浮き草 第4回
森亜人《もり・あじん》
一の続き
秋の爽やかな日曜日だった。遮るもののない焼け野原は陽の光で満ちあふれ、斜光は球場の外壁いっぱいに照り映えていた。
いつものように流一は友達と野球をやっていた。ライトと定めた後ろは、爆風で飛ばされた球場の外壁がぽっかり口を空いている。そこへ入ればホームランということに決められていた。
流一はセンターを守っていた。相手チームの六年生の打ったボールがライトの頭上を越えて、球場の外壁の穴へ吸い込まれていった。同級生は背を丸めてボールを追っていったが、急に足を止めてしまった。
そこに女が立っていた。阪神電鉄の近くにある松林の中や、広がる焼け野原の中や、成尾の市場で見かけた女だった。ピッチャーをやっていた六年生の餓鬼大将がその女を見て
「やあいパンパンだ。非国民だぞ」
と叫んで、全速力でライトのほうへ走っていったかと思うと、彼女に石を投げつけた。
パンパンのほとんどは、アメリカ兵がいれば逆に言い返してくるが、一人のときは、どのパンパンも悪態をつきながら逃げていくのだが、その人は何も言わないでそこに立っていた。
流一も慌ててライトに駆けていった。
―― 違うんや。あの人はパンパンやあらへん。皆はまちごうとるんや。 ――
継母と成尾のマーケットへ買物に行ったおり、背が高くて金髪のアメリカ婦人といるところを見て母が
「あの人は隊長さんの奥様で、日本人は家政婦さんよ」
と教えてくれたことを思い出し、流一は無意識のうちに
「あかん、このおねえちゃんはパンパンやあらへん」
と叫んでいた。
皆は流一の勢いに圧倒されて、きょとんとした顔で女と流一を見比べていたが、ライトを守っている同級生を追い越して駆けつけた六年生が鼻でふんとせせら笑って、唾をごくりと飲み込むと
「なんやおまえ、あのパンスケと親類か」
と言った。
流一は否定しなかった。皆は一斉に
「親類や親類や。栗田はパンパンと親類や」
と言って、流一と女に石を投げつけてきた。
流一は女に駆け寄ると、両手を広げた。小さな石が流一の周囲にばらばらと飛んできた。そのうちのひとつが流一の額に当った。流一は歯を食いしばって立ち続けていた。
仲間たちは流一の額から鮮血が飛び散るのを見ると、電車通りを渡って住宅がやっと立ち並びはじめた通りへ、蜘蛛の子を散らすように喚声を上げながら逃げていった。
どの子も、どんなに慌てていてもバットやグローブを忘れていく者はいなかったらしく、逃げ出したあとには、棒ぎれで引いた線だけが野球をしていたという痕跡を残しているだけで、今まで野球をしていたとは思えない、ただの焼け野原が広がっているばかりだった。
「ぼん、痛いことあらへんか…。おねえちゃんは庇うこといらへんかったんよ。ぼんはおねえちゃんのこと、『パンパンやあらへん』と言ってくれはったけど、おねえちゃんはパンパンよ…。みなが言うてるようにほんまの非国民よ」
流一は女の声が優しいので嬉しかった。が、自分を、『パンパンよ』と言ったときは悲しそうな声だったし、『非国民よ』と言ったときの女の声には、
「ぼん、痛いことあらへんか…」
と言ってくれたときのような優しさのないことに心が痛んだ。
女は傷ついた流一の額にハンカチを押し当てながら澄んだ目を流一に当てていた。
「そなことあらへん。おねえちゃんはパンパンやあらへん。おねえちゃんはほんまもんのおねえちゃんや」
流一は父親に激しく罵倒され、蹴られ、殴られても決して涙を流したことはなかったが、今、流一の両眼からは止めどもなく涙が溢れていた。名前も知らないのに、言葉も交したこともないのに、女の情愛が流一の心に染み込んできた。
「ちゃうんや、おねえちゃんはおねえちゃんや!」
流一は嗚咽に喉をつまらせながらそう繰り返していた。
「ぼん、ありがとう。ぼんは、おねえちゃんを庇うてくれるんやねえ。ぼんもきっとさみしい子なんやねえ。」
女は流一の上に涙を落していることも構わず、じっと流一の顔を見つめていた。
流一は自分の涙なのか女の涙なのかわからなかったが、上唇を伝う雫をなめてみた。
