伝蔵は、一心に半助を追っていた。
それ以外の事一切が頭の中から消えていた。
利吉は、空調を止めると、伝蔵が締めた窓を全開にする。
なるべく遮断物が無い方が、生物の気配は追いやすいのだ。
それを失念する程に、伝蔵が必死になっているのが利吉にヒシヒシと伝わってきた。
僅かばかりの風に乗って、湿った熱気が室内に入って来る。
しかし、伝蔵の周りはキンと冷えた空気が取り巻いているようで、利吉にでさえ近寄る事が憚られた。
「……っ!」
伝蔵は、忌々しげに舌打ちすると、身体をブルリと震わす。
すると、伝蔵の背中から、隆々とした翼が姿を現した。
月氏が人に紛れようとする時、一番の邪魔になるのが…この翼。
僅かながらも、そこに力を使い、翼を見えない様に人型に化けているのだ。
その、ほんの僅かばかりの能力さえも半助を追うことに費やす為…裏を返せば、そこまでしなければ、追うことが出来ないという事だ。
「…父上」
不意に、伝蔵の周りの空間が歪む。
移動しようというのだ。
ゆるりと闇が濃さを増し、溶ける。
利吉に半助を追うことは不可能だ。
但し、あれ程の気を張った父ならば、手に取るように分かる。
今は、それを追うだけだった。
伝蔵は、利吉が半助を連れ出した病院の前に居た。
恐らく、ここまで見送ったのだろう。
少しでも、半助の足取りを追おうという事だ。
正面玄関の方を睥睨していたかと思うと、別の方向に向かって、ゆっくりと歩き出す。
伝蔵が向かう先にあるのは、皓々と明かりが付いた、救急医療用と書かれた入り口。
伝蔵は、入り口の近くの自動販売機に目を留めた。
そこに…大量の煙草の吸い殻が落ちていた。
「ここで、待ち伏せされたようだ…」
伝蔵は、ぽつりと呟くと、拳を握り締め、自動販売機の側面に叩き付けた。
哀れにも側面から破壊された機械が、チカチカと電灯を点滅させる。
それは、伝蔵の心を現すようだった。
そんな父の姿に、利吉は伝蔵の怒りを改めて思い知る。
「車か…」
自動販売機のすぐ近くに、急発進したようなタイヤ痕が残っていた。
車で連れ去られたなら、捜索範囲を広げなければならない。
逆を返せば、それまで伝蔵の感覚網に引っ掛からなかったのは、捜索範囲が狭すぎた為。
今まで発見出来なかった理にかなう。
車で連れ去る…など、まともな行動では無い。
半助に恨みがあるか…
やはり…あの声は、気のせいなどではなかったのだ。
改めて、伝蔵は確信した。
必ず見付ける。
伝蔵は、そのタイヤ痕の上に立って、再び集中する。
髪の毛ほどの僅かな糸を手繰るような作業。
それでも、半助は自分の血を受け入れた者だ。
他の誰とも違う……ただ独りの存在。
伝蔵に、分からない筈がない。
そして…
ほんの一瞬であったようにも、永遠にも感じる時。
「…半助!」
伝蔵が、カッと目を見開いた。
そして…
再びその姿を消した。
伝蔵が飛び込んだのは、妙に豪華な部屋の様ような、事務所のような場所だった。
「な…なんだ、てめぇは?!」
第一声は、怒号だった。
「カチコミかぁ!?」
すぐに、ハチの巣をつついたような大騒ぎになる。
明らかに柄の悪い連中がたむろしていた。
待ち伏せし、人を連れ去る乱暴なことをするのに相応しい連中。
伝蔵本来の姿を見ても、恐れることを知らない愚かな人間。
