浮き草 第2回




森亜人《もり・あじん》

     一の続き

 昭和二十二年四月、流一は並木の家の喜代志と共に城南小学校に入学した。若い女がげらげら笑いながら飛び出してくる病院の門が立派なので、伯母と母は、その前に流一たちを立たせて写真を撮った。

 喜代志のランドセルは新しく、どこを見てもぴかぴか光っていたが、流一の物は父親が使っていた背嚢(ハイノウ)だったので、一年生としても小柄な流一には、まるで蟻が背嚢を背負っているようなものだった。ましてや父親のお古と考えただけでも、学校へ行くのが嫌になるほどだった。

 それも一週間も経たないうちに忘れてしまい、新しく知り合った同級生たちとの生活の中で、父親の顔さえ忘れていった。

 それに、学校へ行ってみて知ったことだったが、喜代志や流一のように革のランドセルを持っている者は数えるくらいしかいなかった。喜代志のつやつやしたランドセルを羨ましく思ったことが返って恥ずかしく感じ、流一は背嚢の蓋をわざわざクレヨンで汚して家に帰った。母も祖父も何も言わなかったが、祖母は流一を掴まえて、手首の真ん中へいつもよりモグサの山を高くして線香の火を押しつけた。

 西大手の通りでも機関庫の裏の通りはどぶ川に挟まれていて、いつでも温泉の湯気が立ち昇っていた。どの家も貧しく、冬を迎えて一度身に着けたら最後、春の太陽に熱せられて服など着なくてもいいときまでずっと同じものを着ている人ばかりが住んでいた。そんな生活をしている連中だったので、本を読みたくても本など手に入らなかった。

 その本が流一の家にはたくさんあった。どうしてそれほど本があるのか知らなかったが、本が好きだった祖父が、本家の蔵の中からこっそり持ち出してきたのだと、あとになって姉から聞かされた。

 近所の少し大きな子たちは、姉の持っている本が欲しく、どうにかして手に入れる方法はないかと考えた末、子供たちを集めて運動会ごっこをやった。そうして、勝った者への賞品として姉に本の提供を求めてきた。しかも姉に対し、その賞品を授ける役を与えてきた。みなの前で注目されることの好きな姉は、大いに喜び、祖父に頼んで古く色が変わった本をいく冊ももらい、意気揚々と出かけていったものである。

 賞品に出した本の中で、流一が覚えているのに二冊あった。一つは祖父が持っていたもので、表紙に女の子のように可愛い男の子が笛を構えて橋の欄干に立って、大男に笑いかけているものだった。もう一つは、姉が大阪から持ってきた絵本で、流一はその絵本が欲しくて、見せてくれと姉に頼んでいたが、姉は胸にかかえて見せてくれようともしなかった。その絵本を賞品に出すと言ったので、流一はさんざん考えた末

「ねえちゃん、それは女の子の読む絵本なんやろう。そなんやったら一年生の女の子だけにしないとあかんやないか。でも、その絵本はねえちゃんの大切な絵本なんやろうが。この通りの女の子は少しあかんよってぼくも走って取り返してやらんとあかんな」

 流一は姉にそう言って、競走の仲間に加えてもらった。

 姉が宝物のようにして大阪から持ち帰った絵本は、表紙の上のほうに若い女の人が玉をかかえて海の中を泳いでいる姿と、その女の乳の下から鮮血が流れ出し、海底から追ってくる竜の頭の辺りまで海が真赤に染まっているものだった。姉は、この講談社から発行された絵本を気に入っていたのに、どうして賞品として出す気になったのか流一には解せなかった。

 結局、その絵本は流一の手には入らなかった。傾いた長屋の二階の六畳だけの部屋に五人で住んでいる家の子が、にこにこ笑いながら姉の手から受け取り、誰にも奪われないように慌てて腐りかけている階段を駆け上がっていってしまった。

