浮き草 第6回




森亜人《もり・あじん》

     二の続き

 顔が真っ黒になるほど長いトンネルを抜けた列車は、今度は左右に蕎麦やブドウ畑を見ながら松本へ向かって走っていった。

 諏訪の盆地と違い、松本は広かった。

 遠く、真っ白い雪を頂いた峰々の美しさには、思わず口をぽかんと開けてしまうほどだったが、駅前の隅に路面電車が停まっているのを見ると、流一は気後れを覚えてしまい、祖父が、

「どうした」

 と言って、流一の顔を覗き込むまで立ちつくしていた。

 田舎へ戻ってきてから二ヵ月しか経っていないのに、ほとんど甲子園のことは念頭から消えていた。それが、突然目の前に路面電車を見て、記憶を呼び覚まされたのだ。

 いつも一両で浜甲子園と上甲子園との間を折り返し運転していた。球場の前を進駐軍のスクーターよりのろのろ走っていく電車だ。あの電車と同じ型の電車が流一の全く予期していなかった松本の駅前にあったのだ。

 運転席といい、客たちの座席の位置といい、どれ一つ取り上げても甲子園の電車そっくりだった。流一は自分がこっそり落書した痕跡が残っているのではないかと思い、運転台のすぐ後ろの壁の下を覗いてみたくらいだった。

 二人は運転手もいない電車に乗り込み、隅に座っていた。乗る客も少ないらしく、思い思いの席に一人また一人と所在なげに運転手がやってくるのを待っていた。流一と通路を挟んで大きな風呂敷包みを胸に抱いた女の人と、その人の子供らしい女の子が鼻水を手の甲で拭きながら、流一のほうをじっと見つめていた。

 その親子は口を利こうともしないで目と手を使って、何が可笑しいのか、しきりに流一を見て笑っていた。流一は、自分が笑われているように思えたので、女の子を睨みつけてやると、女の子は奇妙な声を発して母親を見上げ、激しく手を振って何かを訴えているようだった。

 母親には女の子の言っていることがわかるらしく、流一を見てほほ笑みかけたり、女の子の顔を覗き込んで、ゆっくり手を動かしていた。やがて女の子は納得したのか、澄んだ瞳に光をたたえて流一をじっと見つめていた。

 十分ほどしてようやく運転手が、これも甲子園のときと同じような鍵をぶらぶらさせながら乗ってきて、穴に差し込むと、電車の後部にいつの間に乗ったのか、車掌の吹く笛に合わせて警笛を一つ鳴らしてやっと発車した。

 流一は向かいの席の親子から視線を車窓の外に向けた。道の両側に新しい建物と、昔からの建物が並んでいた。

 流一は、走り抜けていく景色を忘れまいと目を凝らして見ていた。学校が嫌になったとき、迷わずに松本の駅へ来ることができるように、周囲の雰囲気を覚えておくためだった。

 ところが、電車が二つ目の停留所に停まると、祖父は、これも窓外に目を配っていたが、

「ここだ。ここだ」

と言って、慌てて流一の手を引いて席を立ってしまった。

 町をどう歩いたのか覚えられないほど幾つも曲がり、流一は一軒の大きな酒屋へ連れていかれた。

「この店は田宿の宮前の親戚でな、保証人になっておもれえ申すだわい」

 祖父は、奥の倉庫から店頭に商品を運搬するために敷設してあるトロッコのレールを避けながら話してくれた。

 店の中は活気に満ちていて、屋号の入った印半纏を着た男たちが勢いよく走りまわっていた。店の隅には天井にとどくほど箱が積み上げられていて、どの箱にも酒瓶が詰まっているらしく、木の枠木の隙まから見えていた。

 店の奥は静かで、外の喧噪を思うと嘘のようなたたずまいだった。祖父と、この家の主人とは初めて会ったのに、昔からの知り合いのような口の利き方をしていた。

 一時間くらい二人は話していたであろうか。やっと祖父が腰を上げた。店の若い者が電車通りまで送ってくれたが、さっき祖父と行ったときよりずっと早く停留所についた。待つ間もなく、電車がやってきて、流一はさっきと同じように運転台の後ろの壁を覗き込んでから一段高くなっている客席の隅に座った。

 横田という名の駅は、今まで通過してきた停留所と違って、きちんと駅の形をしていた。しかも、流一の乗ってきた電車は浅間というところへ行く電車だったが、ホームの反対側に松本へ行く電車が止まっていた。

