浮き草 第12回
森亜人《もり・あじん》
四の続き
夜空を裂くように雷光が絶え間なく寄宿舎の窓ガラスを浮き上がらせていた。
流一は荻原さんと茂木さんのあいだに布団を敷いて寝ていた。仰向けで寝ていると、闇が一瞬に消え、昼間のようになる。その度に流一は布団の中へ顔を隠した。
室内は、消灯を過ぎて真っ暗になっていた。同室の人たちは軽い鼾をかいていたが、流一は、いつものように、床へ入ればたちまち眠ってしまうはずなのに、今夜に限って目が冴えて、あくびも出ない始末だった。
稲光りの激しさに比べ、雷鳴は、流一が息を詰めて待ちきれないほど間遠で、ゴロゴロといった感じより、ブツブツといったもので、どこかすかっとしない音の連続だった。
それが光る度に近づいてくるらしく、腹に響く音に変わっていった。光ってから二十も数えなければゴロゴロと響かなかったのが、今では光ってから二つも数えないうちに凄まじい音を轟かせ、窓ガラスを鳴らした。
やがて、雷鳴に負けないほどの勢いで雨が降りはじめた。それに風も加わり、古びた寄宿舎は激しく呻き出した。
流一は急いで布団に潜った。膝を抱えると、尻に踵が触れた。流一は、自分の足首に触れてみた。安代の両足に挟まれてからふた月も経っているのに、足首には安代のぬくもりが残っていて、思い出す度に流一の頬を火照らせた。
きょうの放課後、襄が安代の机に手紙を入れているところを、偶然だったが、見てしまった。安代は先に寄宿舎へ戻っていったので、襄の手紙を見るのは明日になるだろう。こっそり襄の手紙を読んでやろうかとも思ったが、卑劣な行為に思え、それだけはやらないで寄宿舎へ流一も戻ってきた。
前に安代がこっそり教えてくれたが、重夫も安代に手紙をくれたと言っていた。内容については何も話してくれなかったが、どうせラブレターだろうくらいのことは流一にも察しられた。
襄の手紙もそんなものかもしれない。あのうすのろの襄が、選りにも選って安代に手紙を書くなんて、思い上がりもいいところだと、流一は苦いものを飲み込まされた感覚に、嫌な気分になった。
そのことを、夜の自習時間が終わったときに川井に話してやった。彼はつまらなそうな顔をして聞いていたが、それは違うと流一は見て取っていた。なぜなら、川井の眉が震えていたからだ。川井が眉を動かすときは、それと同じくらい心も動いているときなのだ。
寄宿舎へ戻ってから流一は襄の様子を見守っていたが、襄には普段と変わったところは感じられなかった。それより、襄のようなうすのろに手紙をもらうような安代に対し、ある種の軽蔑に似たものを覚えた。そんな思いと別に、安代に挟まれた足首のぬくもりが忘れられず、流一は自分の足首をそっと撫でて大きく溜息をついた。
夜が明けると夏の空になっていた。毎日のように雨ばかり降っていたが、昨夜の雷雨が夏を運んできたらしい。流一は朝食を済ませると、襄より先に学校へ出ていった。
教室へ入っていくと川井がいた。机に肘をついて頭を抱え込んでいた。いつもならクラスで一番あとから学校へやってくる川井なのに珍しいこともあるものだと、流一はそれほど気にもしないで
「おい川井、お早う」
と声を掛けると、川井は驚いたように肩をぴくっと動かし
「栗田、お前、いつ来たんだ!」
と、眉を激しく震わせて詰問する口調で言った。
「今さ。どうして?」
流一は応えながら、初めて川井がいつもと違うことに気づいた。川井の瞼が腫れている。目も赤い。
―― こいつ泣いていたんだ! ――
流一は見てはいけないものを見たような気まずさを感じ、黙って教室を出た。そこへ襄と安代が並ぶようにやってくるところだった。流一は二人が教室へ入っていくのを廊下で見ていたが、襄の手紙を読む安代を見たかったので、二人を追って教室へ戻った。
盲学校の生徒の机には蓋がない。教科書を置く台の下に棚があるだけの粗末なものだった。だから、後ろから覗けば机の中のものがまる見えだ。流一は安代の背後から机の中を覗いてみた。ところが、きのうはたしかにあったはずの手紙がない。机の右隅に襄は入れた。それがないのだ。流一は目をこすってみた。何回も見直しても襄の手紙の影もなかった。