 山国の信州に夏がやってきた。

 夏休みに入ってからのことだった。その日、本町で化粧品屋をしている親戚の同い年の女の子と一緒に、諏訪湖へ釣竿と捕虫網を持って、釣りとトンボ取りをしようと出かけていった。その女の子は流一より背が高く、長い髪をいつも三つ編みにしていた。笑顔が明るく、そのうえ目がいつもきらきら光っている子だった。もしその子の欠点を捜すとしたなら、いつも鼻水を垂らしていることだった。

 湖畔は人で賑わっていた。子供たちが水に潜って、ここいらではばか貝と言っているカラス貝を取ったり、タニシを取ったりしていた。カラス貝の大きいのは小さな洗面器くらいのものもあったが、烏のように色が黒く、どうしても食べる気にはなれそうもなかった。それでも小さいころからここで育った子たちは、ばか貝を火にかけ、口が開いたところへ味噌を落してうまそうに食べていた。

 流一と親戚の女の子は

「よくあんなの食べられるね」

 と言いながら、あまり人のいないほうへ足を向けた。

 湖の岸はただ石を積み上げただけのところもあって、うっかりすると湖に落ちてしまいそうだった。親戚の子は足元などちっとも見ていないのに、平気な顔で石垣の上をトンボを追って走りまわっていた。たとえ落ちたとしても膝くらいの水深だから恐れる心配はないのだが、ゆらゆら揺れる水面を見ていると、流一は自分までもゆらゆら揺れて目が回るような気分に襲われ、なかなかトンボが飛んでいる岸に近づくことができないでいた。

 湖面すれすれを飛んでいる尾の黒いトンボや、高いところをギンヤンマが飛行機のように猛烈な勢いで飛んでいるのを見て、流一はどれを取ればいいか迷っていた。一緒にいった子は早速ギンヤンマを掴まえ、持ってきた細い糸をそいつの胴に結んでくるくる回していた。明るい青色をしたギンヤンマの胴が、夏の陽光に輝いている。そのトンボを目がけて四方からギンヤンマが集まってきた。そのうちの一匹が、糸に繋がれたやつの尾にしがみついたとき、親戚の子は持っていた捕虫網で、二つともくるりとくるんでしまった。そして、流一のほうにこぼれるような笑みを向けて

「流ちゃんもやってごらん」

 と言った。

 流一も親戚の子のようにしたかったが、トンボを取ろうと目を凝らすと、目に入る景色がくるくると動き出し、ギンヤンマの一匹に狙いをつけて網を振っても網には一匹も入らなかった。親戚の子は鼻を片手の甲で投ぐりつけるように拭うと

「流ちゃん、わたしのを一匹あげようか」

 と言って、既に虫篭に数匹もつめ込んである篭から一匹を掴み出して、流一の顔の前につき出した。流一は首を横に振り

「ぼく釣りをするからいい」

 と言って、ボート乗り場のほうへ足を向けた。

 ボート乗り場の周辺は人がかなり出ていて賑やかだった。流一は延べ竿に捲きつけておいた糸を解き、諏訪湖へくる途中のじめじめした畑のところで掘り出した糸ミミズを空缶から取り出して針に付けた。ミミズの細い体の半分ほどが針の先に刺さると、勢いよく夏の太陽でぎらぎら光っている湖に放り込んだ。

 麦藁帽のリボンを風になびかせながら親戚の女の子が飛んできたのは、流一が三匹ほどエビを釣り上げ、新たに糸ミミズを針の先に付けているときだった。

「流ちゃん、流ちゃんのお父さんがくるよ」

 親戚の子は目をいっぱいに見開いて、流一と通りの向こうを何回も見た。流一もその子の視線を追って通りの向かいを見た。

 かなり額が広くなった父の大柄な体が少し左右に揺れながら歩いてくる。その父の体の影に隠れるように、白い日傘を傾けた女の人がこちらへやってくるところだった。

 父は釣りをしている流一と親戚の女の子の姿を見つけたらしく、少し首を後ろに向けて、日傘の女の人に何か言っているようだった。

 流一は父の背後から付いてくる人に対し、一種の恐怖を持って見つめていた。親戚の女の子は彼女も知っている流一の母親とは違う若い女の人に興味を覚えたらしく、口を少し開けたまま近づいてくる二人の大人をじっと見つめていた。そして

