浮き草 第9回




森亜人《もり・あじん》

     二の続き

 職員も加わっての全校生徒の雪合戦は、両チームともに旗を取ることができずじまいで時間切れとなり、三時間目の授業終了の鐘を合図に終わった。

 日頃、流一の目には大人としか見えない専攻科の人たちも子供に戻り、雪まみれになって大口を開いて笑ったり、組み合ったまま雪の上を転がりまわっていた。そんな彼らを見ると、身近に感じずにはいられなかった。

 襄を雪の中へ埋め込んでからというもの、流一は、襄に狙われているらしいと感じていた。たしかに襄は流一の様子をいつも窺っているような素振りを見せ、流一を緊張させた。

 幸いにも、流一は視力があり、襄は全盲の上、かなり勘が悪かったので、よほど油断さえしなければ、襄に掴まることはない。襄が流一を狙っている場所は、廊下の曲がり角とか、教室の戸の陰といったところで、その場所に近づいたら声を出さなければ、馬鹿面をして立っている襄の横を胸を張って通りすぎることができる。

 周囲に誰もいないときなどは、襄の横を駆け抜けざまに軽くジャンプしながら襄の顔の前で手を拍いて、

「バアカ」

と言って身を躱して逃げてしまうのだ。

 少し行って振り返ると、襄が目の周りをくしゃくしゃにして身をよじっている。流一は足音を忍ばせて襄のところまで戻ると、もう一度、

「はい、アンコール」

 と早口に言って、手を拍いてやるのだった。

 それでも、襄のことをうっかり忘れていることもあるが、そんなとき、流一が、年上にもかかわらず、やすべえと呼んでいる安代が笑いながら指を立てて流一の背後を示してくれたり、戸の陰になど立っているときには

「あら中本さん、こんなところで何をしているの?」

 と、流一に聞こえるように言って、ちろりと舌を出してくれたりもした。

 流一は、襄のいることに気づかない振りをして歩いてゆき、自分を掴まえようと、のろのろ手を前に突き出している襄の手を思いきり叩いてやり、

「うすのろまぬけ!」

 と言うなり、襄の足に蹴りを見舞ってやるのだった。

 襄は、

「うっ!」

 と呻くと、面皰だらけの顔を悲しそうに歪めると、両手で覆い、歯を食い縛って、へなへなとしゃがみ込むのだ。

 本当は哀れむべきだと思うのだが、襄の悔しそうな顔を見るのが楽しかった。それに、両膝を揃え、その上に肘をつき、奥歯を噛み締めている顔を覆っている姿が何ともいえなく滑稽だった。

 安代も声を殺して笑っている。襄自身は真剣だろうが、どうしても笑ってしまう。まるで一つ一つの動作に連続性というものがないのだ。

 悔しいのなら顔を先に覆えばいいのに、まず足を一本ずつ折り、顔を下へ向けてから手を顔に当てるのだ。普通なら全ての動作が同時のはずだ。ところが、襄だけは人と違っていた。

 ある放課後だった。

 流一は鞄を振り回しながら、「カーブ・ドロップなんでもござれ バット折れよと夢中で振れば 雲も千切れるホームラン」という子供向けラジオドラマのなかで歌われている歌を歌いながら寄宿舎へ戻ってきた。

 五号室の窓から飛び降りた校舎との渡り廊下を鼻歌まじりで雪景色を眺めながら戻ってきた。狭い入口から入ったとき、とうとう流一は襄に掴まってしまった。

 襄は流一を掴まえたものの、喧嘩の仕方を知らないらしく、流一の両手を掴んでいるだけで、ただ上下に振ったりしながら

「く・く・栗田君、ここ・このあいだはよ・よ・よくも…」

 と吃りながら何か言おうとしているが、やっと掴まえることのできた興奮に、襄は言葉を失って、ただ口の中でぶつくさ言っていた。

 小気味のいい啖呵を切ってくれれば、流一としても対応の仕方もあるのだが、吃りながら口の中でぶつぶつ言われても力が抜けて喧嘩になりそうもなかった。

 流一は安心した。こんな程度の復讐くらいなら逃げまわることもなかった。襄は体が大きいだけで、うすのろなのかと思うと、襄が少し可哀そうな気もしないではなかった。

 やがて襄は流一を廊下の隅に押してきて、自分の尻で流一を壁にぐりぐりと押しつけてきた。そうして、握り拳を後ろに回し、流一の下腹にキリをもみ込むようにした。それでも流一が黙っていると、流一のズボンの中に手を入れ、下着をめくり上げると、流一の腹に爪を立てて捻り上げた。

