浮き草 第14回




森亜人《もり・あじん》

     五の続き

 梅雨も上がったかと思えるような晴天が、松本の空に戻ってきた。今まで寄宿舎に閉じ込められていた子供たちは元気よく外へ出て、夏の到来を全身で喜んでいるかのように、校庭を走り回った。

 降り続いた雨をたっぷり受けた女鳥羽川は、両岸を震わせて濁水を押し流していたが、三日もすると、もともと、川の出発点から石ころだらけの川だけあって、たちまち川底の石が見えるほど透明になった。

 全身が純白と言ってもおかしくないほど色の白い二羽の鶺鴒が、水面から顔を出している石を数えるように、優美な尾で叩きながら、昆虫を捕らまえていた。目を上げると、鶺鴒より素早い動きで、燕が自由奔放に翔巡っていた。

 昨年の今頃も、流一は、夕食を済ませると、川原へ出ていって、カジカの玲瓏な歌声を待ったものだ。しかし、一昨年までは聞いたカジカの声も、ついに昨年は一度も聞かずじまいだった。今年こそ聞いてやろうと、流一はここ二晩、川原へ出てみたが、どんなに耳を傾けてもカジカの声は聞こえなかった。

「それならもっと上流へ行ってごらんなさい」

と寮母に言われ、流一は県営グラウンドの辺りまで土手を上ってみたが、やはりカジカの澄んだ声を聞くことができなかった。

 夕風のなかをのんびり散歩している老人に尋ねてみると、

「カジカはここらじゃもう聞くことはできないよ」

 と、少し寂しそうな顔をして語ってくれた。その老人の話だと、カジカは一時間ほど上流へ行かなければ聞けないと言っていた。流一は残念だったが、仕方なく寄宿舎へ戻ってきた。

 それが昨日のことだった。流一は、緑の屏風を立てたような女鳥羽川の上流を眺めながら考えていた。きょうは土曜日、自習時間がない。川井を誘って行ってみよう。その前に二つの事柄を片つけておこうと、太陽のぎらつくなかを、手首に風呂敷を巻きつけて買物に出かけていった。

 流一は、岡宮神社の鳥居を潜って境内に入っていった。つい二、三日前まで降りつづいていた雨に、葉の密生した木の下の大地は、たっぷり水を含んでいて、歩く度に地面から水が滲み出してきた。

 流一は、岬屋で固形の洗濯石鹸と歯磨き粉を買っての帰りだった。皆が話しているように、本当に岡宮神社の縁の下に人が住んでいるかをたしかめたかったのだ。皆の話だと、決して恐ろしい人間ではないらしい。

 その人は善吉と言って、家族もなければ家もないそうだ。しかも流一より二十センチも背が低いらしい。それでいながら善吉は立派な大人だという。

 その上、大学の医学部では、もし死んだら研究のために体を譲って欲しいと、本人に頼んであるとか。善吉は、死んでから謝礼をもらっても仕方ないから生きているうちに金を払ってくれと頼み、その金で焼酎を買ってきて嬉しそうに飲んでいるとも聞いた。

 流一はどうしてもその人を見ておきたかった。

 境内は静かだった。五月には祭りが盛大にくりひろげられる。そのときだけは境内の中も外も人で一杯になり、神社の前の通りの両側には露店商が並び、大いに賑わうのだ。だが、祭りが過ぎると、たちまち神社は静まり返ってしまい、人が縁の下に住んでいても誰ひとり気にする者はいないのだ。

 今は蝉の声だけが社殿の周囲を取り巻いているばかりだった。さして広くもない境内を見回しても人の影はおろか、犬の姿もなかった。

 流一は少し離れたところから社殿の下を覗き込んでみたが、人のいる気配など感じられなかった。きっと、昼間のせいで善吉はどこかへ出かけたのだろう。流一は、それでも辺りに注意の視線を走らせてから、風呂敷包みを賽銭箱の裏へ置くと、素早く地面に身を伏せ、闇のなかへ潜っていった。

 明るい昼の陽光の下を歩いてきた者の目には、土の匂いとカビの匂いが篭もった縁の下の暗さは、まるで闇そのものだった。流一は、闇のなかを手探りながら、腹這いのままそろそろ進んでいった。

 まだ数メートルも進んでいなかったが、流一は人の気配を感じて身を固くし、全身の神経を耳に集めた。女のひいっという声が聞こえたように思ったのだ。

 流一は息を詰めて待った。しばらく間があって、再び女の泣くような喘ぐような声が連続して聞こえてきた。あっあーと言ったり、ううんと言ったりしていた。そのときになって、流一は一つの事柄をはっきり思い出した。

