血の連鎖

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9・月氏

伝蔵が窓を開けると、湿気を含んだ夏の風が通る。
外は、すっかり陽が傾き、夜へと向かう気配。
「まずは、我々の事から…か」
伝蔵が、ぽつりぽつりと語り出す。
半助は、その言葉を一つとして取り零す事の無いよう、集中する。
その存在さえ、一刻の幻とさえ思えた人が、自分の為に言葉を選んでいる。
その姿は、まるで夢のようだった。
全ての神経を伝蔵だけに傾ける。
…その行為の神聖な行為に、半助は身を引き締めた。

「わし等が…人で無いのは、理解しているな?」
言葉を挟むのが憚られ、半助はこくりと頷いた。
「人は、我々の事を…吸血鬼などと呼んでいる様だが、わし等は『月氏(がっし)』と称している。月氏の一族は、人の精気を(かて)としている。」
そう言えば、利吉は何度も言っていたっけ。
…食事。
人の精気を食べるのだ。
半助の中に、血の記憶が蘇った。
人を殺して、生きている一族…。
「お前が、どんなイメージを持ったか知らないが、月氏の祖先は太古の時代、数ある生物の中から、わし等と姿形の似通った『人』を糧として選び、数を確保し増やす為に、淘汰される事の無い様…火や道具、知恵を与えた。長い歴史の中で、人が家畜を飼うのと同じ様なものか…」
伝蔵の話に、半助は息を呑んだ。
…家畜。
半助は、指先が冷えていくような感覚に襲われていた。
人間は、勝手に自分達が生物の頂点にいて、全てを支配している様な気になっている。
そうでは無いと理想論を述べた所で、家畜と同列に表現されただけで傷付いてる自分に、半助は呆然としていた。
利吉の最初の見下したような態度の訳が分かった。
本当は、伝蔵に…こうして対等に話してもらえる立場ではないのかもしれない。
半助の胸に不安が過ぎった。
「しかし、人は月氏の予想以上の進化を遂げた…こうして、対等に会話を交わせるようになる程に…。」
伝蔵の瞳には、人を見下す色が無かった。
半助は、ほっと息を吐く。
「月氏の中には、未だに人を食料としてしか認識出来ない者も多いが…こうして向かい合っていると、わしには、月氏も人も大して違わない気がしてくる。月氏も人の精気が無ければ、生きてはいけない。それは、人に生かされているという事ではないか…と」
半助は、伝蔵に見詰められ、鼓動が早まるのを押さえられなかった。
「しかし、食事をしなければ…生きてはいけない。それならと、人として質の良くない者を吟味して、なるべく人から恨みを買っている様な者を選んで食する様になった。ただの偽善と言えば、その通りだが…精気としては、変わりはない。そうして、お前と出会った。木下は…知っての通りの悪人だったからナ。」
伝蔵は苦笑する。
…しかし
何故半助にあそこまで関わったのか…?
ターゲットが半助に触手を伸ばそうとしていたのは、手に取る様に分かった。
それに気付きもしない半助。
自分と比べてほんの一瞬程しか生きていないような、人の子供が全身に纏っている空気。
それが自分と重なって見えたのか?
その点については、伝蔵にも説明しかねた。
伝蔵は、そこは省いて、話しを続ける。

「わしの様に思った先人が居たのだろう。最初に誰が試したのかは分からんが…月氏の精気を人に与えると…殆どの人は、そのエネルギーに耐えられずに、死んでしまう。しかし…まれに生き残る者が出る。その月氏の精気を受け入れる事の出来た人は、限りなく月氏に近い生き物になる…それを【果実(デセール)】と呼ぶ。」
果実(デセール)
…何度も、半助はそう呼ばれた。
「月氏から精気を受け入れる事の出来る【果実】は、その体内で受け入れたモノを最高の精気へと熟成出来るようになる。それは、わし等には…たまらなく甘い香りで、人の精気など比較にならない程の力を得る事が出来る。」
普通の人からの精気の搾取を食事とするなら、【果実】からの搾取は、最高級のディナー。
それも特別な、甘美なデザートのようなモノなのだ。
自分の精気を少々分けてやるだけで、そんな精気を無限に精製出来る。
「つまりは、【果実】が側にいる月氏は、わざわざ食事をする必要がなくなると言う事だ」
そこまで聞いて、半助は恐る恐るといった感じに発言する。
「私が…その【果実】だと言うんですか?」
でも、そうだとしたら…。
伝蔵や利吉が執拗に、半助の臭いを嗅いだ理由が分かった。
自分から、そんな香りがするんだろうか?
「精気のやり取りは、普通…血液・唾液・精液を介する。利吉がやった様に指先を気道…人が言う気道とは違うが、精気の流れている所だな、そこに差し込む方法もあれば、直接、舐め取る事もある」
半助は、伝蔵の言葉に敏感に反応していた。
「半助。月氏はそうそう人と関わる事は無い。寿命も異なるし、人が月氏の糧として搾取される事は知らない方が幸せだろうから。お前が、わし以外の月氏と関わったとは思えない…」
伝蔵は、眉間に深い皺を寄せて苦しそうだった。
「【果実(デセール)】になるというのは、人ではなくなるという事だ。人としての幸せが望めなくなる。お前には…人として、幸せになって欲しい」
「や、山田先生」
半助は、驚いた。
伝蔵から、こんな言葉が聞かされるとは思ってもみなかった。
「どうして…何時、そんな身体になった」
伝蔵から、自分を心配する想いが伝わってくるようで、半助の胸は一杯になった。
とても嘘なんて、付けそうにない。
半助は、あの時の事を…正直に話した。
「私、先生の…あの時、木下と争った時に床に落ちた…血を…」
半助の唇がワナワナと震えた。
「まさか…舐めたのか!」
伝蔵の激しい口調に、半助は認めざろう得なかった。
「なんて事を…!」
ダンッ!
伝蔵は、ギリギリと握りしめた拳をテーブルに叩き付けた。