それでいて己を強者だと信じて疑わないのだ。
…身の程知らずにも程がある。
「このコスプレ野郎が〜っ!」
近くに居た男が、木刀を手に襲いかかってくる。
伝蔵は、それを軽くいなして振り払う。
「うわーっ!」
男は派手に飛んで、仲間もろとも壁に叩き付けられた。
伝蔵にとっては、目の前の虫を払った程度の事。
しかし、周囲の男達は、状況の異常さをやっと理解した。
何の前触れもなく、室内に現れた異形の者。
「半助は…何処だ」
伝蔵が、初めて発した言葉…それは地を這うような声だった。
そこには、確かに半助の気配があった。
間違いなく…此処に、半助は居た。
「半助は…何処だ」
冷静な声だっただけに、男達は震え上がった。
普通の感覚を持っていれば、その圧倒的な威圧感に刃向かう事など思いも寄らないだろう。
しかし、そこに居たのは、暴力を生業とする男達。
「こ…この化け物っ!」
後ろに控えていた男が、急に立ちあがる。
その手には拳銃が構えられていた。
ドンドンッ…と鈍く銃声が響く。
しかし、
血飛沫を上げて、倒れる筈の伝蔵は、そのまま姿勢も変えずに立っている。
それどころか、握った拳を前に突き出し、ゆっくりと開くと、チャラチャラ…とフローリングが金属音を立てた。
それは、放った銃弾。
「半助は…何処だ」
伝蔵は、念を押すように問う。
「ヒィーーッ!化け物だぁ〜っ!」
やっと事態を飲み込めた者の口々から悲鳴が上がり、男達が逃げ出した。
「逃げるな!」
銃を構えていた男は、そう叫びながら何度も引き金を引いたが、伝蔵に通用する訳もなかった。
そのまま、じりじりと追い詰められる。
「半助は…何処だ」
怯えを顔面に張り付けたまま、それでも男は強情だった。
伝蔵は何の感慨もなく、銃を握ったままの腕を捻り上げる。
ボキリと嫌な音が響き、男の腕は有り得ない方向に曲がった。
「うわあぁぁーーっ!!」
普段の伝蔵からは考えられない行為だった。
「その人、逆上してるから、知ってる事は言った方が良いよ…」
いつの間にか、利吉も伝蔵に追いついていた利吉は、自らの目を疑った。
およそ伝蔵らしくなかった。
それ程に…。
伝蔵をここまで怒らせた人間共だ。
利吉は、逃げだそうとしていた連中も、逃がすつもりはなかった。
とうに結界を張って、どう足掻いても、この建物の中から出る事は出来ないようにしてある。パニック状態のまま、体力の限界まで逃げ回って、勝手に力尽きるが良い。
「うぅぅ…」
男は口を割る様子は無かったが、腕を捻り上げられたまま、一瞬、奥のドアに目をやった。
それを伝蔵が見過ごすはずはなく…。
「そこか…」
伝蔵は、無造作に男を投げ捨て、ドアに向かう。
利吉も後に続いた。
ドアを開けると地下に続く階段が続いていた。防音の為か、妙に重たいドアだった。
「父上!」
「あぁ…」
利吉にも分かる程に、半助の…香りがした。
急いで階段を駆け下りる。
一つ目の部屋から奥の部屋へと、ほんの僅かだが、点々と血の跡が続いている。
間違いなく…半助の血だった。
伝蔵は、何の躊躇もなく、その部屋へと踏み込んだ。
「……うっ!」
ドアを開けた瞬間、部屋から吹き出すように、果実の芳香が溢れた。
伝蔵は、思い返す。
半助から、自分の血を抜いたのだ。
芳香はかなり薄れていた筈…?