 あのときも今と同じように闇のなかだった。違うのは縁の下ではなく、家の中だった。

 父と継母との共同生活が始まって間もない頃の春の夢のような出来事だった。西宮の今津のベニヤだけで建てられた六畳と三畳しかない小さな家だった。

 夜更けて流一は小用を足したくなって目を覚ました。便所へ行くには父母の寝ている部屋を通らなければいかれない。流一は襖に手を掛けたとき、無意識ではあったが、なぜか戸を開いてはいけないような気がした。どうしようかと立っていると、隣室から継母の声が聞こえてきた。

 今、こうして、岡宮神社の縁の下で聞いている女の声と同じだった。いや、もっと息を詰めたような、何かを口にくわえているときのように、くぐもった声だった。それだけに、流一の手をしっかり止めてしまうだけの力があった。

 一段と声が高まると、何かが声を塞いだ。押さえつけられた声は、立っている流一の心を乱すに充分すぎるほどだった。

 流一は小用を足したくて起きたことも忘れ、急いで寝床に潜り込んだ。両手で耳をしっかり押さえても神経は隣室のもの音に傾けられ、継母の甲高い声にかぶさるように、父の太い息使いまでもが鼓膜を震わせた。

 縁の下の女の声が高まり、男の名を呼んでいた。それに応えて、男も女の名を呼んでいた。流一は自分の股間が熱くなるのを感じ、慌てて社殿の外へ這い出した。体の前は泥で汚れていた。その汚れの一部分が隆起し、激しく脈打っていた。

 岡宮神社で見た男女の行為に心を乱した流一は、その夜、川井を連れてカジカの声を聞きにいくつもりだったが、すっかり気後れしてしまい、九時の点呼まで自分の部屋で時を過ごしてしまった。

 翌日、流一は子供のような背丈しかない男と、白い杖を持った女が土手を歩いているのを、明男や川井と一緒に校庭で野球をしているときに見つけ、意味もなく胸を突かれた。

 その二人が、縁の下の二人であるという証拠はない。だが、流一は、土手を遠ざかっていく奇妙な取り合わせの男女が、闇のなかで激しく求め合っていたあの二人と同じ人たちだと確信していた。

 すっかり夏が来たと思っていたのに、再び空は重い雲に覆われ、断続的に、数日間というもの、豪雨が地面を叩いた。雷鳴が轟き、女鳥羽川が前よりも激しく吠え狂った。

 松本市の消防団員が女鳥羽川の東岸に集まって、水位が警戒線を突破するのを見守っていた。川の向こう岸の半分が削り取られて、今にも土手を濁流が飛び越そうとしていた。団員たちは二人一組になって、土を詰めた俵を積み重ね、水が土手を越さないようにしていた。

 既に、あけぼの橋は落ちていた。夜通し警戒していたが、雨の上がったことが幸いし、明け方には水位も下がりはじめ、昼前には消防団員も引き上げていった。盲学校でも生徒たちを避難させないで済み、皆がほっとして授業を再開することができた。


 ところが、夕方、再び消防団員が、今度は慌ただしく川の上流から下流へ、下流から上流に向かって、両岸を行ったり来たりしていた。

 流一は川井と一緒に校庭の隅から土手に上ってそれを見ていた。

「水位も半分に減ったのに消防の人たちは何をしているのかなあ」

「さっき小遣いの浜さんのおばさんが言ってたけど、善吉が流されたとか言ってたぜ」

 土手の上を上流に向かって歩いていく二人の姿が流一の瞼の裏に浮かんだ。白い杖を持った女と、女の肩くらいの背丈しかない善吉。どうして善吉が川に流されたのだろうか。

「いつのこと?」

「知らない。でも午後らしいぜ。流木を拾おうとして川へ落ちたとか言ってたけど。善吉って誰なんだ?」

 誰と聞かれても流一に答えることはできない。子供ほどの身長しかない男で、大学病院からもらった金で焼酎を嬉しそうに飲んでいる人としか言えなかった。だが、盲人の女と一緒にいるということは言えそうもなかった。