しばしの沈黙。
しかし伝蔵は、唐突に半助に駆け寄ると、その腕を掴んだ。
「何を…?!」
「わしの精気なら…まだ」
「え?っ…あぁぁぁ…っ!」
伝蔵に掴まれた腕に、引きちぎられる様な激痛が走った。
「な…うぅ…っぐっ…!」
伝蔵は、半助の腕をさするようにしているだけなのに、断続的に激痛が走る。
「や…止、めて…」
伝蔵は、半助の腕を肩から手先の方へと搾るような仕草をする。
「ひぃぃ…うっ、痛っ…っ!」
目の前で、半助の指先に、傷もないのに血が滲む。
それが小さな玉になろうとした時。
伝蔵のしようとしている事が、天恵の様に分かった。
あの時…
あの時、舐めた血を絞り出そうとしている!?
「だ、駄目……っ!」
半助の何処にそんな力があったのか?
伝蔵の拘束から抜け出すと、半助は、守るように両腕を抱えた。
「半助っ!」
伝蔵も脂汗が浮いていた。
半助の血肉に溶けた自分の精気を血液の形にするのは、余程の力が必要だったのだ。
「半助!」
「嫌です。私のモノです…あの血は!山田先生の…山田先生のくれた…私の…誰にもあげない!」
半助は、混乱していた。
人としての幸せを…大切に思ってくれるのは、涙が出る程に嬉しかった。
でも、自分から伝蔵の痕跡を奪うのは…
例え、伝蔵本人でも、許せない!
半助は、身体の震えが止まらなかった。
僅かながらに抜き取られた伝蔵の血液=精気は、半助の一部になっていたもの。
それを一方的に取り上げられたのだ。
半助の身体に掛かった負担は、伝蔵の目から見ても明らかだった。
「半助…」
伝蔵の思いも寄らない所で、自分の血が…半助を【果実(デセール)】にしてしまった。
その事で頭に血が昇ったのだ。
こんな風に合意もなく、精気を取り上げれば、半助の命に関わることを失念していた。
伝蔵は、自分のやっている事が信じられない思いだった。
ただ、今分かるのは…お互いが、冷静になることが重要だという事。
それには、時間が必要だった。

「今夜一晩…時間をやる。よく考えてくれ。」
伝蔵は、半助にそう告げると、半助を車で病院まで送った。
体力の落ちた半助には、月氏流の移動に耐えられそうになかったからだ。
病院の前で車を止めると、半助は、来た時の激情が嘘の様に言われるがまま、病院に戻っていった。
その後ろ姿に、伝蔵は安心する。
伝蔵は、半助が病院に入るのを確認することなく、車を発車させた。

よく考えるのは…己もだ。
伝蔵は自嘲した。
…土井半助。
この人に関わると冷静で居られなくなる。
初めて、人に関わった…惹かれたのだ。
初めて…。
その相手を、自分が…人の道から外してしまった。
しかも…
まだ…『血の契約』は、完全に成立していないのだ。

人としても、果実としても中途半端。
この状態がよくない事は、頭では十分に理解している。
しかし…
果実(デセール)】についての、利吉の言葉が蘇る。

運良く【果実】を手にしたら、みんなで分け合う。それが普通だって!

未だに根深い【果実】に対する侮蔑。
半助を、そこに落とすのが嫌なのだ。
「覚悟が必要だな…」
伝蔵は独りごちた。


しかし…
伝蔵は、自分の考えに沈み込んで…気付けなかった。
半助が病院には戻らなかった事を。

否、正しくは戻れなかった事を…。





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