「流ちゃん、あの女の人は誰なの」

 と目を輝かせてたずねた。流一は少し怒ったように

「知るもんか」

 と、吐き捨てるように言った。

 通りを渡ってやってきた父は

「なんだ妙も一緒か」

 と言って、少し困ったような顔をした。

―― 通りの向こうから見ていたくせに。 ――

 流一は大人のそういう点がきらいだった。通りの向こうで流一と妙を見つけて後ろの女の人に声をかけていたではないか。それなのに初めて気がついたような顔をする父親が軽っぽく思え、どうにも腹に据え兼ねた。

 妙は照れ笑いをして、

「こんにちは」

 とだけ言うと、慌てて通りの向こうへ駆けていった。あとに残った流一は、父の背後に立っている人を無視して、ミミズの付いた糸を掴むと、湖面いっぱいに、斜光がぎらぎら跳ねている中へ力いっぱい放り込んだ。

 後ろの二人がどんな顔をして立っているのか見えなかったが、流一には自分とは無関係な顔をして湖でも眺めているのだろうと思った。

 ボートが通り過ぎる度に小さな波が立ち、その度に赤い浮きが大きく揺れた。たぶん、数分だったろう。赤い浮きが、今度はボートの波ではなしに激しく上下していた。

 流一は息をつめて浮きを見つめた。赤い浮きが何回も水中に消えた。それを指を折りながら数えて六回目のとき、息を強く吸い込みながら竿を振り上げた。斜光に銀鱗をきらめかせた鮒の大きいやつが空を舞って、流一の手元に舞い降りてきた。

「いやあ、凄いんやわあ!」

 女の人は高く細い声で歓声を上げて、手を打った。流一が振り返ると、女の人は日傘をかかえるようにして拍手をしていたが、上げた歓声とは反対に、地面をのたうっている鮒の姿に頬を引き攣らせていた。おまけに、父までもが華やいだ声を上げていた。

―― ふん、こんなのは小さいわい。 ――

 流一は、女の大袈裟な褒め方が癪にさわった。父親の笑顔も癪だった。

「流ちゃんていうんやろう。これあげるわ」

 女の人はそう言って、ハンドバッグから茶色の包装紙にくるまれたものを流一の顔の前に突き出した。

 流一は、瞬間、さっき妙がギンヤンマを篭から出して、今と同じように顔の前に突き出してきたことを思い出した。そのときも何かこばかにされたように感じたが、茶色の包みを突き出された今もそのときと同じ感覚が胸を締めつけてきた。

 流一は釣り上げた魚に気を取られている振りをして、土の上でのたうちまわっている鮒を針から外してやると、そのまま湖に投げ返してやった。そして、釣り上げてあったエビも水中に放り込んでしまうと、父と女の人を擦り抜けるようにして、捕虫網と釣竿を肩に担いで、妙が走っていった通りのほうへ駆け出した。


 祖母の兄夫婦がいつもの笑顔ではなく、眉に力を入れた顔で流一の家にやってきた。その日は朝から雪が降ったりやんだりしていた。

 何も知らない流一は、中浜町に住むこのおじいさんとおばあさんが好きだったので、いつものように八畳の部屋に入っていった。ところが、いつも優しい祖父が大きな目をむいて、流一を部屋から追い出した。祖母と中浜町のおばあさんは手拭いを目に当てて下を向いていたのが印象的だった。

 流一は初めて祖父の額に浮き上がった青筋を見てすっかり驚いてしまい、ただ呆然と隣室のたんすによりかかっていた。母と姉は買物に出かけていくと言って、朝から家を留守にしていた。

 六畳の部屋の隅で流一は息を殺して隣室の話し声に耳を傾けていた。窓の下を通る下駄の音がやけにうるさい。流一は悲しい気分が心の底から浮上してくるのを、苦い薬でもなめる思いで味わっていた。