 どちらが可哀そうなのかわからなかったが、女も善吉も哀れに思えた。女は盲学校を卒業したものの、食うに事欠く始末で、乞食のような生活をしていたという。

 やがて、女は善吉と知り合った。声が良く、歌が上手だったという利点を生かし、善吉の肩を借りて町々を歩いて門付けをし、いくばくかの金や握り飯をもらって生きていた。

 流一は、多くの人から聞いた事柄を繋ぎ合わせて、これだけのことを知り得たのだが、どうして彼女は、学校を卒業していった先輩のように、マッサージの仕事をしないのか不思議だった。マッサージをしていれば、乞食などしないで済むのにと、轟きながら下っていく濁流を見ながら思った。

「栗田、善吉には女の人がいるって聞いていたけど、その人はどうしているのかなあ」

 川井がぽつりと言った。その重苦しい物言いに流一は川井の顔を覗き込んだ。

 夕陽を背にしているためばかりでなく、川井の顔は声と同じように暗く隈取られていた。それがどこからきているものか、流一にはわからなかったが、川井の心に、あまり思い出したくない過去の欝気のようなものを感じ取った。

 残された女の口から、どうして善吉が危険を冒してまでして流木を拾おうとしたか話された。学校の誰が、どこで、誰から聞いてきたのか知らなかったが、とにかく、流一や川井は、先輩たちの口から善吉の死因を聞き知ることができた。

 すっかり夏になったと思った矢先、それまで降った雨の量をひとまとめにしたほどの豪雨が三日間も続いた。たとえ七月に入ったからといって、山国は雨が降ると、どことなく寒さを覚える。家のない善吉たちにとって、社殿の下の生活はさぞ寒かったに違いないと、先輩たちは言っていた。

 それで、善吉は枯れ枝を集めて燃やしたが、雨を含んだ枝は火力も弱く、太い木を求めて捜しているときに、女鳥羽川を流れ下っている流木に目をとめたに違いない。女は

「わたしが妊娠をしていて、夜中に震えているのを見て、善さんは…」

 と言って、あとは言葉にならなかったそうだ。

 流一は、先輩たちが、どうしてそこまで知っているのか本当に不思議だった。皆の話を聞いていると、まるで見ていたように聞こえた。だから、つい

「ねえ、見てきたの?」

 と尋ねてしまったほどだった。

 この事件の二週間後に盲学校は夏休みに入ったが、その頃、善吉の死体が発見されなかったことで、大学病院は大損をしたというおまけ話まで、実しやかに話されているのを、流一は同級の鈴江から聞いて、変な気分にさせられたものだった。


 積乱雲が諏訪湖の西の空にもくもくと湧き上がっていた。頭上は夏の太陽のきらめきのせいか、空の奥の奥まで見はるかすことができなかった。

 流一は久しぶりに諏訪湖へ行ってみようと、祖父母が昼寝をしているのを横目で見ながら出かけてきた。

 狭い家の中で、祖父母といることに気づまりを覚え、ふらりと出てきたのだ。何がなんでも目のとどくところに祖父の存在をたしかめていなければ不安になった時期が、ついこのあいだまであったことが不思議だった。

 湖畔は観光客で溢れていた。数年前までは、たとえ夏休みでもこれほどの人はいなかった。やはり平和な時代がきたのかと、改めて戦争の終わったことを思った。

 あれから八年になる。失明という大きな経験により、盲学校へ転校したが、休みで帰郷したおりに小学校時代の同級生とも道で会うと声を掛け合ったものだ。ところが、最近では素知らぬ顔で擦れ違うようになっていた。今も豆腐屋の同級生に会ったが、相手はすっと横を向いて擦れ違っていった。

 流一は振り返った。同級生は角を曲がるところで振り返り、流一が見ていることに気づくと、慌てて背を丸めて角を曲がっていった。もう自分は別世界の人間になったのだと、風に揺れる雑草のように、幾分ざらついた感覚で受けとめた。それでも、心の底に、この町には友達がいなくなったという思いが拭いきれずに残った。

 西山の上に座っていた積乱雲は活発に運動を続けていた。大きな頭が強風に煽られ、幾つにも分裂して潰れたかと思う間もなく、密度の濃い雲の中から新しい頭がむくむくと盛り上がってくる。

 いつ見ても積乱雲は力強さを感じる。盛り上がった肩の上に乗った頭の大きさにも圧倒されそうだった。湖にはボートがたくさん浮かんでいた。どのボートも若い人たちで、大きな声を張り上げて仲間を呼んだり、空に向かって叫んだりしていた。

 流一が、ぼんやり雲の盛り上がりや、湖上を滑るボートに目を向けていると、いきなり肩を叩かれた。振り返ると、日に焼けた顔のなかで、歯の白さがやたらに目立つ背の高いやつが笑っていた。