 川があった。広い川原は青々とした草に蔽われ、中央を底まで見透かすことのできる流れが音を立てていた。

 空の青さ、山の高さ、そして流れの美しさに流一は魅了された。こんなところなら逃げ出さないでもいられそうな気がした。この川なら魚だっているだろう。上流へ行けば、もしかしたら山女や鮎もいるかもしれない。

 盲学校は流一に感動を与えてくれた川の横にあった。周囲は桑畑に囲まれ、校舎は古く、風雨の跡が古さを感じさせた。同敷地内に校舎と寄宿舎が並列しているが、寄宿舎は校舎よりもっと古そうな感じだった。

 正門を入ると、右に大きな柳の木があり、その陰に隠れるように、石碑が立っていて、点字を打ち出した亜鉛板が貼りつけてあった。正門の左にも植えられてから年月も経ていない梅の木が一本、朽ちかけた柵の上に枝を伸ばしていた。

 流一と祖父が通されたのは事務室だった。そこで黒眼鏡を掛けた男の先生に幾つかの質問をされたが、流一は馬鹿にされているような気分だった。なぜなら、先生の質問は小学校一年生でも知っているようなことばかりだったからだ。

「君はレールを知っているね」

 先生は鼻を鳴らしながら言った。

 流一は、松本から乗ってきた電車の線路のことを思い出して、はい、と応えた。

「あんなに細いものの上をだよ、あんなに大きな電車がどうやって走ると思うかね。不思議だとは思わないかね」

 ざっとこんなような質問ばかりで、流一は、盲学校の四年生は日頃どんな授業をしているかそのほうが不思議だった。

 こんな質問もされた。

「十円玉を五つ持って八百屋へ買い物にいったとする。五円の林檎を三つ買った。おつりは幾らかね」

 流一は先生の顔を穴の空くほど見つめてしまった。五円の林檎を三つ買えば十五円。五十から十五を引けば三十五に決まっているではないか。小学一年の子だって答えられる問題ではないか。流一は馬鹿らしくなって黙っていた。黒眼鏡の先生はにやにや笑って流一の顔を覗き込んで

「わからんだろう」

 そう言われても流一は腹を立てていたので黙っていると

「答えは五円だよ」

と言って、先生は大きな声で笑った。

 流一が悔やしい思いをしているところへ、やはり眼鏡を掛けた女の先生が事務室に入ってきた。流一の担任の先生だと紹介され、祖父は頭を低く下げた。また頭を上げるときに「あっ」

と言わなければいいのにと流一が思っていたにもかかわらず、祖父は頭を上げるときに、いつもより大きな声で

「あっ」

と言ってしまった。

 担任の先生は阿部ですと言って、流一に

「視力はどのくらいあるの」

 と、流一の目の高さまで腰を沈めてたずねた。流一は三日前に上諏訪病院の眼科で視力検査をしてもらった結果をそのまま言うと、阿部先生は

「いやあ、おいはずいぶん視力があるだでやあ」

 と、今まで聞いたことのない言い方をして、眼鏡の奥の細い目をもっと細めて笑った。

 校庭では全校生徒が草とりや石ひろいをしていた。校庭に行って草とりをやるからと阿部先生に言われて出てきたが、想像していた校庭とはかなり違っていて、草だらけ、石ころだらけ、おまけに石炭殻だらけという庭だった。

 その上、生徒というから流一と同じくらいの子供たちばかりと思ったら、ほとんどが大人で、どの人が先生で、どの人が生徒か見分けがつきそうもなかった。

 子供たちのなかには、何もしないで同じところをくるくる回って、ぶつぶつひとり言を言っている子もいれば、瞳のない子もいた。大人のなかにも、黒く塗ったボール紙をレンズ代わりにして眼鏡を掛けている人もいた。流一のほうを見て、にっこり笑っているから挨拶をしなければいけないと思い、頭を下げても知らぬ顔をしている人もいた。

 寄宿舎は二棟あって、南側が男子寮。中庭を挟んで女子寮があり、男子寮には上下四部屋ずつ。女子寮は三部屋ずつあった。流一は二階の六号室だった。そこには同級生の重夫と、六年生の内川と、一目で狐と思ってしまった寮母の三人がいた。

