浮き草 第13回
森亜人《もり・あじん》
四の続き
並木の伯母の家で経験したことについて、流一は祖父母にひと言も言わなかった。その出来事を祖父母に語ったのは姉だった。
二日後、姉は膨れっ面をしてやってきた。黙って逃げ帰ってしまった流一に対してかと思ったが、そうではなさそうだった。姉は昔から面白くないことや、自分の意に沿わないと、腹を立てるか、河豚のようによく膨れた。しかし、今回は違うようで、並木にいる母と、男とのあいだに挟まって嫌な思いをしてきたのだと祖母が話してくれた。
流一は姉に誘われて並木の家に行き、二階の障子を開いたときに、ちょっと顔を上げて自分をちらと見た男の顔を瞼の裏に浮かべた。眉と唇が印象的な男だった。年齢は想像もつかなかったが、父より若いように思われた。母は四十に手が届くくらいだったから、それくらいの年齢だったかもしれない。
流一は嫌なことを思い出させた姉や祖母が面白くなく、夏の日盛りの中へふらっと出ていった。
昼を少し過ぎた町の中に人の影はなく、舌をだらしなく垂らした犬が、日陰の土に穴を掘って寝ているくらいなものだった。
少しでも土地の空いている家では野菜が植えられていた。なかでも瓜や茄子は直射日光に焼かれ、どれも真っ直ぐな物は見えなかった。流一は、そんな野菜がどことなく自分に似ているようで哀れに感じ、小走りに通りを駆け抜けていった。
それから数日後、流一は祖母に連れられて文出の宮坂さんの家に行った。
その家は、祖父が釣りをする都度、昼の弁当を使わせてもらっている家で、三男坊を父が大阪の会社へ就職させてやったという因縁の深い家でもあった。
きょう、祖母が連れていってくれた理由は、この春に生まれたばかりの猫の子をもら
うためだった。
「可愛いわよ。猫がいれば寂しくないわよ」
と祖母はバスの中で繰り返し言っていた。
猫の子は祖母の言ったとおり、前から見ても、後ろから眺めても、上から覗いても、抱き上げて近々と見つめても丸ごと可愛かった。
ところが、並木の伯母の家にいた姉が、
「もう並木の家に帰りたくない」
と言って流一の家に居座ってからは、マリと名づけられた子猫は姉の玩具になってしまった。
姉はマリを膝に抱き上げ、頭や背を撫でながら本を読んで一日を過ごしていた。マリも流一のところにいるより姉の膝のほうが好むらしく、むりやり抱き上げようとすると、生意気に爪を立てたりした。
そうなると、姉のやってくるのを楽しみにしていたくせに、二日三日すぎると、狭い家の中で鼻をつき合わせていることが疎ましくなってきた。
祖父母が外出した日のことだった。
並木の従兄妹が遊びにきていた。姉が呼んだものか、母か伯母に、姉の様子を見てこいと言われて来たのか定かではなかったが、とにかく喜代志と加代子が遊びにきていた。
姉が学校の先生役で、流一たちは出来の悪い生徒役だった。姉の場合は本当の役だったが、流一たちは役というより、本当に出来の悪い生徒そのものだったかもしれない。
姉は、『苦学力行』とか、『晴耕雨読』という言葉を漢字で書けと言って、それぞれに新聞紙を渡し、自分はマリを抱いて漫画に読み更けっていた。
流一にせよ、喜代志にせよ、姉の出した問題は意味すら理解できず、それを漢字で書くことなど話にならなかった。まして小学二年生の加代子には外国語のようなものだった。姉は、騒がしい年下の流一たちを静かにさせるのが目的だったのだ。皆の口を封じておいて、自分は漫画を読んでいたかったのだ。流一はそれがわかっていたので、最初から考える気もなく、部屋の中を歩き回っていた。
そこへ浜町のおばさんが訪ねてきた。流一が名古屋の母ちゃんと呼んでいる人だった。すると、今まで漫画を読んでいた姉が
「おめさんたちは外へ出て遊んでおいで」
と言って、三人の子供たちを追い払おうと立ち上がった。
ここ数日間というもの、流一の胸には姉に対する不満が蓄積し、心の奥で燻っていた。姉の態度が神経を逆撫でし、自制心を失い
「ここは俺の家だぞ!姉ちゃんは入間川だろが。さっさと帰っちまえ」
と怒鳴ると、いきなり姉の頬を殴りつけた。