 さすがの流一もこの攻勢には声を発してしまった。

「も・も・もう二度とやらないか」

 襄は依然として後ろ向きのままそう言った。喧嘩といえば、とっ組み合い、殴り合いするものと思っていた流一は、襄の変てこな喧嘩のやり方にすっかり面食らってしまった。

 これでは争う気にもなれない。流一は全身の力を抜き、襄の背に身を預けた。すると、襄は、流一が気を失ったと勘違いしたのか、慌てて身を離し、流一の様子を窺うように腰をこごめた。流一は今だと思った。

「襄、キンタマ!」

 と言って、体を激しく回転させながら踵で襄の股間を蹴り上げた。

 襄は女の悲鳴に似た声を発し、その場に崩れ倒れた。流一は

「襄、仕返しをするような馬鹿なまねは考えるな。このバアカたれが」

 と言い捨てて、廊下を曲がって自分の部屋の三号室へゆっくり歩いていった。

 立春を迎えても、松本では春など縁どおいらしく、屋根から垂れたツララもなかなか短くなりそうもなかった。流一は祖父から理解に苦しむような手紙を受け取った。

 内容はいたって簡単なもので、竹田屋のおいしい菓子を持っていくとか、寮母先生の言うことを聞けといったようなことが書かれたあと、二月八日には松本へ家内を連れていく、というものだった。

 流一は川井に

「おい、家内っていうのは何のことなんだ?」

 とたずねてみた。

「それだけじゃわからんよ。前後の文はどうなんだ」

「二月八日には家内を松本へ連れていく、だってさ」

「平仮名かよ」

「いいや、漢字で、家の内、と書いてある」

「なんだそりゃ…。連れていくってあるんだろう。だったら人間のことじゃないのか」

 流一はどうでもいいと思った。どっちみち自分とは何も関係ない話だろうぐらいにしか考えていなかった。

 その二月八日がきた。冬というのに穏やかな日だった。木曜日だったので、流一は教室で授業を受けていた。川井が算数の問題を解いて答えているときだった。入口の戸が静かに開かれ、二人の客が入ってきた。

 一人は改めて見ることもない。てかてか頭の祖父だった。もう一人は細くて小柄な女の人で、着物を着ていた。その人が祖父と並んで教室の後ろに立ち、流一に小さく手を振っている。初めて見る人のはずなのに、どこかで会ったことがあるような気もした。

―― いったい誰なんだろう。初めてではない。それにあの人はぼくとどんな関係の人なんだろう。 ――

 流一は、授業のことなどすっかり忘れてしまった。自分の背に視線を感じる。後ろを見たいが、そういうわけにもいかない。流一は机の上の鉛筆を無理に落した。それを拾う振りをして、すぐ後ろに立っている二人を下から見上げた。

 その人は、見上げている流一を覗き込むように腰をこごめ、何回も頷いて見せた。額の真ん中に大きなホクロがある。鼻筋のとおった顔は、死んだ祖母とずいぶんちがうものだと思わずにはいられなかった。

 それにしても、この人がなぜ松本へ来たのだろう。祖父の手紙に、「家内を松本へ連れていく」とあったからには、この人に相違あるまい。だとすれば、あれは名字だったのか。この人は家内さんというおばさんなのかもしれない。

 授業が終わった。流一は立っていって二人に頭をぺこりと下げた。 

「今日は。わたしが今度きたおばあちゃんよ。よろしくね」

 その人は優しい声でそう言うと、流一の手を包み込むように握り締めた。

 流一は驚いて辺りを見た。安代が笑いながらこちらを見ている。あとの三人は前を向いて座っているが、耳の先がつんと立っているところを見れば、みなも気にしているのだ。流一は少し照れたように

「手紙にあった家内さん?」

 流一は狐に抓まれた思いを露に、その人を見上げてそう言った。すると、祖父がぷっと吹き出した。その人も手の甲を口のところへ持っていって、さも可笑しいように笑った。

 流一は継母を思い出した。あの人も優しい声だった。この人も優しい声をしている。無意識のうちに、流一は警戒の色を深めた。心を許すと、またひどい目に合うかもしれない。今度こそ何かくれると言っても手など出してはいけない。流一は、知らず知らずあとずさって教室の入口のところまでさがっていった。