―― 何かが変わっていく。ぼくの知らないところで何かが起きている。お母さんもお姉さんも知っていて、ぼくだけが知らない何かが。 ――

 流一は深く息を吸い込んでみた。隣室からは年寄りたちの低い声がつづいていた。少し震え声で話している中浜町のおばあさん。怒ったような声の祖父。やがて、十二時を打つ柱時計の音がしても、隣室の大人たちは動く様子もなかった。母や姉も帰ってくる気配もなく、時は過ぎていくばかりだった。

 祖母の兄夫婦が来て数日したころ、母と姉が今度こそ永久に家を出ていった。と言っても、それから何回か並木の伯母の家の前で母や姉を見かけたことはあったが、そのつど、母も姉も伯母の家の中に隠れるように走り込んでしまった。

―― なんしてやねん。なんも悪いことしてへんのに…。 ――

 流一は、そのような行為が何であるかさっぱり理解できなかった。指をくわえて母や姉のうしろ姿を見おくるほかなかった。二人のあとを追って伯母の家に自分も飛び込んでいかなかったのは、心のどこかで躊躇させるものが働いていたのかもしれない。

 それでも伯母の家に入っていこうとしたことも一度や二度では済まなかった。商いをやめた店の奥の板戸を乱暴に閉められてしまうと、そこより先へ入ってはいけないと知らされる思いだった。

 玄関の外に立って、数ヶ月前まで暮していた二階の窓を見上げていると、隣家の氷屋のおばさんが、気の毒そうに見ていたが、流一が何か言おうとすると、慌てて自分の家に逃げ込んでしまうこともあった。

 流一は小学一年から二年になる春休み、祖父母に連れられて大阪に行った。大阪と聞いたとき、堂島に行くと思った。ごみごみした二階屋の並ぶ堂島の町や、汚れた堂島川を流一は懐かしく思い出した。

 諏訪の駅を出た夜行列車は、塩尻の寒々しい駅で長野からやってくる列車を二時間も待って真夜中に名古屋に向かって発車した。

 流一は夜の窓外に目を凝らしていた。東の空にほの白い東雲の光が差し始めたころ、線路が何本も分かれて並んでいる広い構内に列車は入っていった。流一は大阪に着いたと思い、カバーの破れた椅子にまだ居眠っている祖父の痩せた肩を揺すった。そこは大阪ではなく、名古屋だった。名古屋と聞いて流一は体を固くした。なぜなら、大阪から信州に疎開しようと汽車に乗って名古屋まで来たとき、激しい爆撃を受け、流一たちは死ぬ思いで焼夷弾の下を逃げてきたことを思い出したからだ。

 流一たちは豊中にある立派な家に落ち着いた。その家と流一たちとどんな関係があるのか知らないが、大川というその家のお祖母さんと、流一の祖母と気が合うらしく、広い松林の中の道を手を取り合うようにして散歩しているのを何回か見かけた。

 その家に着いて三日後、雨の降っている日だった。広い座敷に流一は連れてゆかれた。座敷の両端にきれいな座蒲団が並び、男の人や女の人がきちんと膝をそろえていた。流一の座っている向かい側に中学生くらいの女の子が座っていた。その子の横には坊主頭の男の人がいて、田舎の家にもあったような蓄音機のねじを一生けんめい回していた。

 やがて針のしゃあしゃあいう音と共に笛と太鼓の音がして、流一のすぐ横の襖が左右に開いて父と若い女の人が出てきた。その女の人は、流一が八剣神社で見たことのある結婚式の花嫁が着る美しい着物を着ていた。

 父と女の人との結婚式のあいだ、向かいの列の人たちは、ときおり流一を盗み見るようにちらちらと視線を投げてきた。どの視線にもどことなく軽蔑の色があるように感じられ、流一は次第に心が萎えていった。

 すっかり心細くなって祖父の背に隠れていると、仲人だという人が徳利と盃を持って回ってきた。式の始まる前に、祖母から

「式のあいだは良い子でいないと、お医者さまの仲人さんが太い注射をするからね」

 と言われていたので、その人が回ってきたときには、流一の心は既に爆発寸前だった。モーニングを着た仲人が笑いながら流一の前に盃を持ってきたとき、流一は耐えられなくなって、祖父の背にしっかり掴まり、顔を押しつけて泣き出した。