流一は、その味が自分の境遇によく似ていると思った。目を上げると女の顔があった。目をさらに上げると、赤トンボの群が見えた。その群の後を追って視線を移すと、甲子園球場のすすけた外壁と、蔦の青々した葉が見えた。
「お医者はんへ行かんとあかんとちゃうやろか。お家まで送ってやりたいんやけど、またぼんに石を投げたらあかんよってになあ」
と女は涙を拭いながら言った。
「かまへん、ほんまにかまへんのや…。こんくらいの傷なんか何ともあらへん。いつもお父さんに殴られとるさかい、それ思うたら、こんくらいの傷は心配いらへん」
流一は女を庇うつもりでそう言ったのではない。毎日の生活の一端を、毎日の生活の不満を言ったのだ。女は驚いて胸に抱いていた流一を少し引き離すようにして
「ぼんのおとうちゃん、そなんきつうしやはるんか…。えろう恐ろしいおとうちゃんなんやねえ」
と言って再び涙を落した。流一は嬉しかった。自分のために泣いてくれる人がいた。継母の虚偽で固めた涙ではなく、清潔な涙を流してくれる人のいたことに流一は言いようのない喜びを感じた。
流一は、ふと父を思ってみた。
父も本当は寂しい人で、自分を蹴ったり殴ったりするつもりは無く、継母と睦み合う心を求めていたのでは。流一が継母になれ親しまないことに心を痛めていたのかもしれない。
流一は女の厚い情愛の胸にもたれて考えていた。
女は流一を抱いたまま茫々と広がる焼け野原の彼方に目を向けていた。遮るもののない原に陽が溢れ、女と流一を包み込んでいた。流一は小声で
「おねえちゃん」
と呼んでみた。
「なんやの、ぼん…」
女は首を傾けて流一の顔を覗き込んだ。にっこり笑った笑顔が夕陽より美しく、大きく見開いた瞳は秋空よりも澄んでいると流一は思った。
ふたりは手を繋いで池の周囲を巡りながらいつまでも話していた。
「ぼんはなんちゅう名や」
「流一」
「ふうん流ちゃんかあ…。いい名やねえ」
「おねえちゃんは」
「おねえちゃんか?おねえちゃん、秋江っていうんよ」
「ふうん」
「ぼんには兄弟おらへんの」
流一は躊躇した。改めて自分の兄弟のことを考えてみたこともなかった。姉を思い出すと赤子にためらいを感じ、赤子を妹と思えば、てる美を姉といえないように思えた。
「ほんまのおねえちゃんと嘘の妹がいるんや」
と流一は答えた。
秋江は一瞬当惑したように池の面を見ていた。
「ふうん、ぼんも苦労しやはってるんやねえ」
夕陽が甲子園球場の影を引いていた。爆撃で家の跡もない瓦礫の原を風が渡っていく。少し枯れはじめた雑草が揺れ、小さな花がはらはらとこぼれていた。暖められた石の上に四肢を伸ばしたトカゲがじっとしている。風さえなければ、一枚の絵のような風景だった。
流一は秋江と別れて、崩れた壁や倒れたままになっている石燈篭を飛び越えて走っていった。そして最後の石燈篭に手を掛けて振り向いた。遥か遠く、西陽を背に秋江がまだ立っていた。流一は口の中でたしかめるように
「おねえちゃんはおねえちゃんや」
と呟き、数十センチほどある石垣を軽々と飛び降りた。
めまいや吐き気に悩まされながら流一は二学期をどうにか過ごすことができた。年も明けた正月のある日、流一は父とカルタ取りをしていた。テーブルに並べられた取り札の絵は単純なもので、プロ野球選手カルタだった。
しかし、流一はテーブルの上に置かれた札をなめるようにしなければ、札の左上に書かれた文字が読み取れなかった。父が読んで流一が拾う。流一は早く取らなければ父に叱られると思うと、ますます文字がくるくる回り出してなかなか拾えないでいた。
そのうちに喉を突き上げるような吐き気に襲われ、流一は思わずテーブルに顔を伏せてしまった。部屋の隅で妹に乳をくれていた継母が
「パパ、流一さんは目が悪いんと違いますの」
と言った。
流一には継母の言った意味がよくわからなかった。めまいや吐き気は身をもって体験していることだったので、人に言われなくても理解できたが、目が悪いという言葉の意味がどんなことなのか自分に当てはめることができなかった。
