八本の爪の跡を付けられたりもした。その傾向は父の復員後から顕著になっていった。

 それに呼応するように祖母の折檻も激しさを増した。どうして自分だけ折檻を受けるのだろうかと思ったが、祖母のきつい目を見ると口に出すこともできなかった。祖父が 「やい、よせっちゅうに」

 と言っても、祖母は

「おじいさんは黙っておいで」

 と言って、流一に向ける目より鋭く祖父を睨むのだった。そう言われると祖父は何も言えず、禿頭を顔と一緒に撫でて横を向いてしまうのだった。

 流一は父親に一種の憧れを持っていた。軍服姿の凛凛しさを直接見たことはないが、幼年期の夢を膨らませていた。戦地で戦っていると祖父に聞かされたとき、全身に鳥肌の立つほど父に畏敬の念をいだいたものである。復員してきたとき、流一は父を初めて見る面持ちで仰ぎ見た。眼鏡の奥に光る目で敵を捜し、そいつらをやっつけてきたのかと眩しいものを感じた。しかし、その憧れはつまらぬことで色あせ、父を憎むようになった。

 久しぶりに父が帰ってきた。流一は父に逢うのを楽しみにしていたので、近所の子供たちより先に城跡の公園から帰ってきた。流一は父に逢ったら最初になんと挨拶すれば褒められるかと道々考えていた。口の中で思いつくままに言ってみたが、どれも流一を満足させる言葉ではなかった。

 角を曲がると家に明りがついていた。あの窓の中で父が流一の帰りを待っていてくれるのだと思うと、駆け出さずにはいられなかった。

 勢いよく玄関に飛び込んでいくと、そこに姉が座っていた。唇に指を当て、流一を押し出すように外へ出た。

「おとうさんは」

 流一は姉につめ寄るように言った。姉は何も言わず、霜焼けだらけの流一の手を握り締めて歩き出した。流一は父の様子をたずねたが、姉は貝のように口を堅く閉ざしたまま、流一が駆けてきた角を曲がって諏訪湖のほうへ歩いていった。

 二人は夕暮れの寒い町中を通り抜けて諏訪湖に出た。夕焼けに染まった波の玉が、吹き募る季節風のために岸の上まで弾き飛ばされていた。流一は、こんなに大きな波を諏訪湖で見たのは始めてだった。周囲の山は真っ白だった。流一は、黙ったまま湖の沖を見つめている姉の顔が、今まで見たこともない人のように思えた。一重瞼の奥に夕陽が揺れ、雫となって赤い頬に二つ三つ流れていた。

「どうしたんやおねえちゃん」

「…」

 いつも意地悪を言う姉の唇が震えていた。

「寒いんとちゃうんか…。もう帰ろう…」

 流一は、黙ったまま唇を震わせている姉に不気味なものを感じて、恐る恐る姉の手を引いた。

「流一…」

「なんや」

 それきりだった。姉はもう何も言うまいといったように首を振ると、もと来た道を引き返し始めた。

 少し行って振り返ると、岸を洗う波が大きく膨らんだり、視界から消えたりしていた。遠く、花岡山の頂が、強風に揺れていた。

 家に戻ると、黄色みを帯びた電燈の下に四人の大人が石仏のように座っていた。

 流一とてる美が食事に加わっても大人たちは無言だった。流一は皆の顔を見まわした。眉と眉の間に縦の皺を寄せて膝を小刻みに揺すっている父、ぷっと脹れた顔の母、目を伏せて箸を忙しそうに動かしている祖父、溜息ばかりついている祖母。それは父のいないときの食事風景ではなかった。おしゃべりな姉もぼんやり母の顔を見つめたり、父を盗み見たりしていた。

 流一もその場の空気にただならぬものを感じ、緊張した気分で食事をしていた。既に小学校三年になっている姉には、どうしてこのような重苦しい状態になっているか何となくわかっているらしく、ちょこちょこ動いてばかりいる流一の膝をぎゅっと押さえつけながら片目をつむってみせた。流一は、いつもの姉らしくない態度になおのこと落ち着きを失い、御飯茶碗を落してしまった。

 瞬間恐怖が背筋を走った。流一の体は激しく飛ばされていた。畏敬の心で見上げてきた父が仁王のような顔で流一を見おろしていた。流一は父の暴力の下で痛みと戦うより、尊敬してきた思いが崩れていくことに言い知れぬ悲しみを噛み締めていた。

 母は横を向いていた。祖父は下を向いて爪を噛んでいた。祖母は目を閉じて苦い顔でお茶を飲んでいた。姉は兎の模様の箸を握り締めたまま身を縮めていた。流一が意識してはっきり見たのはそれだけだった。

 翌朝、流一が目覚めたとき、母も姉もいなかった。夕食後、どのようにして自分が寝かされたのかも覚えていない。母たちが夜のうちに家を出ていったのか、それとも早朝、流一が目覚める前にこっそり出ていったのか、それすら知らなかった。ましてや、父が大阪へ帰っていったのも全く知らないでいた。

 祖父母と流一だけの暮しが半月ほど経過した寒い朝だった。流一は最近になって襲うようになった頭痛のため、闇の中で頭を両手でかかえていたが、雀の鳴き声に驚いて蒲団の上に跳ね起きた。すると目の前に真っ白な霧が流れ、たちまち視界が開けた。目の前に祖父母の老いた顔が不思議そうな顔で流一を見おろしていた。流一は二人の存在にどうして気づかなかったのかと考えてみたが、頭痛も潮の引くように消えたので、そのこともすぐ忘れてしまった。

 ところが、流一は翌朝も同じ経験をした。眼前を閉ざしていた霧が中心から崩れると、目の眩むような光が彼を狼狽させた。祖父母が昨日と同じように炬燵を挟んで心痛な顔で座っていた。流一には祖父母が昨日の朝よりもっと年を取った人のように見えた。

 母と姉は三月の半ばころに帰ってきた。とにかく母という人は、何か気に入らないことがあると、すぐ家を出ていく癖があったので、いつのときが一週間で、いつのときが二週間だったのか流一もはっきり覚えていないのだ。ただ今回は、流一が記憶している限り、最も長かったようだった。どのときも家を出ていく理由は流一の知るところではなかったが、今回の家出の陰には恐れに似たものが潜んでいた。





  • 第2回へ続く


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