浮き草 第5回




森亜人《もり・あじん》

     二

 学年も改まり、流一は四年生になった。

 新学期早々、流一は高熱のため学校を休まねばならなかった。実際は数日前から頭痛が襲ったり、潮の引くように跡形もなく消えたりしていたので、いつもの頭痛だくらいに考えていたのだ。

 枕許の鴨居には祖父の買ってきたオンベが差さっていた。赤、黄、青のあいだに白を組み込んだふさだった。高熱のためなのか、それほどきつい色でもないのに、その色合いは目に染み込んできた。

 流一が小学校四年に進級した年は、御柱祭の年で、寅年と申年に繰り広げられる日本三大奇祭の一つとされている祭りだった。

 特に今年の場合は、戦後に行われる最初の御柱祭で、女の人も参加できるようになったため、その賑わいが想像されていた。

 鴨居に差さったオンベをじっと見上げていると、早く直って尚彦や義和と一緒に、御柱の通過する街道に行ってみたいと、つい心が騒いだ。

 街道といっても、流一の住んでいるところからは上社でも下社でもバスか汽車に乗らなければ行かれない場所だったので、どうしても大人に連れていってもらうほかない。熱は既に平熱になっていたが、祖父母が許してくれそうもないので、流一は仕方なく祖父の話で我慢していた。

 そのオンベも祭りを待たずに無用のものとなった。

 三日後、流一は元気よく登校した。その朝、オンベを振って黄色い声を張り上げ、

「みなさま方よ、お願いだあー」

と、木遣りのまねをして家の中を走りまわった。

 いつも頭痛に悩まされている祖母は、今朝も頭が痛むらしく、ノーシンの包みを解きながら、眉間に縦皺を寄せて流一に小言を言っていたが、流一は耳も借さず、家の中を飛びまわった。

 放課後、尚彦たちと公園で会う約束をした流一は、急いで家にオンベを取りに帰った。公園の桜は花の蕾も固く、南に庭を持つ家の梅だけがちらほらほころんでいた。

 公園の横の道を行くとオデオン座と都座の二つの映画館があり、そこを左に折れると並木通りに出る。そこをまた右に曲がると、否応なしに伯母の家の前を通らねばならない。流一は、いつも凍りつくような心の痛みを覚えながら、その道を通っていた。

 今も茶箪笥のところに立てかけてきたオンベの鮮やかな色彩を瞼の裏に描きながら、足早に通り抜け、欅の大樹を巡った。

 そこには光がなかった。目の前は深海のそれよりも暗かろうと思われるほどの闇に閉ざされていた。

 流一は、今年の正月の出来事を瞬時に思い出した。父とカルタ取りをしているときだった。その後、阪大で手術をしたから二度とそのようなことにはなるまいと思っていただけに、突然自分を閉ざした闇は正月のときの闇より恐ろしく感じた。

 流一は欅の木の下にうずくまってしまった。耳を澄ませると、さまざまな音が体の周りで生き生きとしていた。流一は思わず

「おねえちゃん、ぼく怖いよう」

と叫んだ。

 おねえちゃんというのが誰を指しているのか考えるゆとりなどなかった。母と共に隣り町に住んでいると聞いた、てる美のことかもしれないし、忽然と姿を見せなくなった秋江だったかもしれない。どちらにしても流一は誰かの助けが欲しかった。

 騒音は流一の声を呑み込んでしまったらしく、誰の耳にも入らなかった。父も継母もいない。祖父も祖母もいない。ましてや秋江もいるはずはなかった。流一は不安に気の狂ったように駆け出した。

 激しい警笛とブレーキ音。男の怒声。女の悲鳴。流一は全てを振り切るように駆け出した。だが、たちまち店先に並べられた野菜篭の中に横転してしまった。

 手術後、全く忘れていた頭痛も吐き気もなく、闇は突然流一を再び奈落の底に引きずり込んでしまったのだ。

「どうした流ちゃん、前をよく見て歩かんといかんよ」

 近所のおばさんだった。

「そやかてなんも見えへんもん」

 流一はその人の腕に取り縋ってそう言った。

 その人は同級生のお母さんだった。日本人形を思い出させる子のお母さんで、流一の家と同じ通りにあって、傾きかけた長屋の二階に住んでいる人達の一人だった。

 大人たちが話をしているところへ巡回中のお巡りさんがやってきて、八百屋のおばさんと、同級生のお母さんから事情を聞き、流一を自転車の荷台に乗せて家まで送ってくれることになった。