 バットを肩に担いでいる尚彦だった。あまり背が高くなっていたので、小学校時代の同級生とは思えなかったのだ。

 相変らず爺むさい顔をしていた。中学生と思って見るからそう思うだけで、知らない人が見れば、どう見ても高校三年生くらいか、もしかしたら、二十歳すぎと見られるかもしれなかった。流一は懐かしさに

「やあ、尚彦君」

 と言って、つい尚彦の両腕を掴んでしまった。

 流一が勢いよく尚彦の両腕を掴んだので、肩に担いでいたバットが跳ね上がって、尚彦の後頭部にぶつかり、乾いた音がした。顔も爺むさいが頭の中も昔とちっとも変らないやつだと、流一はおかしくなって笑った。

 ふつうなら、頭にバットがぶつかれば、痛いとか、何するでえ、とか言うはずなのに、尚彦は何も言わずに流一同様、へらへら笑っていた。こんなところも小学校の頃とちっとも変わっていなかった。

「夏休みけえ」

 尚彦は流一の身長より十数センチは大きい。そいつが白い歯を覗かせて流一を見おろして言った。流一が返事をしようと、背を伸ばし、口を開こうとすると

「義和君に会いたくねえけ」

 と言って、流一が何も言わないうちに先へ立って歩き出した。こんなところも昔と変わっていない。

 流一は、手触りもやわらかな布で顔を拭いたような気分になった。いまの今、ほかの同級生に突き放された思いに、少し嫌な気分になっていたことも忘れることができそうだった。きっと義和も尚彦と同じだろう。

 大阪から祖父母に伴われて帰ってきた翌日、城南小へ行ったときに尚彦と義和が汚れた残雪の校庭へ連れ出してくれたことまで思い出した。

 バルブ工場から出される煙が、たなびいている。川へ出される廃液が川を濁らせてもいた。きれいだった湖も、底まで見えた川も次第に汚れてきた。諏訪へ帰ってくる度に、町の全体が少しずつ汚れていくように思えてならない。隣家の義則が言っていたことをふっと思い出した。

「バルブ工場の水が流れ込む辺りで釣った魚や貝を食っちゃいけねえぞ。工場から流れ出てくる毒で犯されているって」

 そのバルブ工場を通り抜けたところに、いま見た川より狭いが、それでもきれいな流れを持った川がある。その岸を尚彦が上っていく。流一も彼のあとから従いていった。

 土手道の左は林檎畑になっていた。川は底が見えるほどではないが、バルブ工場側を流れている川から比べれば、はるかに水は澄んでいた。

「やっ!でっけえ鯉だ」

 尚彦はバットを放り出すと、背より高く伸びた葦を掻き分けて川へ下りていった。

 流一には見えないが、鯉が泳いでいるのだろう。魚を見つけると、いま何をしているかさえ忘れてしまうのも小学生のときとちっとも変わっていない。

 川を溯上していく鮒や鯉を見つけると、始業のベルが鳴っていようが、一緒に登校した友達がやきやきして呼ぼうが、先に行ってろと言って、尚彦は鞄を道に放り出して魚取りに夢中になってしまうのだ。体は大人だが、魚の姿を見ると小学生に戻ってしまうのだろう。

 流一も尚彦のあとから葦を掻き分けて川へ下りていってみた。

 トンボが騒々しい音に驚いて一斉に飛び上がった。ヤンマなどは、戦闘機のような勢いで上空へ翔け昇っていった。羽の黒いトンボが流一の目の前をゆらゆら飛んでいった。葦原のどこかわからないが、葦切の声もしていた。

「川は汚れてきたが自然は生きているのか」

 流一が声に出して呟いたのを聞きつけた尚彦が川の中から

「何か言ったけ」

 と言って

「松本にもこんな川があるだけぇ」

 と尋ねてきた。

 尚彦も変わりゆく自然の営みに気づいているのではないかと思えるような口調だった。

 尚彦は邪魔になる葦を鳴らしてざぶざぶと川の中へ入っていった。

「鯉がいるんかい」

「おお…」

 尚彦のくぐもった声が返ってきた。密生した葦に阻まれ、尚彦の姿は見えないが、葦を分けて動き回っている音で、彼がどの辺にいるか想像できた。

「葦を分けるとき目に気をつけろよ。じゃねえと、葦の葉で目を切ることがあるからな。俺も前に切ったことがあるうぇ」

 流一は葦を分けて川の中へ入っていった。半ズボンだったが、水は股の辺りまできていた。目の前に草が流れていた。そいつを抓み上げると、長い茎が幾らでも続いてきた。

 流一は水草を手繰っていった。ところが、茎の元は川の深い部分から伸びてきているらしく、流一の手元に手繰られた茎は三メートルにもなるのに、幾らでも手繰り寄せられそうだった。