 畳は破れ、ボール紙や、点字を打ってある厚い紙が鋲で固定されていた。押し入れの薄い板も割れていて、中の蒲団が覗いていた。

 部屋は南向きで十畳だった。窓から下を覗くと、竹竿に洗濯物や、小便の跡がついている蒲団が干してあった。寮の前は道になっていて、建物沿いに花壇があり、花なのか草なのか見分けられないような青いものが植えられていた。道を渡ったところに鉄棒が低いものから順序よく並んでいて、その向こうは周囲をクローバに囲まれた土俵だった。

 祖父は流一が校庭で草とりをしているあいだに帰っていったらしく、どこを捜しても特徴のある丸い頭の姿は見つからなかった。明るいうちはそれほど感じなかったが、陽が沈んで室内に黄色味を帯びた電灯がともされると、湧き立つ雲のような寂しさが心の底から盛り上がってきた。

 寂しさは夕食の場所を見たころから始まり、寝床に潜り込んだときが最高調だった。

 西の空を茜色に染め、山々が真っ赤に燃え上がっていた。どこで鳴らすのか、からんからんという鈴の鳴る音がしていた。それまで静かだった寮内に人の動く気配が感じられ、ばたばたと廊下を走っていく足音もしていた。同級生になった重夫が、

「栗田君、飯だよ」

 と言って机の前から立ち上がった。

 食堂は階下の端にあり、板の間に茣蓙が敷かれ、向き合いに座って食事を取るようになっていた。列が二通りあって、流一は重夫の横に座った。凸凹な金属製の食器に米など見つけなければわからないような飯が八分目ほど盛りつけてあり、金の皿に冷たくなった焼き魚が一匹。これもまた金の器にみそ汁が入っていた。これが夕飯の全てだった。

 席についても誰ひとり箸を取り上げる者はいない。どうしてだろうと流一が思っていると、前頭部が少し広くなった人が手を合わせ、

「お疲れでございます」

と言った。すると、小学部の小さな子から専攻科の大人までが声をそろえて、

「お疲れでございます」

と言って、胸の前に手を組み合わせた。

 誰もが目を閉じて何か考えているようだった。草とりのときに何もしないでくるくる回りをしていた子供までもが神妙な顔をして片手を鼻の先へ持ってゆき、片手は手のひらを上に向けて胸の前に出していた。

 しばらくして、最初に声を発した人が、

「終わります。頂きましょう」

と言って、そこで初めて箸を取り上げた。


 盲学校の生活は、どれ一つ取り上げても珍しいことばかりで、流一の精神は常に高揚していた。

 流一の同級生は重夫だけで、しかも三年生と一緒の教室だった。それでもたった八人しかいないのだ。三年生は六人いたが、男の子は善男だけで、あとの五人は口ばかり達者な女の子だった。

 三、四年生の教室は狭く、小学校の体育館の後ろにある物置を一回りくらい大きくしたとしか思えなかった。流一がこれから勉強していく教室ばかりでなく、どの教室も似たようなもので、普通校の教室の大きさに近いものといえば、職員室くらいなものだった。

 流一が最初に教室へ入っていったとき、いったいどちらを向けばいいのか、椅子の位置をたしかめなければわからないほどだった。なぜなら、黒板も教壇もなく、先生の机とおぼしき少し大きめの机の前に八個の小さな机が並んでいるだけだったからだ。

 生徒の座る机にしても、八個のうち、半分くらいは机と椅子がくっついているもので、小学校のように、上蓋ではなく、ただ棚があるだけのちゃちなものだった。

 授業も流一にとって面食らうことばかりで、生徒が本を読んでくれと頼めば、先生は

「今は算数の時間だからまたにするじゃあ」

 と言うと、三年生の女の子たちは口をそろえ

「算数は明日にすればいい。きょうは全部国語にして『アルプスの少女・ハイジ』を読んでえ」

 と、先生を攻めるのだった。

「しょうがないねえ。ほんじゃあ算数は明日にするけど、約束だよ」

 と言って、職員室へ本を取りにいくのだ。

 流一は、どちらでもよかったので大騒ぎもしなかったが、女の子たちは立ち上がって拍手をして喜んでいた。重夫や善男は普通なら中学の年齢だったので、三年生の女の子の騒ぎに対して知らん顔をしていた。

 流一はいつの間にか眠っていた。先生の静かな朗読の声を聞いていると、どうしても眠くなってしまい、つい机に伏せて眠ってしまう。起立という重夫の声に驚いて跳ね起きることもあったが、先生は眼鏡の奥の細い目で笑っているだけで、決して叱るようなことはなかった。