 流一は、同級生のお母さんが

「それじゃあお巡りさん、この子をよろしくお願い致します」

 と言うのを聞いて、たちまち顔色を変えた。

 堂島の一件が脳裏を過ぎった。

 汚れた水面にぽっかり浮かんだ若い男の苦痛に歪んだ顔を思い出したのだ。流一は、そのときの若者の姿を自分の上に重ねてみて、その恐ろしさに、いきなり走り出そうとしたが、警官が跨っている自転車にぶつかってしまった。

 流一は殺されると思った。今度こそ、若者が撃たれるのを見たことで殺されるだろうと観念して目を閉じた。

 八百屋のおばさんがいきなり流一の体を抱き上げて

「おかしな子だねえ」

 と言いながら、自転車の荷台にひょいと乗せてしまった。

 流一は、自転車をこぐお巡りさんの腰のベルトにしっかり掴まっていた。この腰のどこかに拳銃がぶらさがっているかもしれないのだ。そう思うと、初めに掴まらせてもらったベルトの位置からほんの少しも手を動かすことができなかった。

―― このお巡りさんは堂島のお巡りさんとちゃうんや。戦争も済んださかい、ぼくんとこを撃つことはあらへん。 ――

 流一は、耳許を鳴らして通り過ぎていく風の音を聞きながら、胸に込み上げてくる不安を追い払うようにそんなことを考えていた。

 自転車が変な音を立てて急に止まった。

「おっととう。ここだ、ここだ」

 とお巡りさんは言って自転車を止めた。急に自転車が止まったので、流一は広くて大きなお巡りさんの背中に頭をぶつけてしまった。

「おお!ごめんよ」

 お巡りさんは流一にそう謝りながら、流一の体を軽々と抱き上げて地面におろした。流一にはお巡りさんの顔は見えなかったが、心の中で

「やはり堂島のお巡りさんと違うんや。諏訪のお巡りさんは優しいんや」

 と呟いた。

 祖父母の驚きは尋常ではなかった。祖父などは押し入れから蒲団を出して、流一をそこへ寝かせる始末だった。流一を寝かせてしまうと何もすることがなくなり、枕許にしばらく座っていたかと思うと、今度は立ち上がって部屋の中をうろうろ歩きまわり、水は飲みたくないかとか、何か食べたくないかと流一にたずねるのだった。

 祖母は何も言わないで炬燵に当っていたが、うろうろしている祖父に

「お祖父さん、大阪へ電報を打ったほうがいいよ」

 と、いつものようにぶっきらぼうな声で言った。

 祖父は、用事ができたことでほっとしたらしく、

「おお、そうだ、そうだ」

 と言って、慌てて廊下に飛び出していった。

 祖父は玄関の戸を開けないうちに飛び出そうとしたらしく、頭を戸にぶつけたとみえ、大きな音がした。

 流一は、自分の目が見えないことの悲しさよりも、自分のために慌てふためいてくれる祖父に強い喜びを感じた。だから、祖父が玄関戸に頭をぶつけたことを知ると

「おじいちゃん、大丈夫?」

と、寝かされた蒲団の中から叫んだほどだった。その流一の元気な声に、祖父も祖母も安心したようだった。

 祖父の打電したのに対し、大阪からその日のうちに返電があった。どんな内容のものか流一は知らなかったが、数日して、中浜町のおじいさんが来たときにその内容を知った。

『イッサイマカス カネオクル』というものらしかったが、大人の話を聞いていて、流一は、中浜町のおじいさんが憤慨するほど腹も立たなかった。なぜなら、諏訪へ連れ戻されてまだふた月にもならないが、頭からは父や継母のことはほとんど消えていたからだった。

 諏訪の家から大阪へ行くときもそうであったし、甲子園の家から諏訪へ連れ戻されたときも流一の意思とは無関係のところで決められたことだった。深い理由など流一にわかるはずもなかったが、自分の周囲には、自分の意識の及ばない渦がつねに存在していることだけは何となくわかっていた。

