浮き草 第10回
森亜人《もり・あじん》
三の続き
秋も次第に深まっていった。学校を取り巻く桑畑に霜が降りるようになっていた。
流一は永明小学校での算盤の失態がずっと心に引っ掛かっていた。自分に当てられないのがつまらなく、途中で算盤の玉をでたらめに動かしていたことが悔まれてならない。十一月の下旬には小野の小学校へ行くことになっているが、今度こそ最後まで計算を投げ出さないようにしようと考えていた。
ところが、いざ小野へ行く生徒たちの名を発表されたときに流一の名は含まれていなかった。川井の名は上げられたが、流一の名は最後まで呼ばれなかった。永明小学校での失態が尾を引いていたのかもしれない。
―― 最初から答えを言わせてくれていたら間違えるはずはなかったんだ。 ――
流一は、算盤の級を自慢していた。校内で行われる算盤の大会でも全問正解だった。それだからこそ選ばれて出場した。川井が途中で投げ出したときには答えを言わせないで、自分がいい加減に玉を入れたときにかぎって答えさせるなんて青柳先生は卑劣だと思わずにはいられなかった。
―― きっと、先生は川井が好きなんだ。だから、あいつは、いつも先生と一緒にいるんだ。 ――
流一は川井が憎らしくなった。自分ばかり良い子ぶっている川井のやつをぎゃふんと言わせるものはないかと、川井の行動に注目した。
その頃、盲学校では盲人用三角ベースが体育の時間に行われていた。三角ベースといっても、普通のものとかなり違っていた。
一塁と二塁を結ぶ線より少し内側のあたりに全盲の人が横に並んで座っている。打者は自分の名を言ってからホームベースの上に置かれたハンドボールを思いきり蹴るのだ。そして一塁に走っていく。全盲の守備者が転がってきたボールを直接キャッチすれば打者はその時点でアウトになる。しかし、弱視の人がライナーやフライ以外の打球をキャッチしたときは一塁に投げなければいけないルールになっていた。
全校の生徒を合わせても百名くらいだったので、縦割りにして一チーム十人で行う。但し、キャッチャーは不用で、ホームに走りこんでいくランナーより先にボールをホームに投げればアウトになるのだ。
流一は川井と同じチームにならないようジャンケンをして、幸いにも敵のチームになることができた。八チームもあるので、いつ川井のチームと戦えるかわからなかったが、勝ち進みさえすれば必ず当ることは間違いのない事実だったので、流一は川井のチームと戦うまでは、どんなことがあっても負けてはならないと思った。
一塁と二塁を守る選手は弱視で、横に並んで座っている全盲が五人。彼らの後ろに弱視がショートとして立ち、外野に二人の弱視が守る。
また、打つ場合も弱視の者と全盲の者を交互に並べて攻撃しなければいけないルールになっていた。
川井は座っている全盲の者の中心にいて、いつでも左右に動きたいらしく、川井の両側は他の人たちの横よりかなり広く空いていた。しかも、川井は皆より一メートルほど前に出て守ってもいた。流一は川井のチームと当るのを楽しみに試合をつづけていった。
ボールを蹴るときは必ず名前を名乗ってから蹴らないと即座に打者はアウトとなる。ところが、順番が回ってきて、少しでも早く蹴りたいために名前を言うのを忘れる人もいて、その度に皆は大声で、
「アウトーッ!」
と叫んで拍手喝采する。特に外野の守りの頭上を越えるようなのを蹴った選手のときなどは、両チームの者が笑い転げる。勝っても負けても楽しんでいるのだ。
しかし、流一は違っていた。楽しくプレーする余裕などなかった。川井のチームと戦えるまでは負けるわけにいかないのだ。川井に対する計画を実行するまで一敗もしてはいけない。全盲のくせに偉ぶる彼の鼻を明かすためにも全力を尽くさなければいけないのだ。
流一が思いついた川井への復讐は、彼の前に音を殺したボールを蹴ってやることだった。弱視の者は、決してボールの位置を教えてはいけないことになっているのを利用するつもりだった。