 流一は、きょうも先生の声を子守歌にして眠っていた。

 祖父と釣りに出かけている夢だった。夕陽なのか、朝陽なのか、正面から太陽の輝きを浴びて釣りをしていた。赤い浮きが大きく動いて水中に消えたのをたしかめてから、流一は竿を振った。

 二十センチくらいの鮒の銀鱗が太陽にきらめいた。すると、鮒は途端に男の顔に変貌した。見る見る男の顔が歪み、血が滴り落ちた。そこで流一は夢から醒めた。

 三年生の女の子たちが泣いていた。眠っているあいだに誰かが悪いことでもして先生に叱られたのかと思ったが、そんな雰囲気ではなさそうだった。

 皆はハイジがロッテンマイアに冷たくされると言って泣いていたのだ。

「馬鹿じゃねえ」

 流一が言うと

「流ちゃんは眠ってたくせに…。ハイジがフランクフルトでどんな生活をしていたか知っているだかね」

 と、一斉に攻撃してきた。

 それに対し、流一は何とも応酬することができなかったが

「それじゃあぼくがどんな夢を見ていたか知ってるか」

 と、少し口調をきつくして言うと

「ばっかじゃない。人の夢なんかわかるはずないじゃない。それに、先生が国語の時間に本を読んでくれるのは授業なんだよ。流ちゃんは授業をサボったんだ」

 と、三年生のなかでも口達者な睦美が逆襲してきた。

 流一も腹立ちまぎれに言ったものの、言ったすぐあとで、言わなければよかったと後悔したが間に合わなかった。どうせ睦美に言い負かされると思っていたが、夢を見たことだけは言っておきたかったのだ。しかし、内容まで言うつもりはなかった。堂島川の経験は人に言ってはいけないものと心得ていた。

 祖父が歩き去っていく警官を見送って、道路に唾を吐いてから足駄で踏みつけた。その行為は流一にとって、口を閉ざしていろ、というふうに受け取れたのだ。大人が考えるような強い感覚ではなかったが、子供心に、人に語れば不利な立場に置かれるような気がしていた。

 堂島川の水面に顔を出したところを警官に狙撃された若者の目は澄んでいた。何をしたのか流一には知るよしもなかったが、祖父が小さな声で、

「赤か」

 と言ったのだけは心に残った。

 六月に入ると雨ばかり降るようになった。日頃、女鳥羽川の流れは中央部分を激しく小石を転がしながら下っているだけだったが、雨の日が数日もつづくと、たちまち川幅を広げ、赤茶けた水が音を増して流れていくのだ。

 流一は盲学校へ転校してくるまで三回も学校を変えてきた。その都度、成績は落ちていくばかりだったので、どの学校でも劣等生の仲間に入れられ、学芸会にせよ、運動会にせよ、目立つ場所へ出されることは一度もなかった。

 ところが、盲学校では決して劣等生というわけでもなかった。返って流一の視力は貴重なものだった。食事のとき、高等部の人や、中学部の人の食器にお茶を汲んで歩けたのだ。その度に、どの人も

「流ちゃんありがとう」

 と言って、頭を下げてくれるのだ。

 一度など、専攻科の人で、鉄棒をやっているときにレンズを落してしまったのを流一が捜してやって駄菓子屋でカリントウを買ってもらったこともあった。

 しかし、流一の動きは特別だった。たしかに普通校のときも元気のほうだった。教室の後ろに立たされたことも何回あったかしれない。廊下に立たされたときなど、さっさと学校を飛び出し、川や田んぼへ行って鮒を手掴みしたり、タニシを拾ったこともあった。

 そんな流一だったが、普通校での元気さは目立つほうでもなかった。ところが、盲学校は違っていた。流一ほど視力があり、自由に飛びまわれる者はいなかった。

 寄宿舎の生活に慣れてくると、流一は濶達に動きまわるようになった。夜の自習時間が済むと九時までの一時間、寄宿舎の中は賑やかになる。高等部の男子生徒は女子寮に遊びにいく者もいれば、反対に女子寮から遊びにくる人もいた。

 高等部の生徒といっても、とっくに三十を幾つも過ぎた人もいれば、順調に進級してきた者もいる。元気のいいおばさんとしか思えない永淵さんという人が、

「「おおい、寺ちゃん、いいものが手に入ったからお茶を飲みにこないかい」

 と、女子寮の部屋の窓を開けて呼ぶようなこともあった。

 このことは毎月一度、寮生を集めて行なわれる反省会のときに小学部の子供から

「女子寮から大きな声で人を呼ぶのは変だと思います」

とクレームがつき、寺ちゃんを呼んだ永淵さんは苦笑していた。

 大人も子供も共に寝起きし、同じ釜の飯を食った者同士の連帯感とでもいうべきしろものかもしれないが、流一は、喧嘩をすることもあるが、笑い合い睦み合うことのできる寮の生活が楽しかった。