 流一は再び目の手術を受けた。以前、髪を振り乱した女の人が通りに飛び出してきて、何がおかしいのか、げらげら笑っていた病院だった。

 手術を受けたが、家も近いということから入院の必要もなく、流一は右の目に厚く包帯を巻かれ、祖父の手に引かれて病院通いを続けた。城跡の公園に桜の花がほころぶ四月半ばころも祖父に連れられて病院通いをしていた。

 流一は、今まで考えたこともない大人の使う言葉をそのころから深く噛み締めるようになった。包帯によって閉ざされた闇の世界は流一に不幸とか不遇とか不憫という言葉を教えてくれた。

―― ぼくは不憫な子なんやて。不幸な子なんやて。 ――

 と、流一は寝床の中で考えていた。

 それまで淋しい自分を見つめたことはあったが、不幸な子とか不憫な子などと思ったことは一度もなかった。『鐘の鳴る丘』に出てくる浮浪児や、『家なき子』の少年を不幸な子と思っていたが、自分も彼等と同じだとは考えてもみなかった。

 枕許で祖父母が涙ぐみながら親戚の人たちと話しているのを聞いて、流一は、初め不幸とか不遇とか不憫といった言葉と自分とを一致させることができなかった。闇の中での生活が続くなかで、次第にそれらの言葉の持つ意味と自分の生い立ちと合わせられるようになっていったのだった。

―― ぼくは不幸な子なんやて。 ――

―― そなことあらへん。 ――

 と二種類の言葉を流一は繰り返していた。しかし、これらの言葉よりもっと流一の心を掻き乱した言葉が流一の枕許で話された。

 それは天皇誕生日の祭日だった。いつものように、中浜町のおじいさんが流一を見舞い ながら訪ねてきた。家には祖母と流一だけだった。

「おめえも可哀そうに。とんだお荷物を背負い込んだもんだな。これからどうするで」

 そう言いながら、キセルを煙草盆に打ちつけた。キセルの金具が煙草盆の縁に当ったらしく、カチンという音が静かな部屋に響いた。

 流一は祖母が何と返答するか耳を澄ました。

「兄さま仕方ないわね。交換条件だからねえ」

 キザミ煙草の匂いが流一の寝床まで漂ってきた。そのきつい匂いより、今の今、祖母が言った言葉が流一の心の底に痛みをともなって落ちてきた。


 眼帯を外す日がやってきた。

 流一は三尺の廊下に座蒲団を敷いて爪を祖父に切ってもらっていた。穴の空いた雨樋からぽたぽたと落ちる雨滴の音が静かに聞こえている。阪大病院での眼帯を外す日もきょうのように雨が降っていた。

 庭の先は板塀になっていて、その向こうは隣家の風呂場だった。学校へ登校する前に隣家の子供たちは温泉に入っていくが、今も、クラスは違うが流一と同い年の義則と弟が風呂に入っているらしく、湯を掛け合う音や、わめく声がしていた。

―― 騒いで風呂の中をびしょびしょにすれば、おばさんに叱られるのに。 ――

 と、流一は右の足の爪を切ってもらうために、祖父の膝に足を乗せながら思っていた。

 案の定、台所からおばさんが太い声で義則を呼んだ。流一は一回二回と、おばさんの呼び声を数えた。義則たちは三回目にいつも返事をする。きょうも三回目に返事をするか数えていたのだ。

「義ちゃん…。義則ちゃん…。義則」

 三回目はいつも鋭く厳しい声で呼ぶのだ。今朝も三回目に義則が明るい声で返事をし、そのあと兄弟は何が可笑しいのか、くすくす笑っていた。

 病院へ行くころには雨も上がり、雲の切れ目から太陽が顔を見せるまでに快復していた。

「おお!桜が咲いたぞ。帰りには桜もちでも買っていくとするか」

 並木通りを歩きながら祖父が言った。包帯を通しても春のうらうらしたぬくもりが感じられる。流一は、自分の目で桜の花や雲の流れをたしかめることができるのか不安だった。だから、祖父が桜もちを買ってくれると言ってもそれほど嬉しいとは思えなかった。 

 病院の門をくぐると、円形の池がある。鯉を放しても猫に取られてしまうような池が、少し盛り上げて作られている。その池のところに、病院長の奥さんで、祖父の姪になるおばさんが立っていた。

