「……あれ?」
半助は、ドキリとした。
木下の家から、帰ってきた所だが、自分の家に明かりが付いていた。
まだ時計を見ると9時前だ。
極端に遅い時間ではなかったのに…。
両親のどちらかが帰ってきている?
半助は、親に何か言われるのかと思うとドキドキした。
それ以上に、何も言って貰えなかったら…と思うと、中々家に入れなかった。
「いつまで、そこに立っているつもりだ?」
「…え?」
突然、玄関の扉が開けられ、声を掛けられた。
そこに居たのは、半助の知っている誰でもなかった。
「だ、誰…?」
泥棒にしては堂々としすぎていたし、落ち着いて品があった。
半助は思わず、目の前の人をまじまじと見上げてしまった。
1人になって酷い偏食になった半助は、給食以外ではまともな食事を摂っていない。そのせいかクラスでも背が低い方だ。
大抵の大人は見上げる形になるが、目の前の男は、背はそんなに高くないのに、大きく感じた。
何となく……空気が周りの人とは違うような感じがするのは、半助の気のせいか?
それでいて怪しい感じはしなかった。
一言で言って、格好いい人だと思った。
普通に黒っぽいスーツ姿なのに、そこいらのくたびれたサラリーマンとは印象が全然違って、鍛えられたオーラみたいなものを感じた。
そんな人が自分の家に居て、自分に話し掛けてくるのが不思議でならない。
「父か母の…お客様ですか?」
家には、本当に時々だが、親がお客を連れて来る。
その時だけは、両親の顔が普通の子供に対するものになるのだ。
でもそれは、あくまで良い子である半助を見せる為。
夜遅くまで外をうろつく様な子供では、両親に恥をかかせてしまったのでは?と、半助の背中を冷たい汗が流れた。
「あの…図書館で調べものをしていたら遅くなってしまって…」
半助、最初に言い訳めいた事を言っていた。
すると男は、苦笑いをしながら言った。
「大丈夫。私しか居ないから…余計な心配はするな。」
と。
半助の言葉の意味を分かってくれた事に、半助は呆然としてしまった。
こんな事、今までになかった。
でも…なら、何故自分の家に居るのか?
「家に入ってから、説明するから…」
また男は半助の気持ちを読んだように、そう言うと、半助を家の中へと促した。
半助は、素直に男に従っていた。
家に入ると、男はお茶を飲みながら、リビングで半助を待っていたのが分かった。
広げていた本や紙をまとめると、自分の使っていた湯飲みを持ってキッチンの方に向かう。
律儀に、お茶菓子のようなものが出ていた所を見ると、お手伝いさんの居た時間帯から、1人で待っていた事になる。
「あの……あなたは、どなたなんですか?」
半助は、男の後ろを付いて歩きながら、聞いみた。
「山田伝蔵と言う。」
ぶっきらぼうな言い方だったが、冷たい感じはしなかった。
「山田さん…?」
「あぁ、今日からお前の家庭教師をする事になった」
「か、家庭、教師っ?!………えぇ…っ?!」
半助にはまだ信じられなかった。
「お前の事は、半助で良いな…半助、部屋はこっちか?」
思わず、自分の部屋を教えながら、半助は自分の部屋に入っていく伝蔵を見詰めていた。
話を聞いた後でも、彼が家庭教師には…とても思えなかった。
子供を相手にする職業独特の雰囲気が無いし、何より格好良すぎる。
「そんな話…聞いてないんですが…?」
伝蔵は、半助を机の前に促した。
大人しく、勉強机の椅子に腰を下ろす半助。
伝蔵も、半助の横にもう一つ、いつの間にか用意されていた椅子に座った。
「家庭教師の必要はないと言いたいのか?」
半助は言葉に詰まる。
「あの…確かに、最近ちょっとテストの点は下がったかも…」
そこで、半助はハッと気が付く。
「あの、家庭教師って…母さんですね?先生から連絡が行ったんだ…」
半助は、血が下がるような感覚に襲われていた。
「下がったって言っても、平均的よりずっと上だし、そんなに悪い点じゃない…」
半助は、母親が自分が今までテストで平均何点取っていて、下がった今は、何点なのか知っているのか…問い質したい衝動に駆られた。
先生から言われて、恥ずかしくて…家庭教師を付けようと思ったんだろう。
自分に直接、テストをもう少し頑張りなさい…と言ってくれれば、幾らでも頑張るのに。
「…泣くな」
伝蔵の手が、半助の頬にそっと触れた。
「…ぇ?」
突然の事に、半助はビクリと震える。
半助は、自分が泣いていることに初めて気が付いた。
伝蔵の手を離して、慌てて涙を拭う。
よく自分に掛けられる、在り来たりな言葉は何も無かったが、伝蔵が自分を不器用に慰めてくれようとしてくれているのが伝わって来る。