ひとたび糸が切れると止めどがなかった。流一は手の当るところ、足の当るところ、気の狂ったように振り回した。手や足先から激痛が身体を駆け上ってきたが、自分の体の全てが粉々になっても構わないと思い、部屋中を暴れ回った。
恐れをなした喜代志と加代子が慌てて外へ飛び出していくのが目に入ったが、そんなことにもお構いなしに暴れまくった。姉と浜町のおばさんも流一の激しい荒れ方にしばらく呆然としていたが、襖が破れ、茶箪笥のガラスが割れ、部屋中に散乱するに至って、やっと我に帰って流一を背後から抱き締めた。
そのあと、おばさんや姉がどうしたか覚えがない。流一が気づいたのは布団の中だった。手といわず、足といわず、体の至るところに包帯が巻かれていた。祖父母がいつ帰ってきたかも知らなかった。気づいたときは祖父母が家にいるだけだった。
痛む頭を動かしてみると、障子の桟が折れ下がり、押入れの襖紙が打ち抜かれていた。楓の葉を透かし絵にした茶箪笥のガラスもきれいさっぱり消えていた。
祖父母は何もなかったような顔をしていた。姉はそれきり夏休みが終るまでやってこなかった。流一は、姉が並木の家でどうしているのだろうと、こっそり並木まで行ってみたが、決して伯母の家に寄るようなことはしなかった。
旧盆も過ぎ、松本へ戻る日がやってきた。甲子園球場で行なわれていた高校野球も、芦屋高校が八尾高校を四対一で破って優勝したのを聞いて、流一は祖母に送られて松本へ戻っていった。
川井は日に焼けて戻ってきた。流一より色の白い彼だったが、今は流一より日に焼けて戻ってきた。二学期から同室になればと期待して戻ってきたが、相変らず二人は同室ということにはならなかった。
流一は寮母のいる三号室へ戻ってきた。襄と別れたのは嬉しかったが、荻原さんや茂木さんと別れたのは残念だった。しかし、明男が健康上の都合から、高等部の生徒たちと別れて流一と同室になったことは喜ばしいことだった。
流一が祖母に持って帰ってもらう夏の衣類と、これからの季節に必要な秋の衣類を柳行李に入れ替えているところへ、川井が嗅ぎつけてやってきた。
「栗田、元気で帰ってきたか」
川井は、流一の祖母がそこにいることなど知らなかったので、いつもの調子で部屋へ入ってきた。だが、室内の雰囲気がいつもと違うことに気づき、
「うへえ!」
と、奇妙な声を発して部屋から飛び出していった。
祖母は川井の走っていくのを眺めていたが
「あのお友達は少し目が見えるの?」
と流一に聞いた。
「いや…。あいつは勘が良いんだ。一度歩いたところは絶対に忘れないらしいよ」
と、流一は、まるで自分のことででもあるかのように、誇らしい気分で言った。
寄宿舎の三号室へ真っ先に戻ってきたのは流一だった。次に明男が夏だというのに青白い顔で戻ってきた。最後は伊那でもずっと南に住んでいる一学年下の善男が兄さんに連れられてやってきた。
寄宿生の半分は夕食後でなければ戻ってこない。今は夏。四分の一は明日でないと帰ってこないと、寮母が早く戻ってきた生徒たちの人数を確認するために、各室を飛び回っているときに話してくれた。
流一は、安代が川井と同じ沿線に住んでいることを知っていたので、川井に安代の様子を尋ねてみようと喉まで出かかったが、勘の鋭い川井に勘繰られるのも癪だったので、寮母に聞こうと考えた。しかし、いざ聞こうと寮母の顔を見ると、顔が熱くなってしまい、夕食まで落ち着かないでいた。
残暑の厳しさも夕暮れとともにやわらぎ、珍しく水の流れている女鳥羽川から涼しい風が吹く時刻に夕食の鈴が鳴った。全員が帰ってきたわけでもないせいか、寮長の荻原さんは夕食の挨拶もしないで箸を取り上げていた。
部屋替えとともに食事の席も変る。寮母長の先生が入口に立って席順の書き込まれた紙片を覗きながら入ってくる生徒たちに指示をしていた。
流一は同室の寮母の隣りで、川井も近くの席だった。その川井が、いつもの早食いで食事を終えると
「話したいことがあるから俺の部屋へ来てくれ」
と流一に声を掛けて、炊事場の入口へ食べ終わった食器を持っていった。
五時半の食事が済んでも外は明るい。食後、流一は女鳥羽川へ行ってみようと思っていた。なぜなら、寒い冬の時期でないかぎり、夕食のあと、安代は必ず女鳥羽川へ出ていくからだった。