ところが、ここにへんてこなルールがあり、蹴ったボールが全盲の選手の手前で止まってしまった場合には、蹴り直しとなるのだ。そのルールを知ったのは、小学部二年生の子が蹴ったボールの停止をめぐって問題になったときだった。
つまり、その子の蹴ったボールは、横に並んでいる全盲の人たちより数十センチほど手前で止まってしまったことから発したのだ。全盲に聞き取れないようなボールは卑怯だと苦情が出されて、とにかく、蹴ったボールは全盲の選手の位置を通過しなければいけないことになったのだ。
流一は新たな方策を考えなければいけなくなった。川井の前にちょん蹴りして、大きな声を上げながら、ばたばた音を立てて一塁へ走っていけば確実にセーフになると思ったのだ。それも、川井が、蹴りベースを行う度に
「おれはどんなに小さな音でも絶対に聞き落さない。必ずキャッチしてみせる」
と嘯いていたことへの、あてこすりのつもりだった。
ところが、その方法は通用しなくなった。流一が次に考えたのは、川井の体にボールをぶつけてやることだった。しかも、川井の顔面を狙えたなら最高だと思った。
これは音を殺して蹴るよりかなり難しそうだった。しかし、得意そうに鼻を蠢めかす川井の鼻っ柱を折ってやりたかった。実際、川井は中学部や高等部の生徒たちのなかに入っても自慢するだけの成績を上げていた。蹴るのも強かったし、走るのも速く、ほとんど一塁を駆け抜けていた。
ついに決勝戦で川井のチームと戦うこととなった。流一は少しでも川井が前に出てくればいいと思いつつ成り行きを見守っていた。
朝、霜が深く降りただけあって、空は晴れわたり、西空を遮るように北アルプスの白い峰が美しかった。吸い込まれそうな空を数羽の鳥が鳴きながら南の空へ消えていった。その鳴き声が、流一の心に寂しさを覚えさせた。キンミーと聞こえるその鳥が何という名の鳥か流一にはわからなかったが、きっと南の国へ渡っていく鳥たちだろうと、川井への復讐のことも忘れて見上げていた。
晩秋、北から飛来してくる鴨の群れを諏訪湖のところで見たことがある。おびただしい群れだったから寂しさを感じなかったとは思えない。鴨や雁には強さを感じた。たぶん、冬の厳寒を絶え抜いて生きている姿を見ての思いだったかもしれないが、たしかに鴨や雁にはそういう強さがあった。
しかし、今、南へ飛んでいった鳥の群れには、どことなく弱さを感じた。たぶん、鳥たちが錐もみ状態で落下するかと思われたせいだったかもしれないし、南の温かいところでなくては生きていけない鳥という潜入感が働いていたのであろう。
鳥たちは、少し落下したかと思うと、今度は勢いよく南の空を目指して飛んでいった。流一の視野に納まっていた時間はほんのつかの間だったが、そのときの光景は、流一の意識に残る残像の一つとなった。
「何を見ているの?」
安代が横に立っていた。久しぶりに口を利いたようでもあるし、今の今まで話をしていたような口の利き方でもあった。すっかり大人っぽくなってしまった安代の身体から甘い香りがしてきた。記憶のどこかに隠されていた香りのようだった。
「ああ、あの鳥たちを見ていたのね」
安代は、流一の視野から消えている鳥の影を見上げて言った。
最近では、流一も身長が伸び、安代の喉くらいしかなかったのが、今では彼女の額の高さまで追いついていた。
「流ちゃん、背が高くなったのね。もう少しで追い越されちゃうわね」
流一は、この安代の口の利き方が気に入らなかった。たしかに年は自分より上だったが、学年は同じではないかという思いが、つねに心の底にあって、安代は好きだったが、話し方だけは気に入らなかった。それで、流一は、彼女を無視するように、ぷいと横を向き、チームの仲間のいるところへ戻っていった。
流一の蹴る番がめぐってきた。中高等部の生徒たちが蹴ってランナーとして走っているあいだ、流一は使われていないボールを桜の木に命中させる練習をした。
いかにもそれが川井の小憎らしい顔と思って、力いっぱい蹴った。二度三度と蹴っているうちに、三つに一つくらい命中するようになった。試合が終了するまでには二回か三回くらい順番がめぐってくるだろう。流一は右足に磨きを掛けるために何回も桜の木にぶつけた。
