浮き草 第8回




森亜人《もり・あじん》

     二の続き

 肌を焼く夏の太陽も去り、秋が周囲に満ちている季節となった。

 流一にとっての夏休みは平凡な毎日だった。祖母は、近年になって頻度の増した頭痛が深まり、日に数回もノーシンを服用するようになっていた。いつも不機嫌そうな顔をし、こめかみを両手で押さえ

「少し静かにしておくれ。お祖母ちゃんの頭が割れてしまうよ」

 と、流一に小言を言ってばかりいた。だから、二学期が始まり、松本へ戻ってこられたことを、流一は喜んでいた。

 四週間にも満たない休みだったが、古ぼけた校舎も寄宿舎も懐かしさを覚えさせ、流一は早速校庭へ飛び出していった。

 夏休みに入る前は、それでも草など生えていないほどきれいだったのに、今は土の部分のほうが少ないくらいに雑草が一面に蔽っていた。キチキチバッタが高い空に吸い込まれるような音を立てて、校庭を我がもの顔で跳ねまわっていた。

 草だらけの校庭を全校生徒で清掃しなければいけないかと思うと、少しうんざりさせられたが、それでも苦虫を噛み潰したような顔をしている祖母と一緒にいるより増しだと流一は思った。

 校庭の隅に植えられた桜の木に蝉が鳴き立てている。じりじりする暑さが地面から吹き上げてくる。耳を済ましても女鳥羽川からは川の流れる音は聞こえてこない。夏の強い太陽に水が干上がってしまったのだろう。

 流一はバッタを追いかけながら思いきり駆けまわっているうちに、全身から力のようなものが湧き上がってくるのを覚えた。そのままの勢いを借りて、壊れかけた柵を乗り越え、桑畑を抜けて土手の上まで駆け上ってみた。

 振り返ると、西の空を遮るように、北アルプスの峰が夕映えの中に屹立している。東の空も山で遮られているし、北も山だった。どちらを見ても山ばかりだが、流一は松本の景観が好きだった。

 たしかに諏訪の風景も好きだが、松本は世界の広がりを想像させてくれるところだった。この環境の中で二学期を迎えるのかと思うと、流一はまんざらでもなかった。

 九月も半ばを過ぎると、途端に空気が冷たく肌を刺すようになる。学校は朝から騒然としていた。関東甲信越の盲学校の大会が松本で行われるのだ。一都九県の盲学校の先生が朝から幾つもの組を組んで教室を出たり入ったりしていた。

 大会を歓迎する意味もあって、六月の創立記念日の学芸会に、二回も演じた『お猿の駕篭や』の劇を、集まってきた盲学校の先生に披露することになり、二学期が始まってから練習をつづけてきた。きょうがその日だった。

 どのような会合が催されたのか流一は知らなかったが、狭い教室へ生徒たちを囲むように立ち、授業を受けている流一たちの顔を覗き込んだり、手元をじっと見ていたりするので、気持を落ち着けて勉強もできなかった。

 その点、重夫にせよ、二学期から四年生に入ってきた襄にせよ、二人とも全盲だったので、顔を覗き込まれても平気のようだった。そんなときは、目の見えることのほうが得なのか、見えないほうが都合いいのかわからなくなってしまい、流一は目のやり場に困って、きょろきょろしていると、阿部先生に算数の答えを言えと言われてびっくりさせられた。

 午後、講堂には百人くらいの先生が集まり、生徒たちの演奏する器楽合奏や、琴の調べに耳を傾け、最後に小学部全員による『お猿の駕篭や』の劇を、身を乗り出すようにして見ていた。無論、流一は、あの身の躱す曲芸も見事に果たすことができた。

 劇が終わってステージから降りてくると、心配そうな顔をした阿部先生と、見知らぬ男の人が立っていた。 

「流ちゃやい、お祖母ちゃんが亡くなったって。このおじさんと家に帰りな。学校のことは心配しないでいいからな」

 と言った。

 流一は先生の言った意味がわからないまま二人の顔を見ていた。たとえ二度三度、繰り返し同じことを言われても完全に理解し得なかっただろう。

 夏休みに帰ったときも別に病気などしていなかった。病気どころか、いつも流一に小言を言っていたくらいではなかったか。その祖母が死んだと言われても何の感情も湧いてこなかった。

 流一は迎えにきた男の人と諏訪へ帰った。狭い家の中は人でいっぱいだった。流一がもっとも驚いたのは、奥の八畳に父と継母がいたことだった。流一が入っていくと、二人は一瞥をくれただけで、中浜町のおじいさんと何か話をしていた。