 さっきまで流一のところをちらちら見ていた向かいの列の人たちが声を立てて笑うのが聞こえた。なかでも蓄音機のねじを回していた坊主頭のお兄さんのような人の声が明るく耳に飛び込んできた。流一は少しほっとするものを感じて、祖父の脇からそっと覗いてみると、どの人の目も優しく笑い、真っ白な歯までが、流一の心を引き立てるように光っていた。

 式の翌日から数日間、父や若い女の人の姿を一度も見かけなかった。二人が新婚旅行に行っているのだと祖父に聞かされていたので、何となく安心した気分で豊中の松林の中を遊び回っていた。

 祖父母は父たちが帰ってきた翌日、待ち兼ねたように信州へ帰っていった。

 その日、流一は二人を豊中の駅まで送っていった。春の雨が音もなく降る日だった。駅まで十分くらいだったが、これで別れてしまうと思うと、駅がもっと遠ければと、少し悲しい気分で二人の後ろからのろのろ歩いていった。

 祖父母は電車のくる前に早く帰れと言ってくれたが、祖父母のいない大川の家に帰ってもつまらないと思っていたので、祖父母にそう言われても生返事をするばかりで帰ろうとしなかった。

 本当に電車がやってきて、祖父母は何回も振り返りながら車中に消えていった。人を掻き分けるようにして窓際に立ったときは、電車は発車し、流一の目の前を滑るように通りすぎて、あっという間もなく見えなくなってしまった。

 大川の家には三日いただけで、父と継母と三人で新しい家に移っていった。新築といってもベニヤ板だけの家で、半畳の靴ぬぎ場と一畳しかない台所。部屋は六畳と三畳で、便所は半畳の一穴便所だった。

 流一は、今まで頼りにしてきた祖父母がいなくなったことで、淋しく、そのうえ、降りた駅がうす汚れていたことも手伝って、その分、新しい生活になかなか馴染めなかった。

 去年の夏、諏訪湖で初めて会ったときの継母の印象と、その夜、食事の支度を台所でしていた母の思いつめた顔が今になって流一の心に大きく広がり、新しい母との生活にどうしても自分から進んで解け込むことができないでいたのだ。

 若い女の御飯茶碗に飯を盛るとき、母は歯を食い縛っていた。こめかみに浮かぶ青筋の太さで、流一にも母が怒っていることはうすうす察しられた。だが二つ目のチョコレートをくれる約束に、流一はいそいそと食事の膳を八畳の父と女の元へ運んだ。そのときの行為が、今になって母を裏切る行為だったことに思い当り、何となく辛い毎日を送っていた。

 それにしても、あのとき流一は何の疑問もいだかなかったが、どうして母が父や女の人のために食事の支度をしてやったのか、また、母や祖父母のいる家にどうして父は女を連れてきたのか、今になって不思議なものを感じていた。母が屈辱に最後まで耐えていた理由は、流一がすっかり成人してから知ったことだったが、父が戦地へ行っているあいだ、母は二人の子供と年寄りにひもじい思いをさせまいと、結婚する前の芸者に戻っていたのだ。そのときの客とのあれこれをどこで聞き知ったのか、父はそれを離婚の道具に使ったのだ。

 しかし、今津に転居した当時の流一は、屈折した時代の悲しみを負わされた母の悔しさなど知るよしもなかった。何か事が流一の知らない陰で起こると、たとえ食事の支度をしているときであっても、すぐ家を飛び出して伯母の家に行ってしまうはずの母が、唇を噛み締めながら、父と女のために飯の支度をしていることが不思議でならなかったのだ。

 四月になると、流一は今津の小学校へ二年生として転入した。

 同じような家が通りの片方に並び、反対側は畑だった。どの家も二十坪くらいの敷地で、十数軒並んでいた。流一の家の南に高く大きな塀があり、転居したばかり、その塀の向こう側が気になって仕方なかった。

 そこは塀を越えて蔦がこちらまで垂れている屋敷だった。

 ある日、流一が狭い庭の隅で蟻の群を眺めていると、いきなり頭上で流一の名を呼ぶ声がした。振り仰ぐと、塀の上を女の子が両手を広げて歩いていた。同級生の川崎みち子だった。