「流ちゃん、きょうは包帯を取る日でしょう。おばちゃんも一緒に見ててあげるから心配しないで大丈夫だからね」

と、言って

「おじさまも大変ですね。ご苦労さま」

と、祖父に声をかけ、流一の手を引いて病院の中へ入っていった。

 病院の奥さんなのに、おばさんの手は足の裏のようにがさがさしていた。これでも病院の先生の奥さんかと思うと、流一は少し可笑しくなり、笑う代わりに口笛を小さく吹いた。それを聞いておばさんは

「元気元気。これなら大丈夫」

 と言って、握った流一の手を軽く振りながら、眼科のある三階へ上っていった。

 狭い暗室で流一は先生と向き合っていた。あのときと同じように、看護婦の手で包帯が解かれていく。流一は心細い思いで解き終るのを待っていた。

 包帯の全てが解かれると、大阪の大学病院ほどではなかったが、目の前が眩むような光に満ちていた。

 しばらく目を閉じていたが、恐る恐る瞼を上げると、目の前に溢れていた光が、今では蛍のように明滅しているだけだった。流一は経験した光の渦と違って、小さくて弱い光に、自分の目が本当に見えるようになったのか疑いを覚えた。

 次に蛍より大きい電灯がともされた。今度はそれほど眩しいと思わなかったが、それでもしばらく目を閉じていないと、くしゃみをしそうで、思わず鼻を抓んでしまった。

「もうよかろう」

 と言って、先生は看護婦の手から色のついた眼鏡を受け取り、流一の鼻の上に乗せてくれた。

 看護婦は流一の手を引いて明るい診察室へ連れていってくれた。部屋の隅に祖父が心配そうな顔を窓の外へ向けて立っていた。きっと、流一と顔を合わせたとき、自分の顔を見分けられなければ困るとでも思ったのかもしれない。

「お祖父ちゃん、ぼく前と同じように目が見えるようになったでえ」

 流一は窓のところへ飛んでいって、祖父と並んで外を眺めた。

 春霞でも漂っているのか、空は何となくはっきりしていなかったが、青空は広がり、陽がさんさんと照っていた。窓の下を見ると、小さな池も見えるし、壁を這う蔦の新芽や、欅の木の細かな葉までもが、わずかに顔を出しているのも見えた。

 並木通りを公園に向かって歩いていく人の群を見て、祖父の言ったように、公園の桜も咲いたのだと知った。家で爪を切ってもらっているときに感じた不安も、包帯を解いてもらっているときの恐れに似た感情も今は全て消えていた。流一はくるりと振り返り、自分を見つめている三人の大人を見た。

 思ったより年寄りの先生の顔が笑っている。声の感触より若かった看護婦が、鼻の頭にニキビを乗せて見ている。手拭いで目を拭いたついでに、つるつるの頭までごしごしこすっている祖父。どの人も流一の開眼を喜んでくれている顔だった。

 視力は戻ったが、まだ病院通いはつづいていた。手術後の抜糸をするまでは激しい運動をしてはいけないと医者に言われ、流一は仕方なく家で退屈な日々を送っていた。

 そんな流一を慰めるためでもないだろうが、親戚の姉がやってきて、流一に本を読んでくれた。智恵子という名のその人は高校時代に病気をし、仕方なく退学して家で静養していた。

 炬燵に寝転んで聞く流一は、初め、面白くもなさそうだったので、ついこっくりをしてしまったが、毎日やってきて読んでもらっているうちに、本の内容が次第にわかってくると、彼女の来るのが待ち遠しいくらいになった。

 中国の東北部にあって、全長千二百キロメートルにも及ぶ大興安嶺に住む虎の一生を書いたもので、自然の厳しさや、登場する老人の無防備に対し、大興安嶺の王者であるワンも、道を譲るところなど、はらはらしながら聞いた。

「流ちゃん、このワンと老人とどちらが偉いと思う?」

 彼女は祖母の入れてくれた渋いお茶をゆっくり飲みながらたずねた。流一もそのことを考えていたところだったので、反対に聞いてみたかったが、わからないで聞き返したと思われてもつまらないと思い直し