 床の間の前に祖母は白布を顔に掛けて寝かされていた。祖母は脳軟化で死んだと聞かされたが、その病気がどんなものかさえ、知らなかった。

 親戚の人が白布をそっと上げ

「流ちゃん、お祖母ちゃんに最後のお別れを言いなさい」

 と言ってくれたが、最後のお別れという意味がわからず、黙っていると

「手を合わせるだけでもいいのよ」

 と、その人は言ったので、流一は祖母に手を合わせておいた。

 それにしても何と優しい顔をしていることか!生きているときもこんな顔をしていてくれたなら、もう少し親しみを感じたのにと、流一は、祖母の苦虫を潰したような顔を思い出しながら、白布をもとへ戻す前に、もう一度、祖母の安らかな顔を覗きこんだ。

 死ねば仏さまになると聞いていたが、これが仏さまの顔かと、流一は、人の死というものの不思議さを改めて考えさせられた。

 翌朝、祖母を火葬にするため、家を出た。流一は迎えにきた車に両親と乗ることになっていたので、とんでもないと思い、皆が忙殺されているあいだに裏から外へ飛び出し、一人で走っていった。

 小学校へ行っているときの通学路を習慣的に歩いていくと、伯母の家の前に出た。ふと玄関先を見ると、そこに母と姉が立っていた。流一は道路の反対側をこっそり走っていこうとしたが、素早く姉に見つかり追ってこられた。 

「流一…待ちなさい」

 姉はそう言ってたちまち流一に追いつき、いきなり抱き締められてしまった。

「元気?ねえ元気でいたの?目が悪くなったって聞いたけど本当なの?大阪のお母さんは優しくしてくれるの?どうなの?」

 姉は矢継ぎ早にたずねた。流一は、人の往来する道路で抱き締められていることのほうが恥ずかしく、姉の腕の中で身を捩って逃げ出そうと試みたが、姉の力には勝てそうもなかった。姉の泣き声に覆いかぶさるように

「てる美、およし。こっちへ戻りなさい」

 という母の声が聞こえた。

 流一は姉の力が緩んだ隙に身を翻して公園へ向かって走り出した。姉から身を離したとき、流一は母の目を見た。

―― あれはお母さんじゃない。あんな目で見る親なんかいるもんか。ぼくの目が悪いからじゃない。たしかにひどい目で見ていた。 ――

 流一は走った。消防署の広い通りから線香の匂いをばらまきながら、ゆっくり車が出てきた。流一は近道をして公園を抜け、火葬場につづく県道を走った。一つ目の橋のところで車に追い越されたが、流一はそのまま走りつづけた。

 広い川に出た。火葬場は一つ先の川の側にある。流一は橋の途中で足をとめた。もう走れなかった。涙がやたらに頬を伝う。流一は欄干に肘をつき、川を覗き込んだ。

 両岸はマコモに蔽われ、かなりの水量がゆったりと流れている。松本の女鳥羽川の流れとはずいぶんちがう。空を映している水面を見ていると、瞼の裏に母の顔が浮かんできた。姉の涙で濡れた顔も浮かんできた。

「ぼくにはお母さんもお祖母さんもおらへんようになった。おらへんかていいんや」

 流一は、ここで泣いたら二度と泣くまいと思い、声をころして泣きつづけた。

 高い煙突から黒煙が立ち昇りはじめた。流一は背筋を伸ばすと、橋を渡って火葬場に通ずる道へ入っていった。来る途中、霊柩車の窓から流一の走っていくのを見かけたといって、親戚の人が心配して広い通りのほうへ歩いてくるのにぶつかり、二人はそのまま、道沿いにある林檎畑の中をぶらぶら歩きながら話をして時のくるのを待っていた。

 葬儀が滞りなく済むと、家の中は急にひっそりしてしまった。家には祖父と両親のほかに、中浜町のおじいさんとおばあさんだけになった。流一は、本町にある親戚の店の女店員と映画を見に出かけた。別に映画を見たいと言ったわけでもないのに、昼食が済んだときにそう言われ、出かけていった。

 映画の内容のほとんどは知らないで終わった。どのくらいの時間だったか、流一は本町の店でよく見かけ、話しもした店員の胸にもたれて眠っていたのだ。ただ覚えているのは、障子に映った化け猫の姿くらいなものだった。この映画は大阪で見たものだった。