 鉄棒のところでレンズを拾ってやってから、流一は専攻科の茂木さんの部屋へ遊びにいくようになった。

 たぶん、年齢は二十歳も半ばを過ぎていたであろう。彼は流一を面白がってよく遊んでくれた。彼の机の上に置かれたスタンドの傘をくるくる回し、

「はい灯台です」

 と言って、彼の読書の邪魔をする。すると、茂木さんは

「このやろう」

 と言って、蒲団に流一を包み込んでしまうのだ。

 流一は、男くさい蒲団の中で、何か奥歯がこそばゆくなるような喜悦に、つい声を立てて笑ってしまうのだった。

 茂木さんからは少し乱暴に扱われたが、男の力強さというものを教えられた。しかし、心に欝屈する得体の知れない魔物が住んでいて、流一はしばしばそのものに翻弄され、むやみに暴れまわりたくなることがあった。

 久しぶりに雨が上がった空に、夏を思わせる太陽が顔を出していた。長雨で女鳥羽川は増水し、川幅いっぱいに濁流が押し下っていた。流一は土手の上から、全てを押し流してしまう濁水の中に、自分に共通する汚れを感じ、思わず目を背けた。

 土手道には埃が舞い上がっているのに、川は汚い水で満ちている。自分の心にも晴れ切れないもやもやしたものが渦巻いていて、何をしてもきょうの空のような気分になれないでいた。

 流一は、足元に落ちている石を一つ拾うと、力のかぎり投げてみた。石がどのあたりに落ちたのか流一には見えなかったし、激しく流れる水の音に、落ちたはずの石の音も聞こえなかった。その頼りない感覚が流一を苛立たせた。

 自分でも処理しがたい苛立ちを、下級生や、小さな生き物を粗略に扱うことで幾分なりとも慰めてみるものの、どんなに暴れても得体の知れない空虚さから逃れることは適わなかった。

 甲子園の成尾小学校や、諏訪の城南小学校にいたころは、かなり激しく走りまわったり、とっくみ合いをしても誰も文句を言う者はいなかった。先生も大きな目玉を動かすくらいで叱りつけるようなことはなかった。他人に迷惑を掛けないかぎり、流一は自由だった。

 ところが、盲学校では何もかもが違うのだ。ちょっとしたことでも泣くし、すぐ先生に言いつけるのだ。担任の阿部先生は

「流ちゃんやい、女の子を泣かしちゃだめだでやあ」

 と言うくらいだった。それなのに、寮母ときたら校長先生のところまで言いつけにいくのだ。

 流一は中野という寮母長の鼻をいつか明かしてやりたかった。どうすれば慌てふためくかずっと考えつづけていた。

 その日がきた。

 流一は、五号室の窓の外に雨樋のあることを知っていた。その部屋は高等部の生徒たちが寝起きしている部屋だったが、それなりに準備をしておけば外へ飛び出せそうだった。先生の部屋は階下の二号室だったが、部屋の前は二階へ行く階段があるので、廊下側の窓を大きく開いておいた。

 流一は中野先生が一番きらっている猫を連れてくることに考えが及んだのだ。幸い盲学校の近所で子猫が生まれたことを知っていた。早速、流一は子猫を連れ出しにいった。

 先生の机の足に猫を縛りつけ、寮生の座蒲団を机の前に重ねて置いた。そうしておけば、たとえ先生が部屋に入ってきても直ちに猫を発見することはないのだ。

 流一はその部屋の子供たちと知らん顔をして遊んでいた。十分ほど待ったが先生は戻ってこない。子猫は小さな声で鳴くし、部屋の子たちは猫を見たがって困っているところへ、先生が入ってきた。

「先生、可愛い子猫がいるよ」

 流一は口を押さえた。部屋の子たちに黙っていろと言っておかなかったのだ。だが、結果的にはそれが幸いした。

 猫ぎらいな先生は慌てふためいて

「どこ!」

 と叫ぶようにいって、自分の机の前に積まれた座蒲団に気づいて飛んでいった。流一は入口に飛び、いつでも逃げられる体勢を整えて待った。





  • 第7回へ続く


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