「栗田君、何してはんの?遊びきいへんか」

 川崎みち子は手まねきをして、さっと塀の内側へ飛び降りた。

―― お転婆やなあ! ――

 流一はそう思ったが、どこか話が合うような気もしたので、通りに飛び出し、大きな屋敷を取り巻く塀を回って門のところへ飛んでいった。みち子は先に来て流一の来るのを待っていてくれた。

 みち子の家は流一が想像していたよりはるかに立派な家だった。太い木が空を突き上げ、庭には池があったり、滑り台や鉄棒までが備えられていた。部屋の数も幾つあるか外から見ただけでは見当もつかなかった。

 みち子には姉と弟がいて、母親は少し太っているが、初めての流一に対しても優しく声を掛けてくれ、今まで見たこともないような菓子まで出してくれた。

 広い洋間にはピアノが置いてあり、壁にはヴァイオリンのケースがぶらさがっていた。流一が珍しそうに眺めていると

「ピアノはうちとお姉さん。ヴァイオリンは弟が弾くんよ。栗田君は?」

 みち子はソファに転がったまま、両足を背もたれに乗せ、歌うような調子でたずねた。

 何もかもが自分の家と違っていた。きょうという日まで、人の家のことなど気にもしなかったが、川崎みち子の家を訪ねてみて、人それぞれ住む世界によってかなり違いのあることを知った。

 祖父の実家も江戸時代からつづいてきた大きな商家だった。形のいい池や松が植えられた庭も見てきた。祖父の妹が嫁いだ家にも池があり、刈り込まれた植木も見てきた。よれよれの長屋の狭い部屋に重なるように住んでいる同級生の家も見てきた。しかし、きょうのような感覚を受けたことは一度もなかった。

 その思いがどこから来たのか流一には見当もつかなかったが、どの家にも共通した調和のようなものがあるように感じていた。

 家に戻った流一は、同級生と遊んできた話を継母にした。大きな庭の話、ピアノやヴァイオリンのあった話をした。継母が

「その家は誰の家なの?」

 とたずねたので、流一は庭の先に聳(ソビ)えている高い塀を指さして

「川崎君の家や」

 と応えると、それまで笑いながら聞いていた継母の表情がにわかに曇ったかと思うと

「流一さん、二度とあの家に行ってはいけません」

 と言った。

「どうしてやねん」

 と、流一はたずねたが、継母は、

「いけないからいけないのです。それより勉強をしなさい」

 と言って、野菜に水をやるため、庭へ降りていった。

 流一は憤懣やるかたなかった。川崎の家が立派だから癪に障るのだ。だから遊びにいってはいけないなどと言ったのだ。流一は腹を立てながら本箱から手当り次第に本を抜き取って乱暴にページをくっていた。

 ちょうどそこへ父が会社から戻ってきた。流一は少し膨れていたのだろう。憮然とした思いで本を見ているのを見た父は、何を思ったのか

「お前、またおかあさんを困らせたな」

 と言うなり、流一の首を掴むと押し入れのベニア板の戸に叩きつけた。バリっという音とともに、うすっぺらな戸が割れた。そのことが父の感情を一層苛立たせたのであろう。

 鞄を放り出すと

「お前など出ていけ!」

と言って、流一を靴脱ぎ場に蹴り落した。

 流一は蹴られながら考えていた。

―― どうせお継母さんが泣きながら止めにくるんや。それまでの辛抱だ。 ――

 流一は、息を荒々しく弾ませている父の暴力の下で、痛みに耐えながらほくそ笑んでいた。

 瞬間、流一は川崎みち子の家と自分の家の違いを発見した。目の前を飛ぶ痛みの火花の中に、ベーゴマが今にも止まりそうになっている姿を見た。

 いつものように継母が慌てて家の中へ飛び込んできて、父の振り上げた腕にぶらさがり、流一を庇ってくれた。いらぬお世話だと思う一方、こうして庇ってくれる継母に、実母にはなかった女の細やかさを流一は感じ取っていた。





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