 映画館を出ると夕暮れが迫っていた。女店員は腕時計に目をやって何か思案しているようだったが、

「流ちゃん、少しお散歩をして帰ろうか」

 と言って、公園のほうに足を向けた。そのときになって、流一は、どうして映画になど連れてこられたか感じるものがあった。―― そうなんや。家の者たちはぼくがいたら困ることがあったんや。ぼくが邪魔だったんや。なんしてやねん。なんで邪魔にされなけりゃいかんのや。 ――

 流一は急に腹が立ってきた。大人の都合で、あっちへ連れていかれたり、こっちへ戻されたり。今度はどこへ連れていくというのだろうか。

―― 川の中の草かてゆらゆらしとってもちゃんと根はあるやんか。なんしてぼくだけ流されんとあかんのや。 ――

 流一は

「大丈夫だよおねえさん。ぼく一人で帰れるから心配しないでいいよ。すぐ家に帰らないから。友達のところへ行ってみる」

 流一はそう言うと、

「じゃあね」

と言って駆け出した。

 流一は機関庫の裏へ回ると、そこから家に入ることを考えた。風呂場につづく渡り板の破れ目からこっそり入っていけば誰にも気づかれないで済むと思ったのだ。

 音を立てないように気を配りながら這い進み、ガラス戸のところから覗いてみたが、中の障子は閉められ、様子を知ることができそうもなかった。

 電灯の明りが障子に写っているところを見れば、家の者がいるはずだろうに、耳をそばだてても声はなく、誰もいないようだった。

 途端に流一は不安になった。今度は自分を置きざりにして、皆がどこかへ行ってしまったと思ったのだ。

 流一は機関庫に戻り、鉄条網の破れたところから道路に飛び降り、玄関へ回った。辺りは夕闇の中に沈むところだった。機関庫から空を見たときは、秋の陽の名残りがあった。しかし、細い路地は両側の家のために夜を迎えようとしていた。

 玄関の戸を音のしないように開くと、下駄と草履がきちんと置かれているだけで、父や継母の履き物は無かった。

「ただいま。帰ってきたよ」

 と、流一は晴れ晴れした声で叫んだ。すると

「おお!帰ったか」

 という太い男の声と、優しく

「お帰り」

 というおばあさんの声がした。

 電灯のともった部屋へ入っていくと、祖父と中浜町のおじいさんとおばあさんが顔を上げ、両手を広げるように流一を迎えてくれた。


 祖母の葬儀のあと、両親によって大阪へ連れ戻されるのかと危ぶんだが、全てが杞憂であった。

 たぶん、流一が映画を見ているあいだに、両親と祖父、それに中浜町の二人を加えて話し合われたのであろうが、その経過も結果も流一に話されなかった。しかし、流一は子供心に自分が『お荷物』として祖父に預けられたのだろうと察していた。

 なぜなら、上諏訪病院の眼科で手術を受け、自宅療養をしているとき、ふと耳にした祖母の言葉が、今もなお厳然と脳裏に焼きついていたからだった。

「仕方ないわね兄さま」

 そう言った祖母も、今はこの世に居ない。祖母が生きているときだって、食事の世話のほとんどは祖父がやっていた。祖母は頭が痛むと言って、いつも渋い顔をして寝てばかりいた。だから、休みに帰っても誰がご飯を炊いてくれるのかと心配する必要もなかった。

 五月に流一が転校してきて重夫と二人となった四年生も、二学期には十八歳にもなって学校へも上がっていなかった襄が四年生に入ってきたことで三人となった。しかし、教室は依然として三年生と一緒だった。

 ところが、三学期には二人の生徒が他校から転校してきたことで、四年生の教室が生まれた。と同時に担任の先生も新しく盲学校へ勤めることとなった青柳という女の先生に代わった。

 新しく入ってきた生徒の一人は女の子で安代といい、十四歳だった。自分より四歳も年長だった上、安代は普通より体が大きく、大人っぽかったため、流一は何の興味も湧かなかった。だが、もう一人の男の子は流一と同い年だったので、急速に二人は仲よくなっていった。

 そいつは川井といって、全盲だったが、やけに勘のいい生徒だった。目を見ても、ほかの連中と違い、丸く大きな目を持っていて、その目玉は見えないはずなのに表情のある動きをしていた。

 川井は妹が一人いて、初めて盲学校へ転校してきた日には、母親と一緒にやってきたが、その妹の顔がキューピーそっくりだったので、流一はつい笑ってしまった。すると

「キューピー顔だから可笑しいんだろう」

 と、川井が、これもけらけら笑いながら言った。

 そんなことから、流一は川井をすっかり気に入ったし、川井のほうも流一を気に入ってくれたようだった。しかも、流一にとって嬉しいことに、部屋も六号室から階下の三号室に移り、川井と同室だった。