―― なんも聞いてへんのに。またぼくはそっちのけや。 ――

 流一は憮然とした思いで廊下に出てゆき、そのまま校庭から女鳥羽川の土手に上がっていった。自分でもどこへ行くという宛があってのことではない。授業も二時間目が済んだところだ。業間休みは十分だけだ。三時間目は流一の好きな国語だった。

 あのまま教室にいると、自分の知らない人を『祖母』と思い込まなければいけなくなるような気がしたし、クラスの連中の注目を集めるのも好ましくなかった。それが嫌で出てきたのだ。

 今まで、流一に何かが起きるときは、必ずといって、うす墨色の空が頭上を覆ってきた。祖父と堂島川の道を歩いていたときも、警官が若者を射殺したとたん、空は曇ってきた。

 継母を初めて見た夏の夕暮れ、ぎらぎら太陽が輝いていたのに、釣り竿と捕虫網を持って妙のあとを追って走り出したとたん、空は曇ってきた。

 阪大病院での目の手術のときだってそうだったし、甲子園を去る日も曇っていた。そして、伯母の家の前に立つ欅の木を巡ったときもそうだった。

 死んだ祖母を焼く煙が秋の空に漂っていたときも、水面に墨を流したような雲が湧いてきた。それが六斗川の水に映り、そこからも流一を押し包もうとしているように思えた。

 今も空を見上げると、ケムシによく似た雲が浮かんでいた。川原いっぱいに積もっている雪の上にもケムシがいた。横に走ったかと思うと、たちまち雪の中へ潜ってしまう。

 流一が、ほかにもいるか捜すと、さっきのケムシがいつの間にか雪の中から這い出してきて、流一の視野から逃れようと、全身をくねらせて雪の中へ潜ってしまうのだった。

 流一は激しく体を震わせた。漠然とした感情だったが、これでまた自分の人生がねじまげられたような気がした。

 夏の夕暮れ、カジカの声を聞いた辺りまで歩いていくと、そこも雪ですっかり覆われていて、音を立てて流れていた水流も雪の下に没しているようだった。耳を澄ましても、さわやかだった水音は無い。流一は、自分だけが疎外されていると思った。




      三

 流一は五年生になり、秋を迎えていた。

 茅野の駅前を出たバスは坂を登っていく。紅葉が山の頂上付近にちらほら見えている。未舗装の道路をバスは大きく弾みながら親湯温泉へ向けて走っていた。

 昨年の七月、流一が盲学校へ転校して間もないころだったが、学校全体で美ケ原へ出かけた。今年は蓼科の親湯温泉へ一泊しながら、茅野市の永明小学校で盲教育の紹介をすることになっていた。

 二月に初めて会った新しい祖母との生活も、春休みと夏休みを共に過ごすことで、すっかり馴れてしまっていた。むしろ、実祖母よりしっくりいっていると言っても嘘にならないほど親しみを増していた。

 継母に対しては抵抗する思いが働き、なかなか『お母さん』と素直に呼べなかったが、新しい祖母に対しては何の抵抗もなく『お祖母ちゃん』と呼ぶことができた。

 二月、祖父が初めて祖母を松本へ連れてきた日に感じた重苦しい感覚は、春休みに入ってそれほど時を待たないで払拭していた。それほど今度やってきた祖母は人の心に解け込む術を持った人だった。

 特に祖父が変わった。祖母が死んだ冬休み、流一が帰宅したときには床の中にいた。流一は知らなかったが、祖母の死後、祖父は二度も吐血し、胃潰瘍ということで自宅療養中だった。家政婦を頼んであったが、これが結構無責任な人で、二日も三日も顔を見せないこともあった。

 流一が冬休みに帰ってからも、その家政婦は来たりこなんだりで、流一は空腹を抱えて炬燵に丸まっている日もあった。そんなある日、中浜町のおばあさんがやってきて、その間の事情を知り、親戚が集まって今の祖母がやってくることになったのだ。

 初めて祖母になる人の顔を見たとき、どこかで会った人のように思ったのは当然だった。つまり、彼女は中浜町のおばあさんの妹だったのだ。交通事故で夫を、戦争で息子を亡くし、独り暮しをしていたのだそうだ。その人に死んだ祖母の親戚が集まって懇願してくれたのだった。

 新しい祖母が諏訪へ来る気になったのは、家に温泉のあることと、諏訪の町にキリスト教がそれほど伝導されていない理由からだった。祖母の宗派に属する人は誰もいないことが魅力だといって東京からやってきたのだそうだ。世の中には可笑しな人もいるものだと、流一は祖母の話を聞いてそう思ったものだ。