安代も机の中をちょっと見てから、教科書を入れていった。それからの流一は手紙のことが気になり、一日中、落ち着けないでいた。たぶん、襄も同じだったはずだ。いつになく、襄は多弁で、そわそわしていた。安代は何の変化もなかった。いつも元気のいい川井がやたらに無口だった。
夜になった。自習時間も終わり、九時までは自由時間だった。流一は川井を誘って校庭へ出ていった。きのうまでは雨ばかりで、気温も低かった。それが一変したように今夜は暑いくらいだった。寄宿生の多くが涼みながら校庭に出ていた。そのなかに安代もいた。その安代が流一たちのところへやってきて
「栗田君、ちょっと」
と言って、流一を校庭の隅へ引っ張っていった。
安代は瞬いている星を仰いでいたが、流一の肩に手を乗せて言った。襄の手紙を知らないかと。それほど重要な問題じゃないけどね。知らなければそれでいいのと言ってから、流一の心を軽くさせようとでもするように
「流ちゃん、忘れていいのよ。わたしだって中本さんの手紙なんか見たくないもの」
とつけ加えた。
流一は安代にそう言われても、知らないよ、と受け流すことができなかった。自分に疑いを掛けられているのだ。
―― 冗談じゃない。いつ手紙を盗んだというんだ。襄の野郎! ――
流一は安代の腕を掴んで
「誰が言ったんだよ。ぼくは襄が手紙を安代さんの机に入れるのを見たけど、盗むようなまねはしちゃいないぜ」
流一は安代の両腕を押していった。
「わかったわ。中本さんが言ったのよ」
安代は流一の剣幕に圧倒され、草の中へ腰から落ちた。流一に掴まれたまま、流一の体を抱いた。そうしなければ流一も勢い余って安代の上に倒れるところだったのだ。
流一の鼻孔に安代の体臭が謎めいた信号を送ってきた。このまま安代の胸の中で動きたくない思いだった。だが、襄の密告、しかも誤った密告に対し、猛烈に腹が立っていたので、流一は安代の腕から逃れようと身を揉んだ。
「流ちゃん駄目よ。中本さんと喧嘩しちゃ駄目よ。流ちゃんがそんな馬鹿なことするはずないと信じてるわよ」
安代は流一の耳に口を寄せて囁いた。
「気にしないで。ほんとに気にしちゃ駄目」
安代は流一の耳に唇を這わせてから、そっと耳朶を軽く噛んで立ち上がった。
それには魔力があった。襄に対する怒りを払拭してしまう力があった。だが、過去に隠蔽したはずの寂しさとも、敵意ともつかない感情が、安代のふくよかな体に身を預けている流一の全身を包んだ。
安代の豊かな胸が波打っているのが、薄いブラウスを通して流一の体に伝わってくる。自分からは身動きができない。身を離さなければいけないと思いつつ、流一は自分の体を安代に押しつけていった。
少し離れたところで川井の声がしている。自分の名を呼んでいる。返事をしなければいけないはずなのに声が出ないのだ。安代も流一の顔を自分の胸に引き寄せて放そうとしない。流一は全身が麻痺したように思えた。
「おい栗田、お前そこで何してる」
すぐ背後で川井の声がした。安代が流一の背に回していた腕を解いて身を離した。流一は夢の中に立っている気分で振り返った。本当に川井は手の届くところに立っていた。
「何もしちゃいない。安代さんと話をしていたんだ」
流一は、自分でも驚くほど冷静な声だったことに改めて自分の心を指でなぞるように眺めた。そんな余裕のあることもごく当り前と思った。流一は拳を握り締めて川井の前に立った。
「おい川井、お前を見損なったぜ。俺がお前を殴る理由、わかっているだろうな」
流一はそう言うなり、川井の顔を横に払った。川井の体がぐらっと揺れた。いつもなら間髪を置かずに反撃してくるはずの川井は
「おお!殴ってくれ。俺のような人間は生きている資格なんかない。栗田、俺を殴り殺してくれ」
川井はそう言うと、自ら顔を突き出した。
「殴ってやるとも。お前のお陰で俺は疑われたんだ。痛くもない腹を探られたんだぜ」
流一は一発目より力を込めて川井の頬を殴った。金属板を殴ったような感覚が手のひらをとおして脳髄まで伝わってきた。
安代が流一の後ろから抱き締めてきた。
「やめて!」