思えば、夕食のとき安代の姿を見なかったように思う。席順が替わったといっても目立つ彼女だ。寄宿生の半分は来ていない。見落すはずもない。それだけに気になる。何が気になるのかわからないが、流一の心に夏休みの始まる直前の彼女の姿が思い出された。
流一は、自分の部屋を通り越して二号室へ入っていった。川井は机に背を凭せて本を読んでいた。黙って彼の横に座ると、川井は点字の本を机に戻して大きく深呼吸をした。
「栗田、安代さんは転校していったよ」
流一には川井の言ったことばが意味不明の言葉として耳に飛び込んできた。川井もそれ以上のことは口にしなかった。流一が理由を尋ねるまで黙っているつもりだったかもしれない。流一は
「転校ってなんだ」
と、自分の知っている言語と違う外国の言語でも聞いたように聞き返した。
「馬鹿!」
川井は吐き捨てるように言った。
「馬鹿という意味か」
流一も愚かだと知りながら、そう言い返さずにはいられなかった。
「全くの馬鹿もんだ。安代さんは急に転校しちまったんだ」
「なぜ?」
流一は、川井の言ったことに対し、やっとまともな質問をした。
「岡野さんを知ってるだろう?あの人、自殺したんだって」
安代の家を訪ねて岡野が遊びにきた。学校にいたときから安代と親しくしていた二十歳も半ばの生徒だった。彼は結婚を申し込みにきたのだ。彼女の両親は驚き、とにかく家に戻ってもらったのだ。
ところが、岡野は家に戻らず自殺してしまったのだ。それを知った安代は精神的に落ち込んでしまい、彼のいた学校へ戻れないと泣き続けていたのだそうだ。
流一は大切なものを失ったと感じた。心に強く意識すると必ずといって自分の前から去っていってしまう。このどうしようもない運命に従うほかないのかと、自問してみたが、答えは得られそうもなかった。
「それで安代さんは…」
「愛知にある盲学校だって」
川井も力のない声で応え、それきり二人は黙ってしまった。
五
流一は中学生になった。
寄宿舎といい、学校といい、机を並べる仲間といい、小学部のときとそれほど変わっていないのに、どこか大人に近づいたようで、どことなく気恥ずかしさと、偉くなった気分になり、少し背伸びをして廊下を歩いた。
夜など、高等部の人たちの部屋へ遊びにいって、三月に死亡したソ連のスターリンの話に加わり、高等部一年の原さんが、「偉大な星が地に落ちた」と言ったとき、流一は
「どれほど偉い人でも死んでしまえば、あとに残った者たちがうまくやっていくんと違いますか」
と言って、皆に笑われ、自分は子供じゃないと思ったものだった。
そんな生意気なことを言ったかと思うと、体操のときに履く運動靴を買ってもらったが、地面へおろすのが惜しく、校内を履いて歩いてみたところ、新しい靴の裏が廊下と摩擦して何ともいえない響きを立てたのに狂気し、そのまま上履きにしてしまうようなところもあった。
川井も流一と大差がなかった。新調した革のスリッパで、わざと音を立て、やけに胸を張って廊下を歩いていた。自分ばかりでなく、川井も中学になって、大いに気分を新たにしていることが、流一の心を楽しくさせてくれた。
重夫と襄は別に中学になったからといって、手放しで嬉しい素振りを見せなかったし、張り切っている様子もなかった。たぶん、襄の場合なら大学生のはずだし、重夫だって高校生のはずだった。だから、流一たちの騒ぎを冷静に見守っていたのかもしれない。
流一は嬉しくて、教室の前の廊下を行ったり来たりして、入口の上に掛けてある中学一年という木札を何回も見上げた。
先月までは一緒に遊んでいた下のクラスの連中も子供のような気がし、共に遊ぶという気分でなく、遊んでやるという思いで連中をからかってやった。
安代が愛知県にある盲学校へ転校していった昨年の秋、流一も川井もどことなく寂しかった。流一たちばかりでなく、重夫も襄も同じようだった。上級生のなかには誰の目にもわかるほど落胆していた者も何人かいた。
だが、今は学校全体が新しい年度を迎え、安代のことも個人的には記憶の濃淡の違いはあろうが、皆の心からは遠い人になりつつあった。
新学期が始まって三週間が過ぎた四月の末、降って湧いたように一人の女生徒が流一たちのクラスに入ってきた。