 親湯温泉へ向かうバスが埃を巻き上げて坂を登っていく。幾つカーブを曲がったろうか。曲がる度に視界が広がっていく。周囲の田んぼが黄金色に輝き、大きく開いたバスの窓から鳴子のからからいう音や、小学校の低学年の子供たちであろう。バスと競争しようと、ランドセルを鳴らしながら歓声を上げて走ってくる声も聞こえてきた。

 ときおり肥桶を載せた馬車にも会った。風に乗って真新しい肥やしの匂いが車内へ流れ込んでくると、車内は急に賑やかな声で満ちてくる。牛の鳴き声や、小鳥の声が聞こえてくると、バスの中は静まり返り、自然の音に耳を傾けるのだった。

 流一は川井と並んで前のほうに座っていた。川井は青い顔をして下ばかり向いている。ほかにもバスに酔った人がいて、なかには袋に吐いている者もいた。きっと川井は吐く音を聞いて余計気分を悪くしたのだろう。流一は川井の背を撫でてやりながら、早くバスが目的地に着けばいいのにと思っていた。

 川井が背を丸めてうっうっと言い出したころ、バスは川を渡って大きな建物のある道へ入っていった。どうやらバスは親湯温泉の玄関に到着したらしい。髪の毛が外国人のように赤い三年生の美奈ちゃんは阿部先生に背負われてバスを降りていった。そのことを川井に言うと

「よせ栗田。やっと吐かないでいるんだから。そんなことを言ったらお前の背中へ吐いてやるぞ」

 と言って、本当に吐くのではないかと思うほど喉をゲボゲボさせた。

 旅館の裏は林になっていた。茸が取れそうな林が山の上までつづいている。建物は大きく、館内も入り組んでいて面白そうだった。流一は気に入ってしまい、館内を探検しようと、同室になった川井を誘って早速廊下へ飛び出していった。

 階段を降りていくと、皆がカッポと呼んでいる高等部の男の人が

「おいお前たち、泳ぎにいくぞ。パンツを持ってきたか」

 と言って、水泳パンツを振りまわしながら風呂へ入っていった。

「おい栗田、ここの風呂は泳げるほど広いのか?すげえなあ!」

 川井は驚いてそう言った。さっきまでの顔色もどこへやら、泳げると聞いて目を輝かせ、流一が何も言わない前に背をくるりと向き変え、替えのために持ってきているパンツを取りに二階へ上っていった。

―― 馬鹿を言うな。上諏訪にだって泳げる風呂くらいあるわい。 ――

 流一は片倉会館の美しい建物の全景を思い浮かべて、胸の中で毒づいた。

 川井というやつは恐ろしいほど勘がいい。一度でも歩いたところは完全に記憶してしまうらしい。今も部屋から出て三つ四つ廊下を曲がってきたのに、先を行く川井は、迷う様子もなく部屋へ戻っていった。それでも、途中に物が置いてあるところもあるので、流一は心配して後ろからついていった。

「おい待て。そこに物が置いてある」

 と言って、流一は走っていって川井の腕を取った。

 風呂を出たところが石段になっていて、そこを下っていくとプールだった。三分の一は建物の中に納まっていたが、あとは紅葉の滴りのなかだった。滝のように湯がプールへ流れ込んでいて、水の中は泳ぐに快適だった。

 夜は川井や重夫と枕を投げ合って騒いだ。同室の女の子たちに文句を言われても旅館の枕は大きく、やわらかだったので、投げ合うにはもってこいだった。騒ぎが大きくなりすぎ、青柳先生に

「もう寝なさい」

 と叱られ、蒲団の中に入ったものの、流一は興奮したせいか、周囲の寝息を聞きながらいつまでも眠れないでいた。

 夜も明けると、抜けるような空が広がっていた。一夜で紅葉が一段と進んだ山の稜線と空との境界線が鉛筆で引いたようにくっきり見える朝だった。

 あっという間に時は流れ、蓼科をあとにしなければいけない時刻になった。流一は旅館の裏へ出てゆき、奇麗な落ち葉や、ドングリを拾ってリュックに入れて帰ることにした。

 安代と同じくらいの年恰好の旅館の娘が玄関先で水を撒いていた。林の中へ入っていくと、同じことを考えていたらしい安代が睦美の手を引いて地面にしゃがんで何か拾っていた。二人は流一の来たことにも気づいていないらしく、大きな声で話をしていた。