ボールが幹に当ってのことではないだろうが、すっかり色を変えてしまった葉が二枚三枚と地面に落ち、生き物ででもあるかのように、あるものは転がり、あるものはジャンプをしながら崩れた柵の外へ飛んでいった。
試合は六対三で流一のチームが負けていた。川井は、二回目に番が回ってきたとき、守っている全盲生の頭の上を越えるやつを蹴って一塁に駆け込んだ。そのときも、一塁のコーチャーが止めなければ、走ってきた勢いで二塁へ走っていったかと思われる顔つきをしていた。
流一は、一度目に順番が回ってきたとき、川井の横に並んでいる人にキャッチされ、川井の顔にぶつけることができなかった。
「蹴りの練習なの?」
また安代が傍らに来ていた。流一は自分のあとを付け回す彼女をうるさく思った。そういえば、どうして安代は野球に加わらないのだろうかと危ぶみ、そのことをたずねてみた。
「別に理由はないわよ。でもね、ちょっと風邪を引いているもんだから休ませてもらっただけよ。何よ、その目は…」
安代は、流一の睨みつけている目を覗き込みながら、流一の肘に触れてきた。
―― チェッ!風邪を引いているというのは理由じゃないのかよ。 ――
流一は馬鹿らしかったが、自分の蹴る番が近づいたので、それ以上、安代と話をしたくなかった。流一は、彼女をそのままに、黙って離れた。
二回目の番が回ってきた。川井は、さっきいた場所を移していた。流一が蹴り転がした辺りに腰を屈めて目を大きく開いていた。
―― 今度こそ顔へ命中させてやるぞ! ――
流一は桜の木に命中させたときの感覚を思い出すように目を閉じ、心を沈めてから思いきり蹴った。
「アウト!」
ボールは見事に川井の肩に命中し、その勢いで大きく弾んで外野まで転がっていった。それなのに、守備がわの皆が一斉に「アウト」と叫んだのだ。
「やい栗田、自分の名を言わなかったぞ!」
川井が肩にぶつかったボールを受け取れなかったことを悔しがりながら、それでも虚勢を張って叫んだ。
―― 畜生! ――
流一はホームベースと一塁との中間で立ち止まり、ふっと息を吐きながら空を仰いだ。何とも言えない悔しさだった。
安代が滑り台に腰をおろして笑っていた。片手を口に当て、もう片方をひらひらさせて笑っていた。
流一は、自分の失敗を笑われたと勘ぐり、安代までもと思い、腹を立てて炊事場へ水を飲みに駆けていった。
昭和二十六年も最後の月に入っていた。
女鳥羽川の土手を吹き抜ける寒風が頬に痛い。校庭には三日ほど前に降った雪が変色し、皆で踏みつけたところが凸凹になっていた。周囲の山も雪を頂き、晴れていると眩しいくらいだった。
川井が風邪をこじらせ四十度の熱にうなされていた。胸のあたりが苦しいのか、両手で胸を掻きむしる仕草をしながら、しきりに母親を呼んでいた。彼の胸には手拭いが乗せられていたが、それを払い落してしまうので、寮母の中村先生が、その都度、手拭いを置き直していた。
流一は、授業の終るのを待ちかね、重夫が最後の授業の号令を掛けるや、急いで川井を見舞うため、校舎を駆け、寄宿舎を走り、食堂の横を、炊事場や洗面所の前を飛んで病室にやってきていた。
北に面しているせいか、この部屋は寒い。窓ガラスの隙間から音を立てて風が吹き込んでくる。部屋の隅に火鉢が置いてあって、鉄瓶が白い湯気を噴き上げているのに、じっとしていると体の芯が冷たくなりそうだった。
寮母の中村先生が枕元に座り、川井の胸の温湿布を取り替えていたが、その都度、川井の額に手を当てて顔を歪めては大きな息をついていた。
「流一君、舎監の小林先生を呼んできてちょうだい」
「川井は死んじゃうの?」
「馬鹿なことを言っちゃいけないわよ」
中村先生は眼鏡の奥の大きな目を見開き、少し怒った顔になって言った。
「だって、先生は変な顔をしているもん」
流一は下から寮母の顔を突き刺すように睨んだ。
―― もし、川井が死ぬようなことになったら、ただでは済ませないから。 ――
と、流一は奥歯を噛んだ。
「とにかく小林先生を呼んできなさい」