新しく生徒が入ってくるときは、数日前に話があるものなのに、今回の場合は全く突然だった。襄のときも安代のときも一週間前に話があって、使われていない机を運んできたものだった。
ところが、彼女が母親と教室へ入ってきたときには、まだ机も用意されていなかった。彼女が入ってきたとき、流一は吹き出すところだった。背が低く、体はゴムまりのようだった。襄と同年で、新潟県との県境の山の奥の部落から、朝、四時に出て六時間もかかって松本へやってきたと言っていた。
流一は、新入生を見たとき、ふっと安代を思い出した。安代とは似ても似つかぬ人だった。安代は同級生でも別段おかしくなかったが、今度の新入生はまるでおばさんそのものだった。
流一は、鈴江と呼ぶその人を見るにつけ、安代を思い出すようになった。彼女が松本を去った当時、どれほど手紙を書こうと思ったかしれない。それも実行しないうちに月が流れ、そのうちに安代のことも記憶から消えていった。
それでも全く忘れたわけでもなかったが、川井から、安代が愛知の盲学校へ転校していった話を聞いたときから比べると、ほとんど忘れたに等しくなっていた。その安代を強く意識させられ、流一は、鈴江を好ましく思えなかった。
ところが、その安代から思ってもいない便りがきた。授業を終えて寄宿舎へ戻ってきたとき、一号室の寮母が呼びとめて安代からの手紙を渡してくれたのだ。
封筒の下の部分に力強く羽をひろげて飛ぶ数羽の鳥の図柄が浮彫りされているやつだった。重みのある封筒は、流一の手のひらの上に安代に関する記憶の全てを蘇えらせた。
流一は、安代と書かれた文字を珍しいものでも見るような目で見つめた。転校していったばかりには手紙をくれてもいいのにと何度か思ったこともあったが、最近ではすっかり忘れていた。だから、寮母から封書を受け取ったとき、安代と書かれた文字と、実際の安代と一致しなかったほどだった。
流一は、階段を二段おきに飛んで自室の六号室へ戻った。川井と同室になっていたが、まだ校舎から戻っていない。流一は、部屋で安代の手紙を読んでいるところへ川井が戻ってくれば困ると思い、安代が好んで出かけた女鳥羽川へ出ていった。
もし、自分のところだけに手紙をくれたなら、川井に悪いと思ったのだ。安代のこと、たぶん、自分のところだけということもあるまいと、半ばそうでないことを願いながら初夏の匂いのする女鳥羽川へ出ていった。
グラウンドでは盲人野球の選手たちが練習していた。明男がキャッチャーをやっていた。右腕で、アウトコーナーからゆるゆるとストライクゾーンに入るシュートのようなボールを投げる全盲の投手が、明男の拍手を数えながら頭上でボールを揺らしていた。
昨年までの盲人野球は、三角ベースを組み替えたもので、野球とは言えそうもない代物だった。ところが、今年の春に、関西の盲学校から盲人野球が紹介されてきたのだ。
チームは十人で、そのうち四人が全盲。しかも投手は全盲と限られている。守備ベースと走塁ベースがある。それは、全盲の選手と守備の選手とが衝突事故を起こさないためのルールだった。
川井は、中学になったときから、やがてピッチャーになると張り切っていた。流一も、これなら野球らしいと思い、甲子園球場で見てきたプロ野球の話を川井にしてやり、いつの日か、バッテリーを組もうと約束していた。
校庭を囲むように植えられた桜も今では葉桜になり、女鳥羽川の川原には緑が萌え立っていた。上流に砂防用の小さなダムが建設されたため、真夏の渇水時期でないかぎり、たとえ僅かなりとも水が流れるようになっていた。流一は、土手を下って手頃の石に腰をおろし、安代の手紙を取り出した。
内容は、流一が期待しているほどのものではなかった。時候のあいさつや、新天地での生活を細々と書いたあと、内緒の話をするように赤い鉛筆でアンダーラインを引いて、他県の盲学校へ転校してみて、流一たちと学んでいた松本が無性に懐かしいと書いてあった。
もし秘めておきたいとすれば、六年生の教室の机に腰かけ、足をしっかり挟みつけて、じっと流一の目を覗き込んだときに話してくれた内容くらいなものだった。