 流一は足音を忍ばせ、二人の背後へ近づき、途中で拾った縄を二人の頭越しに投げてやった。すると、いつも磊落(ライラク)な安代が声にもならない悲鳴を上げて、その場に立ちすくんでしまった。睦美が

「ねえ安代さん、どうしたの?ねえったら」

 と、少し苛立たしそうな声で安代の腕を掴んでたずねても、安代は何も言えないで地面を見つめたまま立っていた。

 流一が後ろでくっくっと笑うと、安代は勢いよく振り返り、いきなり流一の頬をぶった。安代の顔は草よりも青く、目は涙できらきらと光っていた。唇が震え、流一をぶったのも振り返ったときの反動だったのではないかと思えるほど、安代は慄然としていた。

 流一も思いがけない安代の反応にすっかり驚いてしまった。悲しみをたたえた表情は流一の知らない大人のものだった。今年の一月に転校してきたときは流一より少し年上くらいにしか思えなかったのに、今、流一を睨んでいる安代は、横に立って何が何やらわからないでいる睦美と違う雰囲気を持っていた。

 安代は流一の体を押しのけると、睦美の手を引いて旅館のほうへ去っていった。遠ざかっていく二人の姿を流一はぼんやりした気分で見送っていた。睦美の大きな声がさっきと同じ質問をしていたが、安代の声は聞こえてこなかった。

 流一は、安代にぶたれたことより、彼女が遠い人になったことのほうを少なからずショックとして受け取った。今まで、『おいやすべえ』と呼んでいたことに抵抗のようなものを感じた。

―― 安代さんは大人になったんだ。 ――

 流一はそう呟いた。足元に落ちている小さな白い石を二個と、ドングリを二つ拾ってポケットに入れ、ゆっくり旅館へ戻っていった。

 全校生徒のなかから十人ほどが茅野に残り、永明小学校へ校長と青柳先生に引率されて出かけていった。

 世間の人は盲学校のことをあまりにも知らなすぎる、というのが校長の論で、少しでも多くの人たちに盲教育の実態を知らせたがっていた。

 実際、校長も盲学校へ赴任しろと教育委員会から言われたとき、盲学校というのは何をするところか無知同然だったそうだ。そのことが心の痛みとして残り、県内を回って盲教育の実態を知らせる使命感に燃え、こうして事あるごとに学校訪問をしていたのだ。

 流一は中学部の生徒に混じって算盤を披露した。小さいときから算盤はお手のもんだったので、たとえ中学部の生徒たちとでも間違いなく四桁くらいの加減なら大丈夫だった。

 しかし、流一がいくら上手に玉を弾いても注目は全盲の人の手元へ視線は注がれ、問題を読み上げる青柳先生も全盲の川井や、算盤の玉に目をすりつけるようにして入れている生徒に答えを求めるので、途中からばからしくなってしまい、先生が読み上げてもいい加減に玉を動かしていた。すると、先生が

「はい栗田君」

 といきなり言ったので、流一は大いに面食らって、慌ててでたらめに答えると、川井が勢いよく手を上げ、正しい答えを言った。

 体育館に集まっていた永明小の生徒たちは、一斉にどっと笑い、川井に対して激しく拍手を送ってきた。流一は羞恥心に顔を真赤にさせ、下を向いているほかなかった。

 帰りの汽車の中も流一は黙り込んでいた。答えを間違えたため、校長の機嫌も悪かったし、流一に答えさせた青柳先生も校長に小言を言われ、その飛ばっ尻が流一のところへも飛んできた。川井が

「人間というやつは誰でも間違いを起こすものだ」

 と、いかにも大人っぽいことを言って流一を慰めてくれたが、返って流一の心を重苦しいものにしてくれた。

 流一は茅野へ残った者たちより、ひと足先に松本へ帰っていった安代のことを、浅間へ向かう電車の中でも考えつづけていた。

――やすべえと呼んじゃあいけないんだ。ぼくを見おろしていた顔は大人の人みたいだった。安代さんはもう大人なんだ。 ――

 流一は、林の中に立って自分を見おろしていた安代が美しいと思った。甲子園の焼け野原の池の辺で夕陽に目を細めていた秋江の姿が安代に重なってきた。

「また一人、仲よくしていた人がぼくのところから消えてしもうたわ」

 流一は、電車が横田の駅に近づいて、車体を軋ませはじめた音で、川井の腕を取ってゆっくり立ち上がった。





  • 第10回へ続く


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