悲鳴にちかい声だった。安代のことで、仲のいい同級生が啀み合うことに絶えられなかったのだろう。流一を背後から抱き締めた力は、さっきより激しく、さっきより心が込められていると、流一は息を荒げながら感じていた。
「流ちゃん!もういいのよ。忘れましょ。わたし何とも思っちゃいないから。川井君も忘れて。あんた方は仲よしじゃないの。喧嘩だけはしないで。わたし、喧嘩は大嫌い。特に殴り合いは大嫌い」
安代は泣いているようだった。鼻を啜る音が星明かりの下でしている。小学部の下級生たちの狂声が、寄宿舎で飼われている芝犬のピスの声と絡まるようにしている。川井は無言だった。安代も流一も黙っていた。
流一は、空虚になってしまった己の心を覗いてみた。川井を思いきり殴った右手が痛んでいる。痛む手からは何も伝わってこない。草に座っている川井や安代からも何も伝わってこない。ただ空しさが心に広がるばかりで、本当は泣きたいはずなのに泣くこともできないでいた。
三人は思い思いに座っていた。流一は、もう川井を攻める気など無くしていた。自分だって一度は襄の手紙を盗み見ようとしたことを思えば、むやみに川井を攻めることのできないことを悟ったのだ。
流一は足元に生えている雑草を抜いていた。遠い昔にも、こうして草を抜いていたことがある。池のほとりで、座れば自分の顎までくるような雑草を抜いていたことがあった。秋の斜光が池の面を照らし、赤トンボが群がって飛んでいた。あのときのわびしさに似た感情だった。
「秋江さん」
流一は突然浮上してきた名前を無意識に口にしていた。
「なあに…」
返事などあろうはずもないのに、たしかに聞こえた。流一は顔を上げた。目の前にうすぼんやりと安代の顔が近づいていた。
―― そうだ。安代さんは秋江さんとどこか似ているところがある。静かに話すところ。目の大きいところ。甘酸っぱい香り。何よりも優しいところだ。 ――
そう思ったとたん、流一は何ともいえない不安に心が蝕まれていくことに恐れを抱いた。
―― 安代さんも…。 ――
流一は黙って立ち上がった。安代と川井をそこに置いて灯火が窓いっぱいに映っている寄宿舎のほうへ歩いていった。
夏休みに入った。
猛暑が二日三日続いたかと思うと、今度は長袖のシャツが欲しくなるような涼しい日が二日三日続くという変な夏だった。
流一は荻原さんと諏訪の駅へ降り立った。たまたま戦友が諏訪に住んでいて、そこを訪ねるついでに流一を送って荻原さんは諏訪へ来たのだ。
駅を降りると細い道が線路に沿って伸びている。真っ黒な栗の木の焼き丸太が、鉄道線路と埃の舞い上がる道との境界に打ち込まれてある。晩秋から初夏までなら杭の隙間から線路が見えるのだが、今は鉄道草が一メートル余も伸びていることと、道路より三十センチほど線路側が高いことで、流一の目にとまらなかったのだ。
浜町の親戚の家に遊びに行った折、本をよく読んでいて、もの静かに話すお姉さんが、杭の間に生えている鉄道草を見て
「これは進駐軍とは関係なしにアメリカから渡ってきた雑草で、明治に日本へやってきたのよ。だから明治草とか、御維新草とも言うんだって。ほんとの名前は何て言うのか忘れちゃったけどね…」
と教えてくれた草だった。
毛の生えた茎が絡み合っている。もう少し季節が進むとうす緑の花がいっぱいぶらさがるだろう。今は小さな蕾が、咲く日を待っているかのように身を固くしていた。
小虫がぶんぶん飛び回っている。羽をぴんと張ったトンボが、同種の小虫を掴まえて、流一の目の前を素早く飛び去っていった。
「ねえ荻原さん、この草の名を知っている?御維新草っていうんだよ」
流一は、三つある名前のうち、言うと何となく立派に聞こえる名を口にした。鉄道草や明治草では荻原さんが驚いてくれないと思ったので、そう言ったのだが、荻原さんは
「うん。鉄道草とも言うんだが、本当の名は姫昔蓬っていうんだよ」
と、何でもないように言った。
流一は大いに驚いてしまった。一度くらいでは覚えられそうもない名だったので、踏切までの道々、『ヒメムカシヨモギ』と何回も繰り返して口にしていた。
二人が歩いている道の反対側は最近になって新しく建て直された飲み屋が軒を並べていた。今は昼間、どの店も物音ひとつ立てないで眠っていた。