「老人だと思う。でも、老人は人間でしょう。だったらぼくは虎のほうが偉いと思いたい 」

 と少し曖昧に答えておいた。それに対し、智恵子は何も言わなかったが、本心は流一の答えに満足していなかったのではないだろうか。

 御柱祭も下社の行事の全てが終ると、諏訪の盆地は田植えの準備に取りかかる。五月の半ば近く、流一は登校した。日頃、声など掛けてくれたこともないのに、隣家の義則が流一を呼びにきた。道々、義則は先に立って流一を庇うように歩きながら

「流ちゃん、おれの顔が見えるんか。お巡りさんの自転車の後ろに乗ってきたとき、おれびっくりして見てたぞ。ほしたら、流ちゃんはお巡りさんに手を引かれて家に入っていったろうが…。ほんとに目は大丈夫なんか?」

 そう言って流一の手を引こうとしたり、人や車が前からやってくると、両手を広げて流一を守ってもくれた。それが嬉しくないはずはなかったが、それ以上に恥ずかしさのほうが強かったので、つい

「あほんだら!そなんことせえへんでも一人で歩けるわい」

 流一は義則の脇をすり抜けると、先に立って走り出した。後ろから義則が、

「流ちゃん危ないぞ!車が来るぞ」

と言いながら追いかけてきて、たちまち流一を追い越した。そうして、後ろを振り向き振り向き、流一の歩調と合わせるように学校まで走っていった。

 義則と別れて四年三部の教室へ入っていくと、皆が駆け寄ってきて

「流一さん大丈夫。わたし誰だかわかる?」

と言って、流一を囲んだ。

 どの顔も知った顔であるはずなのに、半月前とどことなく違うようにも思えた。どの人も目の周囲や鼻のわきが少し黒く見え、流一には異国の人を見るようだった。祖父や祖母の顔をそんなふうに見た覚えはないのだが、どうして同級生の顔はそう見えたのか不思議だった。

 授業が始まり、自分に与えられた机に向かって教科書を開いた。ノートを広げて祖父の削ってくれた鉛筆を握り、先生の書く黒板の文字に目を据えたが、何と書いてあるのか見えなかった。何となく白いものが黒い板の上に引かれていることは見て取れたが、文字として網膜に映ってこなかった。

 午後、祖父が急に学校へやってきた。食事の済んだあとだった。

 先生は祖父の姿を見ると、最初から祖父が来ることを知っていたみたいに教室の後ろへつかつかと歩いてゆき、祖父を教壇のところまで案内してきた。そうして、流一にも出てくるように言った。クラスの連中は何が始まるのかと危しむように机に向かっていた。

 先生は、ぽかんとしている流一を教壇の上に立たせ、自分は教壇から降りて

「栗田流一君は、きょうがこの教室での勉強が最後だ。仲よくしてくれてありがとう。流一君は松本というところにある盲学校へ行くことになった。皆で元気よく流一君を送ってやろう」

と言った。

 流一は教壇の上に立って何と言えばいいか困っていた。朝、家を出るときは祖父も祖母も何も言っていなかった。自分が学校をやめなければいけない理由も見つからなかった。先生は教卓に手を乗せ、流一の顔を覗き込むようにして

「クラスのみんなにありがとうと言いなさい」

 と言った。しかし、流一は、どんなことでありがとうと言えばいいのかわからなかったし、皆にお礼を言わなければいけないような恩も受けていないと思ったので

「皆、元気で」

 とだけ言って教壇を飛び降りてしまった。

 祖父が教壇の横で腰を深く折って禿頭を下げた。窓から差し込む春の陽が、つやつやした祖父の頭を照り輝かせたので、皆は遠慮しながらくすっと笑ったが、おじぎをして頭を上げたときの癖で、

「あっ」

という声を発すると、今度は思いきり大きな声で笑ってしまった。

 その日、午後も授業があったが、流一は祖父と共に学校をあとにして上諏訪病院の眼科に寄った。最後の検査だった。眼帯を外すころは蔦の葉や欅の葉もやっと顔を出したばかりだったのに、今ではやわらかな葉っぱがびっしり伸びてきていた。

 視力は右目が〇.四までに快復していたが、左目は視力〇だった。

「これだけあれば日頃の生活には困らないだろう」

 と先生は言って、流一を診察室の外まで送り出しながら

「松本は近いから心配しないでもいいよ。夏休みになれば帰ってこられるからね」

 と、優しく流一の肩を撫でてくれた。





  • 第6回へ続く


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