「…だ!お前は…どこから!」
半助の耳元で…誰かが騒いでいた。
誰かが、半助の身体を引き起こそうとする。
途端に喉がヒューヒューと音を立てて、思い出した。
酷く苦しかった。
良かったのかは…分からないけど、まだ…生きてる。
絶対殺されたかと思ったのに…。
「近付くな!お前何者だ!どっから来た!」
耳元で騒いでいたのは、木下?
「半助を離すんだ。私をこれ以上怒らす前に…」
この声。
身体中に響くような声。
本当に…あり得ない…。
こんな都合の良い事。
山田先生が助けに来てくれるなんて…。
でも情けない事に、半助は自分の身体を自由に動かせなかった…。
側にいる2人も、半助が気付いていることを、分かっていないかもしれない。
「近づくな!」
目の前にキラキラしたモノが振り回されていた。
「このガキの命は無いぞ!」
喉元にひやりとした感触。
木下が刃物をあてがっているのだ。
でも…突然、踏み込まれただけにしては…空気がおかしい。
「この化け物め!来るなぁ!」
木下は怯えていた。
じりじりと後退る。
化け物?
「お前が、殺した子供達も同じ事を言わなかったか?」
伝蔵の声は、この場に不似合いな程、普通だった。
「来るなぁぁぁ〜っ!」
木下は、半助を床へと投げ捨てると、手に持っていた包丁を闇雲に振り回した。
半助は床に叩き付けられた衝撃で、何が起こったのか良く分からなかった。
一瞬、半助に気を取られた伝蔵に、木下が襲いかかったのだ。
なのに…伝蔵は避けようともしなかった。
ザクッ…と、木下は手応えを感じた。
「ヒッ!」
切った方が驚いていた。
手応えが普通ではなかったのだ。
ボタ…ッと、半助の目の前の床に、血が落ちた。
「ぁ…!」
伝蔵が切られたのだ…半助は小さな悲鳴を上げる。
しかし、それは木下のそれ以上の悲鳴でかき消された。
伝蔵の頬を弧を描く様に出来た傷は、木下の目の前で、べろりと垂れ下がった。
伝蔵は、それを何でもないように撫で付けると、それで傷は掻き消えていた。
「ひぃぃぃ…!」
「普段は、なるべく苦痛を与えるような事はしないが…お前は許さない」
がぐぅがが…と半助の頭上で、人の物とは思えない呻き声が聞こえた。
それは…多分、木下のものだ。
見えていなくとも、半助には分かった。
人智の及ばない何かが、起こっているのだろう…と。
それも…
山田先生の手によって。
木下のものらしい足が、ビクンビクンと断末魔の麻痺を繰り返す。
程なくして、ドサリと荷物のように木下の身体が投げ出された。
恐らく、山田先生の居るであろう辺りに、異常な熱気を感じた。
不思議と恐怖感はなかった。
半助は、必死に顔を上げようとしたが、身体が痺れたように動かなかった。
「……ゃ…」
名前を呼びたいのに、言葉にならなかった。
「…半助。怪我は無いな。」
気が付いてる!
半助の瞳からドッと涙が出た。
「そのままじっとしているんだ。巻き込んで…すまなかった」
何を言っているんだろう?と思った。
山田先生は、助けてくれたのに…。
「私が恐ろしいだろう?こんな目に合わせるつもりじゃなかった…」
心底、後悔しているような声色だった。
そんな事無いのに!
半助の気持ちは伝わらない。
それでも、どうしても声にならなかった。
行ってしまう!
何故、そう思ったのかは半助にも分からない。
身体がバラバラになりそうな程に痛んだが、必死に顔を伝蔵の方に向ける。
そこに居たのは、後ろ姿の伝蔵だった。
一見別人のようだが、半助にはすぐに分かった。
その背中には、人有らざるものが生えていた。
黒光りする……蝙蝠と同じ形の羽根。
美しいと思った。
伝蔵に、相応しいと思った。
いつもの伝蔵も、格好良すぎて別世界の住人の様に思っていた。
でも、あれは仮の姿だったのだ。
今の姿は、暗闇に真っ赤な光が射し込んだ様な…そんなインパクトがあった。
思わず時を忘れ、その後ろ姿から目が離せなかった。
一瞬で魅入られてしまったのだ。
「や…山田、せん…せ」
しかし、半助がその名前を呼び終える前に、空気が歪んだ。
闇が濃さを増す。
次の瞬間、美しい異形は、闇の中へと消えてしまった。
本当に、なんの跡形もなく…。
美しい人は、自らのあるべき世界に帰ってしまったのだ。
半助、独りを残して…。
半助はしばらく、呆然としていた。
意識しない涙が止めどもなく流れた。
伝蔵は、初めから行ってしまうつもりだったのだ。
だから、あんな事ばかり言っていたのだ。
それとも、全て夢だったのか?
自分は気が狂ってしまったのではないか…と心配になった。
あまりに寂しくて、あの人そのものが、自分が作り出した幻だったとしたら?
ゾッとした。
半助は、それが何より恐ろしかった。
あの人は確かに存在したのだ。
美しくて、優しくて、厳しくて、自分を気に掛けてくれた人。
人ではなかったかもしれないが…。
半助にとってはどうでも良いことだった。
時間が経つにつれ、身体の感覚が除々に戻ってくる。
何とか身体を起こすと、木下だったものが見えた。
しかし、半助の関心はそこには無かった。
「あ…った…」
あの人の存在の証拠。
「…良かっ…た」
半助は、床に垂れていた血痕を、人差し指で拭い取った。
木下が伝蔵の頬を斬り付けた時に、落ちたモノだ。
確かに…あの人、山田先生は存在した。
そして、自分を助けてくれたのだ。
自分を助けてくれる存在なんて……誰も居ないと思ったのに。
…山田先生だけが。
半助は、その血をそっと舐めていた。
鉄の味がするそれ。
人ではない者の血を口にするというのに、迷いは全く無かった。
自分のものと大して変わらない。
目の前がグルグルと回りだしたが、気にならない。
その時、半助は…幸せだった。
山田先生の存在の証拠を、独り占め出来た。
その喜びに浸っていたのだから…。