半助は長い夢を見ていた。
昔の、自分がまだ子供だった頃の夢だ。
半助は未だその頃に縛られたまま。
夢の中の半助は幸せだった。
…山田先生。
彼は、まだ小学生6年生だった半助の前に突然現れ、突然消えた。
半助を大きく塗り替えてしまった事も知らずに…。
半助は、自分の首にぶら下がった鍵をうんざりと見詰めた。
両親は共働きで、半助は所謂『鍵っ子』だった。
それも筋金入りの…。
こうやって鍵を首にぶら下げ出したのは、まだ小学二年生の頃だった。
当時も共働きの家は珍しくなかったが、他の小さい子供達には学童保育というものがあった。
しかし半助の両親は、半助を学童に入れる事をしなかった。
信じられない事だが、純粋に知らなかったのかもしれない。
それほど、彼の両親は仕事人間だったのだ。
仕事人間と言えば、聞こえは良いかもしれないが、要は育児放棄。
一緒に生活してはいても、両親の興味が自分にないのは、半助にも嫌という程、分かってしまっていた。
それは子供には悲しい自覚。
半助には、手の届く距離に居る両親に、抱きしめてもらった記憶が無いのだ。
赤ん坊の頃から、同居していた祖母に育てられていた半助。
母親は、すぐに仕事に復帰する為に、赤ん坊だった半助を祖母に押しつけたのだ。
祖母が、半助に愛情を込めて育てたのが、救いだったと思う。
幼稚園の送り迎えも、運動会もお楽しみ会も…参加してくれたのは、祖母だった。
その祖母が亡くなって、彼の両親は初めて一人息子と向き合う事になった。
忙しいという理由で、殆ど両親に構われることのなかった半助は、上手く両親に甘える事が出来なかった。
自分達に懐かない半助に、親の関心は益々遠のいた。
自分達の行動を棚に上げて、子供らしくないと、半助のせいにしたのだ。
それから、まるで一人前であるかのように、十にも満たない半助に鍵を与えた。
そして…時々、仲の良い家族を演じる。
授業参観。
家庭訪問。
…そんなときだけ、母は完全な母親の姿になった。
自分の頭を撫でる母の手の感触が、気持ちが良いと思ってしまい、半助は悲しくなった。
心の優しい半助は、そんな両親に反発する事も出来ずに、良い子で居続けるのだ。
半助の家庭での話相手は、相変わらず祖母だけだったのだ。
おばあちゃんの眠る仏壇の前に何時間でも座り込んで、線香を欠かした事はなかった。
それから丸4年…半助も6年生になっていた。
学校では、それなりに友達も居るが、大親友と呼べる相手は居ない。
沢山の友達の中に、学校が終わった後まで、一緒に遊ぼうという相手は居なかった。
比較的、優等生に分類されていた半助の友達は、大抵、塾や習い事に忙しかったし、そうでない友達は、半助も同じような生活をしているものと決め付けて、半助を遊びの仲間に入れる事は無かった。
半助も塾に行けば、1人で過ごさなくても良くなるのかもしれないが、成績の良い自分が今更、塾に行かせてくれ…とは言えなかった。
相変わらずな両親は、教師に呼び出されるような成績を取らない限り、半助の成績にさえ、関心が無いのだ。
そもそも勉強が出来るのも、1人で居る時間を潰すのに、勉強するのが都合が良いだけ。
子供がどんなものを欲しがるのか、考えもしなかった半助の家には、漫画もゲームも、所謂子供の居る家に当たり前にある物が、一切無いのだ。
クリスマスに、半助の所にだけサンタクロースは来た事もないし、誕生日は覚えているのか疑問な程、日常と変わらない一日が過ぎ去るだけだった。
毎晩帰宅の遅い両親。
たまに帰って来ても、半助を空気の様に扱うのだ。
その度に、諦めたと思っていても半助の心が傷付いているなどとは、思いも寄らないのだ。
何時に帰っても咎められない半助の帰宅時間が、段々遅くなったとしても仕方がない。
その日も、家に帰るのが嫌で、図書館で時間を潰していた。
しかし、閉館と共に追い出されるように、帰路に就く。
その子供らしくない重い足取りに、いつしか並んで歩く人が居た。
「今日も、こんな時間まで、宿題かい?」
「…え?」
半助は、いきなり声を掛けられ、純粋に驚いた。
「昨日も、その前も居ただろう?」
声を掛けて来たのは、ひょろりと背の高い男の人だった。
半助には、あまり明るい感じの人じゃないのに、一生懸命笑顔を作っているように見えた。
「ど…どうして、知ってるんですか?」