 一方、川井に比べ、襄は声も細く、見るからになよなよしていて、流一は彼を好きになれなかった。好むどころか、どうにかして苛める方法はないか考えたくらいだった。

 流一は、襄がトイレに行くのを見て、そっとあとを付けてゆき、彼が小用を足している背後から膝の裏を軽く蹴ってやった。襄は女のような声を発し、小用の途中でその場にしゃがみ込んでしまった。また、廊下を歩いている襄の顔に濡れ雑巾を押しつけてやったりもした。そのことを川井に言うと

「馬鹿やろう。栗田は卑怯だぞ。相手は全盲じゃないか。やるんなら相手にわかるようなことをやれよ。それにあの人は俺みたいに勘がよくないから、なおのこと栗田は卑怯だ」

 と言って、流一の行為を詰った。

 流一はショックだった。川井に言われるまで考えてみたこともなかった。

「だって襄は十八だぞ。まともにいったって敵うはずないじゃないか」

「だったらやめろよ」

「だけど、女のような男は好かん」 

「そんなの関係ないよ」

「川井、お前は襄が好きなのか」

「考えたこともないよ」

 流一は敗北を感じた。川井と言い合っているうちに、自分の非を悟っていたが、自分と同い年の川井に大人っぽいことを言われたことが許せなかった。流一は炬燵を蹴って飛び出すと、行くぞ!と叫ぶなり、川井に組みついていった。

 川井も待っていたかのように炬燵から転がり出て流一の一の攻撃を蹴りで返した。流一は川井の左足を両手で受け止めると、自分の右足を絡めていった。あとは上になり下になっての組み打ちとなった。

 川井は痩ているくせに力のあるやつだった。久しぶりに汗をかいた。普通校にいたときと同じ汗だった。川井も息を弾ませ本気になって戦った。薄い押し入れの戸が破れるかと思うほど体を打ちつけ合ったが、どちらも勝利を得ることもなく、畳の上に伸びてしまった。

 二人は手足を伸ばして畳に転がっていた。喧嘩をしたはずなのに、流一は心の中をすがすがしい風が吹き抜けていくように思えた。横を見ると、川井も晴れ晴れした顔で天井を向いて息を弾ませていた。

「いやあ、栗田も結構やるじゃないか」

 川井が息をぜいぜい言わせながら言った。

「川井こそ痩ているくせに力があるのには驚いたよ。都会っ子なんか弱いと思っていたのに、これからもちょいちょいやろうぜ」

「いいとも」

 二人はそう言って大きな声で笑った。無我夢中で争っていたため、炬燵やぐらが壊れているのも気づかないでいたらしい。同室の誰かが寮母を呼びにいったとみえ、急いでやってきた寮母が、

「あれまあ!」

と言ったきり、部屋の入口のところで立ちすくんでしまった。

「よかったねえ。中野先生がいたら、また校長室だったわよ」

 眼鏡の奥から笑っている目が流一の固い表情の上を滑っていった。日頃から流一の行動に対し、笑って見ていてくれる寮母だった。

 流一は、襄のことで川井と争ったが、腹の虫は納まらなかった。襄の顔を見ただけで、彼の仕種の一つ一つに、言いようのない苛立ちが込み上げてくるのだ。

 しかし、川井の言うように、これからは襄にも流一の存在を明らかにしてやってもいいと考えていた。それには今までと違って、かなり計画を練る必要があると、流一は腕組みをしながら部屋の窓の外を眺めていた。

 鉄棒の上にも土俵の上にも、目に痛いほどの雪が降り積もっていた。今年になって初めて積もりそうな雪だった。これからが最も寒さの募る季節だ。この雪を利用できないものだろうかと、雪の上をちょんちょん歩いている雀を目で追いながら考えていた。

―― そうだ! ――

 流一は手を打った。これなら川井も認めざるを得ないだろうと、にんまりした。

 新しい炬燵やぐらが所定の位置に据えられると、川井は何もなかったかのように炬燵の中へ点字の本を突っ込み、手を暖めながら本を読みはじめていた。流一は彼の背に視線を向け