「やったぁ!」

 葦を分けてばしゃばしゃと音がしたかと思うと、目の前に尚彦が大きな鯉を胸に抱えて大満足の笑みをたたえて立っていた。

「馬鹿な鯉だなぁ。尚彦君に掴まえられるとは情けない」

「馬鹿を言うな。俺さまは魚を取る名人みてえなもんだ」

 尚彦は川から岸へ勢いよく駆け上がっていった。流一も手元に手繰り寄せた水草を川に戻して、あとから追って岸へ上がった。

「こうして目を隠してやると鯉のやつは死なねえんだぞ。ランニングも濡れているからちょうどいいわい」

 尚彦は鯉を草むらに置くと、濡れて肌に貼りついているランニングシャツを脱ぎ、裾を縛って鯉を頭から入れると、手でぶらさげられるようにした。

「いまごろの鯉は食ってもうまくねえが、流一君のところじゃ食わねえけ」

 流一は逡巡した。もともと川魚が苦手で、祖父母に叱られながら、それでもほんの一切れを口にする程度だった。

「駄目だ。俺の家じゃ川魚は食わねえ」

「そんなことねえずら。流一君のお祖父さん、よく湖水で釣りをしているぞ」

 尚彦は口をへの字にして流一を見おろした。

「知ってるんなら聞くな」

 流一は、自分でも気づかないあいだに、昔に戻っていた。何のこだわりもなく尚彦と口を利いている自分に驚いてもいなかった。

「俺、鯉を持っていくで、流一君はバットを持っていってくれや」

 尚彦はそう言うと、さっさと歩き出した。

 二人とも濡れていた。特に尚彦はズボンはびっしょで、上半身は裸だった。流一は半ズボンの下の部分が濡れる辺りまで水に入ったつもりだったが、実際は腰まで濡れていた。それでも二人は気分爽快で歩いていった。

 家まで十数分の距離だったが、濡れていたズボンも歩いているうちにほとんど乾いてしまった。

 湖の周辺の空気は爽やかだったが、ごみごみした小路へ入っていくと、熱気が籠もっていてたちまち汗が吹き出してきた。玄関から入るつもりだったが、裏の木戸が開いていたので、流一と尚彦はそこから入っていった。

 隣家との境に寄せ集めの板で作った塀があるが、そこに祖母は朝顔を撒いておいた。それが伸びて花を付けるようになっていた。今朝も多くの花を咲かせたが、今はどの花も萎んでいた。

 ガラス戸を大きく開いた廊下に祖父が座って敷物作りをしていた。新聞紙や、広告の紙で小さなものから大きなものまで、色とりどりの敷物を廊下に並べていた。

 祖父は手先が器用だった。作ったものを来る人にやったり、自分から親戚の家に持っていったりもした。鍋・釜の敷物にする単純なものから、花瓶敷や茶器を置くくらいなものまで作るのだが、今は畳一枚分ほどもある大きなやつを作っていた。

 二人が入っていくと

「おお!尚も来ただけえ」

と大きな目を眼鏡の上から覗かせた。

「お祖父さん、鯉を取ってきた。夏の鯉はうまくねえが食ってくれよ」

 と、手にぶらさげてきた鯉をランニングのまま廊下へそっと置いた。

「いつもありがとよ。こいつを掴まえたのけえ!」

 祖父は満足そうに笑って、早速、風呂場へ持っていった。木の盥に水を張り、ランニングから鯉をそっと出してやった。鯉は狭いながら自由になったことで、少し元気を取り戻し、しきりに尾で水を叩いた。

 そこへ祖母が涼しそうな洋服に日傘を傾けて買物から帰ってきた。水色の日傘は祖母によく似合っていた。ぼけっとしている尚彦に優しく声を掛けてから、部屋へ上がった。

 どこの家の老人も継ぎはぎだらけの着物を身に着けていた。そんななかで、祖母の容姿は珍しいどころか、少し派手だった。

 尚彦にとっては驚くべき姿だったろう。口をあんぐり開いて、

「ややや!」

 と言ったきり、祖母が部屋の奥へ消えるまで見送っていた。流一は誇らしくもあり、それでいて、腹立たしいものを感じていた。





  • 第15回へ続く


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