「流ちゃんに約束しておきながら黙って転校しちゃって、それが気になるの。でも、流ちゃんも中学になって、停学処分を受けたあの人たちのこと、もうわかったんじゃないかしら」
とあった。
流一はすっかり忘れていた。そして、どうしてあのときは理解できなかったのだろうと思い直してみた。たった一年しか過ぎていない。でも今ならわかる。それが不思議のようで、しごく当然のようでもあった。とにかく、自分は少しずつ大人になっていっているのだと、改めて自覚した。
安代は大人だと思っていた。実際、背も高く、彼女から醸し出されるものは大人だった。いつも見上げなければ彼女と話ができなかった。だが、今は逆転しているだろう。昨年の秋から数センチも伸びている。自分が安代より大きくなったと思うと、彼女に会ってみたくなった。会って何を話すというわけでもないが、会えば何かが生まれるような気もしないでもなかった。
安代の封筒の住所を見るかぎり、名古屋と書かれてある。記憶のどこかに恐ろしいという感覚がある。昭和十九年、祖父母と命からがら信州へ逃げてきた日に見た名古屋の空は燃えていた。一面が焼け野原になっていた。安代はそんなところに住んでいるのだろうか。
流一は、たとえ岡野が死んだからといって、名古屋へ行ってしまうこともなかったろうにと、少し恨みがましい心で彼女からの便りを封に戻した。
流一は、安代の手紙を尻のポケットに押し込むと立ち上がった。足元を流れる水は日本海へ下っていく。でも、安代の住む名古屋の海と繋がっていると思うと、何か不思議な気がする。文面の終わりに、「流ちゃんとは二度と会うこともないかもしれないが」とあったが、どうして二度と会えないなんて言えるのだろうかと、いささか不満な心持ちになって、土手に上がっていった。
直接グラウンドへ降りようかとも思ったが、まだ野球の練習をしていたので、たまには道を帰るのもいいと考え直し、流一は土手を歩いていった。道を下っていくと、学校のほうから二人の先輩が上ってくるのに遭った。
「やあ流ちゃやい」
この春、高等部へ入学したばかりの人で、どう見てもおっさんのようだった。全盲の人は昨年入学した人で、盲学校の近くに住んでいると聞かされていた。
全盲の人の手には大きな鞄が重そうにぶらさげられているのに、彼を連れている人は、教科書の一冊さえ入りそうもない小さな鞄を脇に挟んでいるだけだった。
そのときは名前を思い出せないまま寄宿舎へ戻ってきたが、夕食のときに食堂へ入ってきた原さんを見て思い出した。
先輩の誰が言ったのか忘れてしまったが、「清少納言は枕の草子のなかで、『日本に、みかの原・あしたの原・その原の三原がある』この学校には、『大原・原・萩原の三原がある」と言っていたのを思い出したのだ。
流一は、枕草子の原と、先輩の言う原とどんな関係があるか知らなかったが、とにかく、この学校の大物という意味で先輩が言っていることだけは理解できた。しかし、見たところ、たしかに先生のようにも見えるが、鼻の孔が上を向いていて、どこか笑いを覚える顔つきからは、先輩の言う『大物』というイメージは湧いてこなかった。
しかし、
「流ちゃやい」
と呼んでくれた声には、包み込むようなぬくもりを感じたのは嬉しいことだった。いつ、誰から自分の名を聞いていたのか知らないが、親しい人が言ってくれる『流ちゃやい』という言い方に、流一は満足したのだ。
そういえば、川井も
「栗田、今度入学してきた大原さんという人は良い人だぞ。俺と相撲を取ってくれるんだ。何回かかっていっても受けてくれるんだ」
と言っていた。
―― 本当に川井の言うとおりだろうか。今、寮長をしている土屋さんとどちらが強いだろう。土屋さんは去年の相撲大会で五人を抜いた。まあ、どちらにしても勝てるはずがない。川井の言うように受けてくれるのなら挑戦しても悪くない。明日の昼休みに掛かっていってみよう。 ――
流一は、高等部の弱視の人たちが、体育館の隅で卓球をしているのを知っていたので、あのなかに大原さんもいるに違いないと思い、川井を誘って挑戦してみようと、安代の便りを机の引出しの奥へ押し込みながら、夕陽に輝く校舎の窓ガラスに目をやっていた。