テーブルに顔を伏せているあいだに、吐き気が去ったので、流一は顔を上げて周囲を見まわしてみた。
壁の棚に置かれたラジオは普通に見えているが、父が妹のために買ってきた京人形の姿が傾いて見えた。窓の外に広がる冬の空に、高島公園で見た小虫の群が数を増していた。隣家の屋根の上に張られた電線の一部分が膨れていたり、逆に細くなったりしているように見えた。
どんなに目をこすっても、その状態は二度と消えることはなかった。消えるどころか、節穴などなかった天井に、幾つも穴が空いているように見えるのだ。
父と継母とのあいだで、どのように話が進められたか、無論、流一は聞かされていなかったが、数日して、流一は継母に連れられて阪大病院の眼科を訪れるため電車に乗った。
急行を待っているあいだ、流一は六甲から吹きおろす冷たい風をまともに受けながら、球場を見ていた。
陽が差さないせいもあるだろうが、建物全体がくすんで見えた。雪など降ってもいないのに、上空にはちらちらする物体が浮遊している。遠く焼け野原を望んだが、霞が掛かっているように、野原はうすぼけていて判然としなかった。
あの日以来、秋江という女の人にも会っていない。プラットホームからも見える松林の中を捜してみたが、やはり彼女の姿を見つけることはできなかった。
――あのおねえちゃんは甲子園からどこかへ行ってしまったんやろうか。 ――
流一は漠然とではあったが、秋江も甲子園の大球場の姿も二度と見ることができなくなるような気がしていた。
今、浜のほうから路面電車が、ぴかぴかと火花を散らしながら走ってくる。電車の走行音より大きな音を立てて、アメリカ兵の乗ったスクーターが電車を追い越して流一の足の下を抜けていった。
やがて、路面電車も流一の立っているプラットホームの下をくぐり抜け、上甲子園に向かって走っていくだろう。その箱のような電車も、既に走り去ったスクーターも懐かしいもののように見えた。
病院は、流一の知っている田舎の上諏訪病院や日赤病院とは比べものにならないほど大きかった。待合室で順番を待っている人の数も多く、本当に自分も診察してもらえるのか不安になるほどだった。
待合室には自分と同じくらいの子もいれば、髪の毛が真っ白い人もいた。にこにこ笑っている人、悲しそうに下を向いている若い女の人、片目に厚く包帯を捲いている人などでごったがえしていた。
継母は視力検査表から少し離れたところに流一を立たせ、電灯がともっている検査表の横から、
「これわかる?」
と言いながら、黒く塗ったさまざまな形のものを棒で示した。
右上が切れている丸。左が切れている四角。三角の中に棒が一本あるもの。どの通りでも、上から三番目くらいのものは、丸や三角ばかりでなく、文字も見えた。しかし、それより下のものは近づかないと答えられなかった。
継母は、流一の横へ立つと、片目を隠し、どの行のものも上から下まで読んでみせた。流一は、その行為がわざとらしく感じ、いい気持ではなかった。
待合室の雰囲気に馴れるまでの流一は、不安もあってか、継母の横に座っていたが、三、四十分と経つうちに次第に退屈を感じ始め、他の子供たちと同じようにあちらこちらと歩きまわるようになった。
最初は継母の見える範囲でうろちょろしていたが、馴れてくると、流一は継母の側にいなくても平気になってしまった。
外来患者同志の話し声や、診察室へ呼び込むために開かれるドアの軋む音。そこへ看護婦の高い声が入り混じって、病院独特の喧噪を醸し出していた。
流一は、そんな渦から逃げ出すように静かな廊下へ滑り込んだ。左右に並んでいる病室のドアの上に提げてある名札を見ながら二階から三階へ上がっていった。
廊下の角を曲がったとき、いきなり目の前のドアが勢いよく開いて、松葉杖の男の子が廊下へ飛び出してきた。
危うく二人は額と額をぶつけそうになったが、その子は、おっとっとう、と言って身をかわし、流一は前につんのめりながらドアのノブに掴まって転ばないで済んだ。