「明日を楽しみにしていろよな」

 と呟いた。

 翌朝、流一は誰よりも先に蒲団を蹴って跳ね起きた。というより、カーテンなどない窓に、冬の光りが雪を反射して部屋いっぱいに満ちていたため、寝ていられなかったのだ。

 雪は数十センチも積もっていた。雪が積もったら全校で雪合戦をすると聞かされていたので、たぶん、きょうは雪合戦になるだろうと、冬の陽光が目映い戸外を見て、流一は昨晩、寝床の中で立てた襄への挑戦を復習した。

 皆が言っていたように、一時間目の授業が済むと、雪合戦になった。

 全校の生徒が二つに分けられた。これも例年の決まりで、運動会のときの紅白に分かれたのだ。流一は白組みだったし、襄は赤組みだった。これだけ雪が積もっていれば、襄などは思うように動けないだろうと読んでいた。

 校庭の南北の陣地に雪だるまを作って、頭に白組みは白い旗を。赤組みは赤い旗を立てておくのだ。それを奪って、自陣へ持ってくれば勝ちということになる。

 流一の目標は襄に定められていた。どうせ襄のことだ。自分の陣地から一歩も外へ出ることはあるまい。それに、旗などは高等部の人たちが取り合うに決まっている。だから、流一は襄にのみ集中すればいいのだ。

 白組みの陣地は南側だった。流一は校舎の南側を迂回して校庭の北へ出ることを考えていた。そうすれば敵の攻撃を全く受けないで、まんまと敵陣の裏に回り込むことができるのだ。

 流一は計画どおり敵陣の裏へ出た。雪だるまの周りには高等部から小学部までの女生徒が取り囲んでいた。無論、飛び回ることなど嫌いな男子生徒もその周りをうろついていた。その中に襄も立っていた。辛そうな顔をして、細い手をこすり合わせて震えていた。

―― 馬鹿目が。今に汗をかかせてやっからな。今のうちによく手をこすっておけ。 

――  流一は、同級生の安代の傍らへ寄っていって、背の高い彼女の長い髪を引っ張るようにして

「やすべえ、襄を築山のところまでうまいこと連れ出してくれよ。あいつと勝負したいんだからさあ」

 と言った。

 流一が安代に頼んだのは、彼女も襄を嫌っていたからだった。やすべえは黙ってこっくりをすると、襄のところへ行って彼の腕を取り、築山の陰へ引っ張っていった。

 流一は築山を囲むミネゾウの木の陰に立って待っていた。雪は膝の上まで積もっている。流一にさえ歩きずらい。まして襄は体が大きいが運動神経が悪い。やすべえの腕に掴まってよたよたやってきた。

「やい襄、きょうは一対一だ。最後まで戦え」

 流一は雪の塊を握ると

「雪をぶつけるぞ」

 と言っておいて、襄の顔を目がけて投げつけた。

 満面に雪を受けた襄は、歯を食い縛って払い落すと、雪の中を泳ぐように流一の前に倒れ込んできた。そうすれば流一を掴まえられると思ったのだろう。両手を前に突き出し、何かを掴み取るようにして倒れ込んできた。

「襄、背中に蹴りを入れるぞ」

 流一は行動に移る前に、必ず口に出してから実行した。

「頭・背中。今度は尻だ」

 雪の中に半分ほど埋まっている襄を蹴った。そして、回りの雪を彼の上にどさどさと掛けてやり、最後にミネゾウの木を揺すって、枝に付いている雪を襄の上に落してやった。無論、流一自身も落ちてくる雪を全身に浴びた。

 襄は尻だけを持ち上げ、けんめいに立ち上がろうとしていた。しかし、もがけばもがくほど襄は雪の中へ埋没していった。少し離れたところで見ていたやすべえが

「流ちゃん、もういいにしたら」

 と言って、雪の中から足だけ出してもがいている襄の腰を抱え上げて引っ張り出してやった。

 校庭では雪つぶてが宙を飛び交っている。大きな生徒たちが雪の中を組み合って転がり合い、女生徒が雪つぶてを握っては男子生徒に渡している。流一は築山を離れ、雪つぶてが飛び交っている校庭の真ん中へ出ていった。

 誰も旗のことなど考えていない。雪を握り、雪を投げ合い、体と体をぶつけ合うことに興じているのだ。そのときはオールバックの大人でもなければ、本を脇に抱えて廊下を歩いているすまし顔の生徒でもないのだ。誰もが子供のようにはしゃいでいた。

 琉一は、襄を痛めつけた快感が、沸騰する湯の中へ氷を投げ込んだように、音も立てないで消えてしまったことに気づいた。自分だけが汚いことをしていたように思え、何とも後味の悪い汗を冷そうと、自ら雪の中へ飛び込んでいった。





  • 第9回へ続く


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