踏切を渡って駅の裏に出ると、温泉がどぶ川に流れ込んでいる粗末な家の並ぶ通りへ入っていった。どの家の人とも見慣れていて、どの景色も知り尽くしていたはずなのに、今回の帰郷では少し違っていた。どこがどう違うのか流一には説明できそうもなかったが、とにかく目に映ずるもの全てが違っていた。
割れた窓ガラスに代えて新聞紙やボール紙を押しつけてあるガラス戸も同じだったし、どぶ板の上に木の盥が伏せてあるのも同じ風景だった。腰巻と割烹着だけで洗濯をしているおばさんたちの顔も同じだし、よく遊んだ仲間たちの顔も同じだった。道を歩いていく流一に笑顔を向けて挨拶してくれる姿も前とちっとも変わっていなかった。それなのに、流一の目には少し違って見えた。
家の玄関に立ったとき、ちょうど隣家の男の子が諏訪湖のほうから釣竿を肩に担いで帰ってくるのに出会った。
「やあ流ちゃん、今けえってきただけぇ」
同年の紀久だった。自分より十センチも背の高い彼を、てっきり紀久の弟だと思っていたので、紀久とわかって大いに驚いた。
「釣りに行ってきたの。何が釣れた?」
「エビだけだよ。でっかい鯉を釣り落しちまった。明日は必ず釣り上げてやるつもりだ」
紀久は白い歯を覗かせ、荻原さんと流一を見比べながら振り返り振り返り自分の家のほうへ帰っていった。
流一は釣りの話を聞いて、自分も釣りに行きたいと思い、
「荻原さんは釣りをしたことあるの?」
と尋ねた。
「あるとも。僕の家の近くに千曲川があるが、いつもそこで釣りをする。こんなに大きな鯉や鮒を釣り上げるんだよ」
と言って、手に持っていた黒い大きな鞄を目の高さに上げて見せた。
流一は決まりだと思った。荻原さんに何日も泊まっていってもらいたかったので、どうすれば荻原さんを引き止めることができるのかと、帰りの列車の中で考えてきた。
「じゃあ明日にでも釣りに行こうよ」
流一は少し甘えるように言って、重い戸を引いた。
硫黄の塊が花のように浮かんでいる温泉は、たとえ夏の暑いときでも気持ちがよかった。体に張りつく熱気が湯に流され、たちまち汗が引いていく。流一は荻原さんと風呂へ入り、祖父母がきょうのために用意してくれた夕食を楽しんだ。祖父は公然とウイスキーが飲めるので、荻原さんを相手に頭の天辺まで赤く染めて大いに満足していた。
荻原さんが祖父に聞いていた。
「お祖父さんは日露戦争へ行かれたのですか」
「いや、わしは背が五分ほど足りなくて兵役免除だったんでね。荻原さんは…」
「僕の場合は胸を患ったために五十二連隊にいた折りに免除になりました。お陰でこうしてうまいウイスキーをご馳走になれたんですわ」
盲学校にいるときより大きな声で荻原さんは笑って、飲んでいたグラスをとんと台の上に置いて、かなり禿上がってきた額をつるりと撫でた。
二人の話のなかで、流一には何のことか全くわからない話もあった。
サンフランシスコ条約といって、これからは日本も敗戦国でなく、立ち上がった国として進んでいかなければならないのだと、荻原さんが祖父に負けないほど顔を赤くして話していた。ポツダム宣言という言葉もあった。今まではアメリカの占領下にあった日本だが、独立したからには平和に徹しなければ、また戦争を起こす馬鹿な真似をしかねないとも話していた。祖母も荻原さんの話に満足しているらしく、しきりに首を振って賛成の意思表示をしていた。
ポケット瓶一本ですっかり酔っ払った祖父と荻原さんは、祖母の敷いてくれた布団に転がり込むようにしてたちまち大鼾を掻きはじめてしまった。流一も二人の鼾を聞いているうちに昼間の疲れも手伝って、深い眠りに落ちていった。
翌日は雲ひとつない日で、きょうも暑くなりそうな空の色をしていた。八ヶ岳の峰のあたりにだけ白い雲がふんわりと浮かんでいた。こんなに晴れているのに、富士の峰を臨むことができないのが残念だと、流一は諏訪湖へ向かう道々、荻原さんに話した。
「流ちゃんは富士さんまで見えるのかい。それだけ見えるんなら大切に目を使わないといけないね」
と言って、荻原さんは遠い山並を撫でるように首を動かしていた。