それが…目が痛くなる程の香りが部屋に充満していた。
香りの元はすぐに分かった。
半助が…。
ベットの上で、ぐったりと横たわっている。
そのベットのシーツは……真っ赤だった。
「は…半助っ!」
伝蔵が半助に駆け寄ろうとすると、視界に邪魔が入る。
半助の他に、部屋の中に居た2人の人間。
1人は着衣を、1人は全裸で、その下肢を血だらけにしていた。
半助の血だ。
伝蔵は、それを見た瞬間、血が沸騰するような気がした。
沸き立った血が、全身を駆けめぐる。
しかし、今はそんな事より…半助だ。
「なんだ、てめぇは!」
手前に居た男は、半助に近付こうとする伝蔵達に気付くと、懐から銃を取り出そうと手を伸ばす。
しかし、それより早く利吉がその男に飛びつき、吹っ飛ばす。
「…邪魔するんじゃないよ」
壁に叩き付けられた男は、ガクリと意識を失った。
伝蔵は、それを無視して、半助の居るベットへと駆け寄った。
「半助っ!」
改めて、その状況に、ギリ…と音が聞こえる程に、歯ぎしりする。
「なんだ…お前達は…」
優秀である筈の部下を足蹴にされ、下肢を血に濡らしたままの男は呆然と、問わずにはいられなかったように、呟く。
伝蔵には、その男が…半助に手を掛けたであろう事は、すぐに分かった。
男の身体から、半助の芳香が匂い立っていたから…。
「貴様…貴様だけは、許さんからな…」
伝蔵は、男を一瞥する。
容赦の無い殺意に晒され、男は、ヒ…と声にならない悲鳴を上げ、腰を抜かした。
伝蔵は、半助に意識を戻す。
「…半助」
酷い有様だった。
乱暴に晒されていない部分が見あたらない程、あちこちが腫れ上がり、出血していた。
ベットの端から足を投げ出すような格好で、しどけなく開かれた下肢は、伝蔵の想像を超えていた。
人が…ここまでの事をするとは思えなかった。
「は…半助…?」
全身に渡る傷をなるべく刺激しないように、伝蔵は半助を抱いた。
それだけのことで、下肢の間から、新たに血が滴る。
「半助、聞こえるか?」
支えてやらなければ、首がガクリと落ちる。
完全に意識を失っていた。
伝蔵は、血に汚れたシーツを剥ぎ取ると、清潔なベットの上に半助を横たえる。
恭しく下肢を開かせると、見るも無惨なソコに、伝蔵はゆっくりと唇を寄せた。
人間によって汚された、壊された部分を…
なるべく刺激を与えないように、優しく。
…舌での慰撫。
それは、半助の外傷を綺麗に治していく。
あれ程、遠ざけ続けた半助の血は、伝蔵の舌の上で甘くとろけた。
胸に、じんわりとエネルギーが広がるようだった。
「これだけの事を…」
伝蔵がぽつりと呟く。
…これだけの事を、己の迷いから、先延ばしにした為に、半助がこんな目にあったのだ。
粗方の怪我を治したが、半助の顔色は土気色のまま。
「半助……目を開けてくれ!」
祈るように、名前を呼んでも、なんの反応もなかった。
月氏の力を持ってしても、精気の流れが…殆ど見えなかった。
このままでは、確実に死が待っているだろう事はすぐに分かった。
伝蔵は、呆然としてしまった。
半助が…死ぬ?
この世から、居なくなる?
ブルブルと身体が震えてくる。
それだけは、認められない…認めたくない。
半助を救うには…?
伝蔵は、自分の指を噛み切ると、それを半助の口元に寄せる。
こうする以外に方法は無いと思えた。
「父上!?」
利吉には、ただ見詰めることしか出来なかった。
近寄りがたい空気が、そこにはあった。
伝蔵と半助…2人だけの世界。
伝蔵がしているのは、【血の契約】だった。
半助との間には、まだ完全に結ばれてはいなかった…契約。
それを今、結ぼうとしていた。
【血の契約】は…
まず、人間が月氏の精気を受け入れる。
半助は、ここまでしか済ませていない中途半端な状態だった。
しかし、この段階で大抵の人間は息絶える。
月氏の精気を受け入れるというのは、人間にとって生半可な事ではないのだ。
半助は、そこを乗り越えた人間。
後は、簡単な事だった。
半助が受け入れ熟成させた精気を、伝蔵が搾取し、再び新たな精気を与える。
……それで、【血の契約】は成立する。
半助の治療の際、傷に口付けた事で、伝蔵は半助の精気を受け入れた。
今度は、伝蔵から改めて、精気を与えるのだ。
方法は色々あるが、血液を媒介にするのが、最も充実した気を与える事が出来る。
半助の口腔に滴った伝蔵の血は、ゆるやかに半助に吸収された。
土気色をしていた半助の頬に、ほんのり赤みが戻った。
優しく身体を抱き締めてやると、大量出血に冷え切っていたのが、心無し温まってきた様な気がする。
果実は、人間より生命力が強い。
今は、それに賭けるしかなかった。
「半助。これで、お前は…わしの、わしだけの【果実】だ」