中村先生は、川井の脇に体温計を挟み込み、その上からそっと手を置いて言った。
流一は病室を飛び出すと、舎監室へ行ってみた。たぶん、舎監の小林先生は学校のほうにいるだろうと思っていた。ところが、先生は机に向かって書きものをしていた。
流一が部屋の前に立って先生の名を呼ぶと、黒い眼鏡のつるに手を当てて振り返った。
「何だ」
いつも不機嫌そうな声のように流一には聞こえるが、父親よりまだましだと思っていたので、ほかの生徒たちが恐ろしがるほど先生を恐れていなかった。
「中村先生が呼んでいます」
「何の用事だって」
「きっと川井のことだと思います」
「何!具合が悪いのか…」
小林先生は勢いよく立ち上がると、流一の体を押しやるように廊下へ飛び出し、鼻を鳴らしながら走っていった。
―― こういうところがほかの先生と違うんだな。みんなは恐ろしいと言っているけど、誰かが困っていると目の色を変えて飛んでいくんだもんな。 ――
流一は、走っていく小林先生の後ろ姿を舎監室の前に立って見ながらそう思った。
川井が急性肺炎を起こして病室に入ってから数日して一年生の男の子と女の子も肺炎で病室に入れられた。この冬は特に寒さが極端で、温度差がひどかった。そのため、風邪を引く生徒たちが多く、子供たちばかりでなく、高等部の生徒たちも大きなマスクをしている人が目立った。
そのなかの一人で、皆からカッポと呼ばれている高等部の人が六号室に寝ていた。高等部の人たちのほとんどが長髪だったのに、カッポさんだけは丸坊主だった。見たところ、目など悪いと思えない目つきをしていたし、実際、日頃の行動にもあまり支障を感じないように見えた。ただ、日差しの強いときだけは目を細め、かなり眩しそうにしていたくらいだった。
流一が六号室へ入っていくと、カッポさんの同級生の江島さんが枕元に座って本を読んでいた。
流一は、難しそうな本より二人の様子が面白かったので、入口のところに座ってじっと見ていた。
カッポさんは右手を布団から出し、膝を崩して本を読んでいる江島さんの太腿を撫でていた。人が本を読んでくれているのに、どうしてそんなことをするのか流一にはわけがわからなかったが、読んでいる江島さんもときどき彼の手を握ったり、その手を撫でたりしていた。
部屋にはほかに誰もいなかった。土曜日の午後といっても、外は冷たい風が吹き荒れ、白いものもちらほらしているから外出しているはずもないのにと、流一は何かそこにいてはいけないような気分になり、急いで部屋を出て病室の川井のところへ行ってみた。
病室に寮母先生の姿はなかった。三人の顔が天井を向き、一年生の額に手拭いが乗っていた。まだ二人とも赤い顔をしていた。川井は具合が良いらしく、点字本を腹の上に乗せて読んでいた。
「何を読んでいるんだ」
と、流一が聞くと
「お前には難しい本だ」
と、生意気なことを言った。こんなことを言うようになれば、全快も近そうだ。病気で寝ているときだから許してやるとして、流一は川井の横に座り、彼の読んでいる本を指で触ってみた。
お蚕さんの卵のような粒が横にきちんと並んでいる。どうしてこんな小さなものを指で触ってわかるのか、流一には不思議な気がし、自分も指で点字を読めなくては困るときがくるのかと、ちょっと不安になった。点が少ないのは触ってわかるが、四点五点と数が増えると一緒くたになってしまい、次の文字の点かどうかの区別がつかないのだ。
「栗田、白鳥葦下にいる、という意味がわかるか?」
「何だそりゃ…」
「だろうな…。まあお前には難しすぎる言葉だよな」
「この本に書いてあるのか?」
「いや違う。それは一週間前に読んだ本に書いてあったのだ」
「じゃあこれは何だ?」
「トルストイを知ってるか?」
「乳牛のことか?」
「何だそりゃ!お前は本当に馬鹿もいいとこだ」
川井は呆れた顔を流一に向けた。すっかり熱も下がった彼の顔は普段と変らなくなっていた。
「馬鹿。川井を元気づけるために言っただけだ。乳牛はホルスタイン。トルストイはロシアの作家だろうが…」
「ああ驚いた!お前はトルストイも知らないかと思ったぜ」