諏訪湖には人が群れていた。冬の間、ペンキも剥げたまま放置されっぱなしだったボートもきれいに塗り替えられ、若い人たちがオールを操って沖のほうへ漕ぎ出していた。
流一は荻原さんを案内して鋳物工場が煙を吐いている辺りまで引っ張っていった。そこなら人もあまり来る気遣いがない。紀久の話だと、大きな鯉を釣り落したのは片倉会館の辺りだと言っていたが、そこには嫌な思い出しかないので、流一は行きたくなかった。
祖父の用意してくれた延竿を振って石垣に腰をおろした。朝のうちだったが、既に太陽は何億という光の束を湖面にぶつけ、幾重にも層を作って流一たちを囲んでいた。
赤い浮きと白い浮きがゆるやかにうねる波の上で漂っている。それを見つめていると、目が回りそうだった。親戚の妙と魚を釣りに来たときも目が回ってきた。流一は波を見ないように高い空を大きく回っているトビの姿を追ったり、石垣の下からのこのこ這い出してきたザリガニの行方を見送っていた。
「流ちゃん、浮きが動いているよ」
荻原さんの声で流一は自分の赤い浮きを見た。細かに揺れている。それが上下に大きくなったとき、勢いよく竿を振った。夏の太陽に銀鱗を輝かせて大きな鮒が宙を舞い、流一の頭を越えて後ろの叢へ落ちてきた。
鮒は叢の中で身をくねらせ、釣針から逃れようと地面を尾で叩いていた。流一は
「やったあ!」
と言って、鮒に飛びついた。
その朝の収穫は、流一が最初に釣り上げた鮒が一匹。エビが数匹。荻原さんは、鮒が三匹とエビが十匹くらいだった。二人は大きな顔をして帰れると話しながら機関庫裏の家に戻っていった。
荻原さんは戦友とも会えたし、ゆっくり湯にも入れ、今までの疲れが全て拭えたと言って三日後に帰っていった。
荻原さんの帰る朝、突然、姉がやってきた。夏休みを並木の伯母の家で過ごすために角間川から来たと言っていた。
姉は黄色いブラウスを着ていた。胸元には飾りがひらひらしていた。すっかり大人のようだった。口の利き方まで大人のようだった。
「いつも弟がお世話になっておりまして」
などと、畳に手をついていた。流一は荻原さんの後ろに隠れるようにして姉を見ていた。
二人は荻原さんを送って駅へ行った。
「お鞄をお持ちします」
と姉は言って、荻原さんの黒くて重い鞄を両手で受け取って先に歩いていった。きょうも暑くなりそうな空が広がり、オニヤンマが羽音を鳴らして飛んでいた。
真っ黒な機関車が轟音とともに駅へ入ってきた。荻原さんは姉から鞄を受け取りながら
「流ちゃん、良いお姉さんが来てくれてよかったな。夏休みを楽しく過ごしなさいよ」
と言って、姉と、そして流一と手を握って列車に乗っていった。
窓際の席が取れ、大きく開いている窓から顔を出して名残りを惜しむように、開衿シャツの半身までも乗り出して手を振っていた。荻原さんの眼鏡が明るい日差しに光り、その奥の大きな瞳にも光るものがあった。
荻原さんを送っての帰り、姉は流一を並木の家に誘った。伯母の家に行くと、従兄弟が大騒ぎをして迎えてくれた。姉は
「流一、二階へ行ってごらん」
と小声で言って階段の上を指して言った。
流一は姉に勧められるまま階段を登った。懐かしい匂いのようで、忘れていた匂いでもあった。思い出したところで楽しいこともない二階だった。並木に面した障子を開けると、化粧と煙草の匂いが鼻をついた。
流一が黙っていると、くぐもった声で、
「誰だい?てる美かい」
としゃがれた声がした。それでも流一が黙っていると毛布が動いて顔だけ上げた母が
「何だ喜代志じゃないか」
と言った。流一は急に嫌なところへ来たように感じ、障子を手荒く閉めると、階段を降りてしまった。
流一は姉の呼ぶ声を無視して通りへ飛び出し、そのままの勢いを駆って機関庫裏の家に走っていった。
途中、何度も吐き気を感じた。行くべきではなかった。声を聞くべきではなかった。そんな思いが流一の心のなかを駆け巡っていた。母だけと思って障子を勢いよく開けたが、あの部屋にはもう一人いた。ふっと顔だけ上げた男が隣りに寝ていた。
父といい、継母といい、実母といい、どの人も自分にとって心を痛める存在でしかない。これからは姉に誘われても並木の伯母の家には行くまいと、歯を噛みしめながら胸の中の自分に何回も言い聞かせていた。