男の子は松葉杖を上手に操って、寝巻の裾をひらひらさせながら、二つ三つ先のドアの中へ入るとき、後ろを振り返り、流一に明るい笑顔を向け、ぐいと顎を突き出してみせた。
松葉杖をついた男の子の出てきたところはトイレだった。流一はドアを押して中へ入ってみた。三つ並んだドアの一つから水の音がしていた。流一は音のするドアを押して中を覗いてみた。真っ白い便器の底の穴に水が少し溜っていた。頭上の円筒形の筒の中へ、どこから流れてくるのか水の入る音がしていた。
流一は今まで水洗便所というものを見たことがなかったので、一風変わったこのトイレに興味をそそられた。
正面の壁に長い鎖がぶらさがっているのを見つけた流一は、その鎖をちょっと引いてみたが、鎖はびくともしなかった。そこで流一は、鎖にぶらさがるようにして力いっぱい引いてみた。すると、頭上でごとんという音がしたかと思うと、便器の前のほうから水が激しくほと走り出てきて、たちまち便器の中は水でいっぱいになった。
流一はすっかり感動してしまい、並んでいるドア全部を開いて、次から次へと鎖を引いて歩いた。その度に水が生き物のように穴の中へ吸い込まれていった。
幾つ目かのトイレの鎖を強く引いた瞬間、頭上で嫌な音がしたかと思うと、鎖がじゃらじゃらと落ちてきた。
流一は真っ青になって、トイレを飛び出し、廊下を幾つも曲がって人の声が満ちている外来へ飛んできた。
それからの流一は、診察が済み、病院の建物を出るまで、継母の横を一歩も離れようとはしなかった。
自分のやったことが見つかり、掴まえにやってくるのではないかと、絶えず周囲に目を配っていなければならなかった。
診断の結果は、先天性視神経委縮で、しかも緑内障でもあるとのことだった。
流一は、若い医者と継母が話をしているのを横で聞いていた。
目の大きな医者は声が大きかった。肩をすぼめている継母になど頓着する様子もなく、威嚇するように継母の不注意を叱りつけていた。それに対し、継母は、
「済みません。若い者ですから」
と、ぺこぺこ頭を下げていた。
流一は、自分の眼病がどのような性質のものか知るよしもなかったが、二人の話を聞いていて、ただ近いうちに入院して手術を受けなければならないことだけは理解できた。
一月の末、今にも雨が雪に変わりそうな寒い日だった。流一は目の手術を受けるために阪大病院へ入院した。
あれから何日も過ぎているから大丈夫だとは思ったが、もしトイレの鎖を壊したことが発覚したらどうしようという懸念がないでもなかった。だから、入院するための病室に案内されたときは心臓が破裂するかと思った。
流一は真っ先にトイレへ飛び込んで見覚えのあるドアを恐る恐る押してみた。床の上に落ちて、蛇のトグロのように丸まっていた鎖は、前のように天井から長々と垂れていた。
手術をしてくれたのは、数日前に継母を叱りつけ、親の不注意もいいとこだと言ってくれた若い医者だった。
局部麻酔だったので、目の上に鋭く光るメスを見たときには、思わず声を発しそうになった。メスを操る指が血の通わない機械の部分品のように見え、ときどき、看護婦が優しく声を掛けてくれても、なかなか安心できそうもなかった。
長い時間のようでもあり、ほんのつかの間のようにも思えた。手術後、ストレッチャーに乗せられ、北病棟の三階の五号室へ運び込まれて間もなく、流一は深い眠りに落ちた。
ふと気づくと寝かされているベッドの横から鼾が聞こえた。特徴のある波打つような鼾に流一の心は踊った。
「お祖父ちゃん…」
流一は嬉しくなって、ついそう叫んでしまった。
三週間の入院だった。その間、流一の傍らに付き添っていたのは祖父だった。祖母は、血圧が高いとかで、甲子園の家に残っていて、一度も病院へ顔を出さなかった。
入院中、祖父に代わって若い女の人が二度か三度、流一の側に付き添ってくれた。
その人は、昨年の春、祖父母に連れられて大阪駅に降りたとき、出迎えてくれた父の会社の人だった。誰もが『ロコちゃん』と呼んでいたので、流一までもが皆と同じようにロコちゃんと呼んだ。
その人は口数の少ない人だったが、何が嬉しいのか、いつもくすくす笑っていたし、蘇州夜曲を歌ってばかりいた。