伝蔵は、今日初めて会った…ただの家庭教師なのに、ただ側に居るだけで、癒される気がした。
ほら…とハンカチを渡された。
シンプルな白いハンカチだったが、ふわりと良い香りがした。
「平均点より上でも、今までのお前より悪い点になったんだから、周りとの比較の問題じゃない」
伝蔵の言うことは、正しいと思う。
「今日は、宿題は?」
言われて思い出す。
「算数のプリント…」
「もう、やったのか?」
やってある訳がなかった。木下の家で、新しい漫画をずっと読んでいたのだから…。
伝蔵の顔が見られなくて、半助は視線を落としたまま、首を振った。
「じゃあ、それだけやってしまおうか…食事は食べたんだよな」
こくん…と頷く。
半助は、ランドセルから算数の道具一式を出すと、プリントに取りかかった。
宿題をちゃんとするのは久しぶりだった。
最近は、朝学校で慌ててやる事が多かった。
漢字の書き取りもぐちゃぐちゃで、ただ埋まっていれば良いという有様で、少し前までは信じられない事だ。
宿題をやりながら、分からない部分があった時は、教科書で調べる。
プリントの問題は、必ずやった所から出されているから、調べれば分かる筈なんだ。
ついいつもの癖で、教科書で調べて何とか解けた。
やった〜と思い、顔を上げたら、伝蔵がじっと自分を見詰めているのに気が付いた。
「……あっ」
一瞬、家庭教師がいるんだから、聞くべきだったのか?と思う。
「良くできたじゃないか…」
伝蔵が、にっこりと笑っていたので、ホッとした。
伝蔵は、家庭教師と言いながら、ただ半助が黙々と机に向かっているのを眺めているだけだった。
半助は、家庭教師は、もっと教えてくれたりするものかと思ったけれど、伝蔵は半助の手助けをするだけで、まず半助自身が考える事を優先する。
そして煮詰まった時にだけヒントを与えるのだ。
甲斐甲斐しくされた事のない半助にとって、そのスタンスは心地良かった。
集中すると、宿題はすぐに終わったが、始めた時間が遅かったので、もうすぐ10時になろうとしていた。
「山田…先生。遅くまで…すみませんでした」
半助は、玄関まで伝蔵を見送りながら、初めて伝蔵を先生と呼んでみた。
山田先生…何だか、とても良い響きだ。
「すみません…じゃなくて、ありがとう、だろ。…明日は、もう少し早く帰ってきてもらえると有りがたいんだが…」
「明日も!?」
今日、こんなに遅くまで付き合ってくれたのは、明日が休みだからなのかと、半助は誤解していた。
「しばらくの間、毎日と言われているが…何か大切な用事でもあるのか?」
「や…約束、してるんです」
具体的な約束をした訳でないが、木下は明日もきっと待っている。今日読んだ漫画の続きを用意しておくと言っていた。
漫画自体にはそれ程執着は無かったが、用意しておくという木下の好意を無にしたくは無かった。
「そこに行くと、楽しいのか?」
半助はドキリとした。
一瞬、母親に成績の下がった原因を聞くように言われているのか…とも思ったが、それはあり得ないと分かる。
ほんの少し一緒にいただけなのに、不思議とそれは無いと信じられた。
「家に、真っ直ぐ帰ってくるよりは……」
それより先は、言葉に出来なかった。
胸に詰まった重たいモノが口を塞ぐ様に…言葉にならなかった。
言葉を紡ごうとした唇がぶるぶると震える。
伝蔵は、そこにそっと人差し指を乗せる。
もう言わなくて良いという意味。
言葉にする必要はない…と、伝蔵の瞳が言っている様だった。
「今は、親をあてにしなくては生きていけないが、人はそのうち独立して、1人で伴侶を探していくもの…その力を今のうちに蓄えるんだ」
半助は伝蔵の言っている意味が分からなかった。
「永遠に……独りというのは、ありえない」
その言葉は、伝蔵自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
「絶対、運命の相手に逢える筈だから、自分から楽な方には流れるな…」
楽な方…というのは、木下の事?
半助は、あまりに動揺してしまった。
兎に角、今日よりは早く帰ります…と約束するだけで、精一杯だった。
それに伝蔵は、わかった…とだけ言って、帰っていった。
「また、明日な…」
半助は、その後ろ姿を見ていると、不思議にも闇に解けて行きそうだと思った。
伝蔵の第一印象を思い出す。
…空気が周りの人とは違うような感じ。
伝蔵に見詰められると、時間が止まったような気がする。
その黒い瞳の深淵に引き込まれてしまうようで…
怖いのに…何処かホッとするような…この感覚は何だろう?
半助は、いつの間にか、
伝蔵の事ばかりを考えるようになっていた。
あの人の事……もっと知りたい。