「で、これはトルストイの本か?」
「そうだ。戦争と平和というやつだ。点訳本で何冊になると思う?」
「見当もつかない。お前がそういうくらいだから二十冊くらいか」
「なんのなんの。三十四冊だ。俺は今、二十冊目を読んでいるところだ」
「ご苦労さんのこった」
流一はカッポさんのところで本を読んでいた人のように、川井にも本を読んでやろうと思っていたことを口にしないでよかったと、胸をそっと撫でてみた。
「で、川井は本の内容がわかるのかよ」
「わかるところもあるし、わからないところもある。そういっても俺は十一歳だ。それでもお前よりは理解しているつもりだ」
それは間違いのない事実だった。学業においても川井のほうがはるかに理解力は上だ。しかし、算数や理科なら川井より自分のほうが良い点を取っていた。
「わからないっていうのは何だ。俺が教えてやってもいいぞ」
流一は冗談のつもりでそう言うと
「うん。ロシアの人は事を果たすのに回りくどいようで、俺みたいな短気な者には苛々してくるんだ。どうしてロシア人は気が長いんだろうか。栗田にわかるか?」
―― チェッ! こいつ、俺が答えられないことを承知で質問してやがんの。俺にわかるはずないじゃないか。 ――
そこへ安代が
「川井君、具合はどう?」
と言いながら入ってきた。彼女の手には林檎があった。
安代は流一の横に座ると、持ってきた林檎の皮を剥きはじめた。果物ナイフの刃が掬うように皮を剥いでいく。安代の手のひらに乗せられた林檎がくるくる回る度に、薄く剥がれた細い皮が長く伸びていく。流一は、安代の手を、まるで魔法を見る面持ちで見つめていた。
白くて長い指。親指に軽く押されたナイフの刃が皮の下に潜り込むと、生き物のように、赤く色づいた皮が浮き上がり、崩した安代の腿の上に流れ落ちていった。流一は、美味しそうな皮を食べようと、安代の腿に手を伸ばした。
ゴムまりのような弾力のある腿の感触が手のひらに伝わってきた。流一は六号室で見た光景を瞬間的に思い出し、はっと手を引いた。安代が林檎に注いでいた目をちらっと流一に流してきた。少し茶色味を帯びた左の目を覆っている睫毛が流一の心を掬い上げた。
未だかつて味わったことのない心の動揺が、流一の体内で大きく弾み、わなわなと音を立てて走り抜けていった。何もしないのに左の胸が激しく鳴っていた。
―― カッポさんもこんな気持でいたのだろうか。でも、いつもと別に変わっちゃいなかった。本を読んでいた江島さんはどうだったのだろうか。 ――
流一は新たな興味を覚えた。安代ならどうするだろうか。手を彼女の腿に置いたら怒るかもしれない。もしかしたら、江島さんのように俺の手を握るかも…。
林檎は裸になっていった。安代の崩した腿の溝に、脱がされた赤い皮がとぐろを巻くように溜まっている。ほのかに甘い香りが立ち昇ってくる。安代が、手のひらに剥かれた林檎を乗せ十文字に刃を入れて四つに切った。
窓の外では木枯らしが募りはじめたのか、ガラス戸をがたがた鳴らし、寒風の一部が室内にも入ってきた。安代が川井の手に四つ割りにした二つを乗せてやり、一つを流一に、一つを自分の口に運んでいった。林檎の皮がまだ彼女の腿の上に乗っていた。
流一は安代がくれた林檎のひと切れを手に持ったまま、考えていた。安代の腿の上に残っている皮が欲しかった。どちらかというと、林檎の実そのものより、剥かれた皮のほうが好みだった。手のひらの林檎をどうしようか迷っているうちに、安代は口に入れた林檎の切れ端を飲み込み、腿の上に落ちている皮を抓み上げて食べはじめた。流一は
「安代さん、俺にも皮をちょうだい」と言って、彼女の腿に手を伸ばした。崩された腿の溝に落ち込んでいる皮を引っ張り出すため、流一は安代の腿の溝に手を滑り込ませた。
すると、安代は流一の手をきゅっと挟んでしまい、上から流一の手を押さえつけてきた。それが何を意味しているものか流一には理解の外だったが、そのときは悪いことをしたと、急いで手を引いた。指先に抓まれた林檎の皮の一部分が、何か哀れな虫のように、ぶらりとぶらさがっていた。