そのことを祖父に話すと
「おう、あのねえちゃんは嫁に行くことになってるちゅうわい」
と、祖父も楽しそうに話してくれた。
やがて包帯を解く日がやってきた。
祖父も流一も朝からどことなくそわそわしていて、祖父などは、廊下に足音がすると、先生が回診にきたかと思い、慌ててドアのところへ飛んでいくのだった。
流一はベッドに腰かけ、看護婦が解いていく包帯の重みが減少していくのを感じていた。次第に頭が軽くなっていき、最後の金属製の眼帯が外されると、射るような光を受けた。
流一は眼前を包む明るさにほっとした。あの闇ではない。明るさが、薄いガーゼを透かして見えた。ガーゼが外されると目の前に笑っている看護婦と心配そうな顔をした祖父の顔が見えた。ドアの取っ手も、天井の角に蜘蛛の巣が切れ切れになったまま幾筋かの銀色の糸が垂れ下がっているのも見えた。
眼帯が外されてからも流一はなお、一週間ほど入院をつづけていたが、退院する前の晩、祖父は夕食の膳を前にし、流一のために魚の骨を抜き取りながら何げない調子で
「流一やい、じいちゃんと田舎へ帰るか…」
と言った。
いつもなら、茶色の大きな目をぐりぐりさせて、顔を覗き込むように話すのだが、祖父は流一の顔を見ようともしないでぼっそりと言った。
流一は、自分の返辞のしようによっては、生活が一変してしまうことなど考えずに
「うん」
と言った。
祖父がどうしてそんなことを言い出したのか考えてもみなかったが、祖父や諏訪の友だちと遊べるのならそれでいいと思った。
甲子園にいても流一の遊び相手は、秋江とのことがあってからというもの、数を減らしていた。秋江にも逢えないのなら甲子園にいても良いことは何もない。田舎に帰れば流一を満足させてくれるものが幾らでもある。
退院して甲子園に戻った流一は、球場と、秋江と歩いた池だけはよく見ておこうと、毎日のように球場の周囲や、今では草も枯れ果ててしまった原っぱを飽きるまで歩いた。
去年の暮れころまでなら、もしかしたら秋江に会えるかもしれないという期待を持っていたが、諏訪へ帰ろうとしている今となっては、秋江に会えるかもしれないという思いは消えていた。
流一は二年前に大阪へ連れてこられたときの顔ぶれで諏訪へ帰るため、学校や、継母の母親のいる尼崎の家にも別れのあいさつを言いに出かけていった。
大阪へ来るときは母や姉が、どうしていないのか不思議に思っていただけで、自分がどうして大阪に連れてこられたのか深く考えもしなかった。
しかし、諏訪へ連れ戻される今、流一の意識には、父や継母に捨てられたという現実が刻印されていた。
流一は、小学一年のときのクラスに編入してもらえた。先生も一年のときの坊主がりの先生ではなく、若い女の先生だった。三年三部の教室の横を、固い顔で流一が歩いていくと、尚彦と義和が駆けて来て
「やあ、流一さんだ」
と言って、たちまち二年前に戻ってしまった。
三人は校庭に飛び出していった。流一のあとから走ってきた二人は、流一の関西弁がおかしいといって涙を流して笑った。流一も理由もなく笑った。ずいぶんひさしぶりのような気がした。大阪にいたとき、こうして笑っただろうかと流一はふと寒い過去を覗いてみた。
「もう大阪に行きとうないわ、ここがええ、ほんまにここがええんや」
流一は、尚彦や義和と校庭を走りまわりながらそう呟いていた。そして、校庭の隅に積み上げられている汚れた残雪に向かって、両手を広げて突進して、そのまま雪の中へ身を投げた。尚彦も義和も流一のあとを追ってきて、彼等も雪の中へ顔から突っ込んできた。
―― こんな友達は大阪にはおらへんかった。ほんまに諏訪へ帰ってきてよかった!
――
流一は雪の中へ顔を突っ込んだまま思いきり大きな声で尚彦と義和の名を呼んでみた。すると、たちまち両眼から熱いものが溢れてきた。
誰にも見られるはずもないのに、流一は恥ずかしくなり、顔を横に振った。茶色に変色した雪を口いっぱいつめ込むと、積み上げられた雪の深い部分へ、潜水艦のように体を沈めていった。