子供らしい警戒心で、半助は男を観察する。
すると男は残念そうに表情を曇らせる。
半助は、男の気分を害したのが分かって、一瞬怯んだ。
半助は悲しいくらい、大人の感情に敏感だ。
それでも、男が笑顔で話しを続けると、半助はあからさまにホッとした顔になった。
「私もよく図書館に来るから。よく見掛ける子だなって思ったら、昨日、帰り道がずっと一緒でね。気が付かなかったかい?」
改めて、満面の笑顔を向けられて、半助は困ってしまった。
「あ…あの、すみません。気が付きませんでした…」
何も悪いことをしていないのに、大罪を犯したように神妙になっていた。
「あはは…何も謝ることじゃないさ。私が勝手に気になっただけだから」
男は何気なく、半助の頭に手を乗せて来た。
半助は、ビクリと震えた。
「あぁ、ゴメンよ。綺麗な髪だと思って…ついネ」
「あ…ごめんなさい。」
半助は慣れていないのだ。
何気なく頭を撫でてくれたのに、過剰反応した自分が恥ずかしくなってしまった。
半助は自分の足下だけを見て、男と2人並んで歩いた。
男が振ってくれる話に、半助は無難に相槌を打つばかりだったが、それ程苦痛な時間ではなかった。
変な話だが、学校から帰って来てから、誰かと話すこと自体…珍しいのだ。
誰とも会話無く1人で部屋に居ると、時々、自分は声が出ないのでは…と心配になることがある。
あーっ!
試しに声を出してみて、安心するが、大声を出しても何の反応も無いのを思い出し、ガッカリする。
それを思うと、誰かと話すというのは、それだけで楽しいものなのだ。
男の家は、行き先は同じではないかと思う程、本当に半助の家の近くだった。
自然と男の家の前で2人は立ち止まる。
『木下』と表札が出ていた。
「はぁ〜」
男は態とらしく、大きな溜息を付いた。
「…私は、家に帰っても1人なんだヨ。折角、今日は君と話せて、楽しかったのに…」
半助には、その男の言う気持ちが良く分かった。
そして、何より、自分と話せて楽しかった…と言って貰えたのが、嬉しかった。
「…僕もです。」
ポツリと告白していた。
誰にも、家の事情を話した事はなかったのに…。
男の見せた悲しげな表情が自分と同じように見えたから。
自分と居る事を楽しいと言ってくれた人だから…。
知らないうちに、半助の中に仲間意識のようなものが出来ていた。
「こんな時間なのに?」
時計は8時をとうに回っていた。
男の疑問は当然だ…と半助も思う。
普通の家では、こんな時間にウロウロしていては、親が心配するものだ。
……だが
半助に、心配する両親は居なかった。
「まだ、当分帰って来ないです。家の両親は…」
また一層半助の表情は沈み込んだ。
男は、しばらく考えた様に黙った後、思い切った様に切り出す。
「どうだろう…家でご飯でも食べていかないか?」
半助は、それこそ目が飛び出る程、驚いた。
誰かの家にお呼ばれするなんて…!
誘われたのも初めてだった。
それも、見ず知らずの人なのに…。
「でも…」
「自分の為だけに夕飯の準備するのって面倒なんだよネ。君みたいな子が一緒に居てくれたら、きっと美味しい、楽しい夕食になると思うんだが…協力してくれないか?」
半助は突然の展開にクラクラしていた。
嫌とは言えなかった。
誰かに、『自分と一緒に夕食を食べたら楽しい』などと言われた事が無かったのだ。
夕食はいつも、半助が学校に行っている間に来ているお手伝いさんが作ってくれた物だ。
それも、ラップが掛けられ『電子レンジで温めて食べて下さい』とメモがあるだけ。
1人で食べて、1人で食器を水を張ったシンクに片付ける。
きちんと洗っておいても、そのままにしていても、誉められる事も、怒られる事もない。
食欲が無く、全てを三角コーナーに捨ててしまった翌日でも、毎回同じメモに、一定の料理がローテーションで並ぶだけだった。
自分の事を考えて作ってもらった料理なんて、どれ程食べていないだろう……。
と、半助はぼんやりと思った。
「良し!じゃあ、どうぞ。」
半助の沈黙を肯定と取った男は、楽しそうに、半助を招き入れた。
半助は、すっかり警戒心を解いて、おずおずと男に従う。
「さぁ……土井、半助くん……いらっしゃい♪」
半助は、すっかり舞い上がっていた。
そんな半助に、気が付く事など……出来なかった。
男が、まだ自己紹介をしていない自分のフルネームを呼んだ事に…。