血の連鎖

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20・揺籃(ようらん)

(………ここは…天国?)
半助は、ぼんやりと思う。

五感はおろか、天地の感覚も無かった。
確かに、自分のものだったはずの身体が…そこにある事は感じる。
ただし動かし方を忘れてしまったようで、実感が伴わなかった。
まるで魂だけが、肉体から解離してしまったかのように…。

死んだのだと思った。
何故だかは……もう思い出せないが、それだけは心に焼き付いていた。
自分は死んだ筈だ…と。
死んだ後、何処に行くのか…そんな事を考えた事は無かった。
ただ…漠然と【無に帰する】のだと思っていた。
父も、母も…皆、無に帰したのだと。
だから、悲しむことも嘆くことも止めたのだ。
どんなに祈っても、悲しんでも…それは、自己欺瞞にしか過ぎない。
どんな風に生きたとしても、最期に全ては無に帰すと思えば、何処か…楽だった。
なのに…死んだ筈なのに、土井半助と認識する自分が居た。
自分は、死んだのではないのか?
それとも、死んだとしても…まだ、土井半助として居続けなければならないのか?
半助は、酷く落胆していた。

しかし
…不思議と不快ではなかった。
それが、今居る場所のお陰だと分かる。
瞼一つ満足に動かすことも出来ない状態だったが、其処が、ぼんやりと明るい空間だと分かる。
液体の様でいて、気体の様なものに包まれた、閉鎖的なようで茫洋とした空間。
其処は、その曖昧さに反して、奇妙な程に心地良い場所だった。
まるで、揺りかごで揺られているかのように…。
半助は、心の底から安らいでいた。
このまま何もかも忘れて、いつまでも微睡んでいたいような…。
既に、どれ程の時をそうしていたのか?
とうに時間の感覚を失っていた半助に、それを計り知ることは出来なかった。

そこに、一滴。

ポタリ…と。
驚くほどに熱を持ったものが落ち、波紋を広げた。

また一滴。
それは、次々と滴り落ち、穏やかだった空間を波立たせ、掻き混ぜる。

このままで、いさせて欲しかった。
熱に触れてしまうと、そこがいかに『ぬるま湯』の様だったのかを、自覚させられるから…。
どんなに心地良くとも…ぬるま湯の中に、長い間は居られない。
そこに甘んじては居られないのだ。
風邪を引くことを覚悟して、自らを外気に曝されなければ、次には進めない。
しかし、次々と注がれ続ける熱。
それは半助の周りの空間全部を煮立たせんばかりに、諦めることなく与えられる。
その熱が、半助の中にも染み入るようだった。

その熱の正体を…半助は知っていた。

今まで、半助を守っていてくれた空間と、その本質は変わらない。
元々、それはエネルギーに満ちているのに、半助自身が目を反らしていた。
無意識に、触れないようにしていた。
これ程までに、自分に向けられたものから…。
何処か、信じられないでいた。
それは、自分自身への不信。
見返りを求めないのではなく、求められなかった。
取るに足らない自分が、あの人に……何かを求めるなんて出来ないと、何処かで思っていた。
どんなに嬉しい言葉を掛けられても、それは…大らかな心の欠片。
自分は、それに縋り付くのが精一杯だ…と。

半助は、自分の瞳から涙が零れている事に気が付いた。

何て事はない…信じていなかったのだ。
自分も信じられないのに、そんな自分を大切に思ってくれる存在があるなんて…。
母親にさえ、心からの抱擁を受けた記憶が無い。
母親が子供を愛するのは、本能ではないのか?
しかし、半助は母親が欠陥品だったなどとは…とても思えなかった。
自分が、その本能に値しない子供だったのだと盲信した。
だから、愛されようと努力した。し続けた。
その想いは、血を分けた母にさえ通じる事はなかったが…。

そんな自分に与えられる…熱の正体。
それは…自分に向けられた想いだ。
無償の…愛情。
信じられる筈がなかった。
しかも…それが、あんな…印象的な存在感のある人から…だなんて。
人…ではなかったが、益々自分などを相手にしてくれる訳がない。
一方通行で当然だと思っていたものを…。
あの人の瞳が自分に向けられるなんて。
そんな事があるとしたら…それは、まさに奇跡。
でも…
半助は、その奇跡を…信じたかった。
伝わってくる優しさ、気持ちは…本物だから。

「泣くな…半助」

声が聞こえる。
(あの人の…山田先生の声?)
そうか…これが未練って事か?
半助は、よくテレビでやっていた安物の心霊特集を思い出す。
未練があって、成仏出来ないという事か…。
(山田先生…の、ことだけが心残り…)

つい、と頬に触れる感触が蘇る。

誰かが…涙を拭っている。
誰が?

自分が何処にいるのかと…ゾッとした。
安心しきっていたが、実は、死んだと思った現場にいるのか?
半助は、自分の死に様を思い出そうとしたが、霧が掛かったように、どうしても思い出せなかった。
記憶の代わりに、何とも言えない感情が蘇る。
―後悔。絶望。例えようのない程の、悲しみ。
孤独に死んだのだろう…と思うのだ。
しかし、半助の頬を撫でる手はあくまで優しかった。

(…誰?)
半助は、感触を探る。
自分に、こんなに優しく触れる人。
欲に満ちた…いやらしい愛撫なら、いくらでも思い出せたが…。
母にさえ、こんな風に撫でてもらったことはない。

「半助…」

自分を呼ぶ声。

心に染みる、その声の主を知っていた。
でも……認めるのが、怖い。
違っていたら、その程度の想いだったのかと言われそうで…。

「半助…目を開けてくれ」

なんでだろう?
今まで、聞いた事のない程に…弱々しい声色だ。
そんなの、あなたらしくない。

「お前が、お前が居ないと、駄目だ」

そんな台詞…。
益々幻聴のように思えてくる。

「戻って来い。それとも、もう…わしの所へは、戻ってきたくないのか?」

(そんな、そんな事ない!)
半助は思う。
いつでも、いつだって…心はあなたの所に。
ぎゅっと込められた力で、半助は自分の手が、しっかりと握られている事に気が付いた。
それをきっかけに、触覚が蘇る。
自分は、抱かれているのだ。
(…心地いい筈だ。)


自分に向けられているものから、視線を逸らさない。
今までは、一方的に愛していると言いながら、受け入れる事は信じなかった。
出来ないというのは、ただの傲慢。
勇気が無かっただけだ。
「ゃ…山田、せん…せ…」
掠れた声しか出せなかったが、半助は、ぬるま湯から飛び出した。
そこに寒さなど、欠片も無かった。


「半助!聞こえるのか?半助!」

(何で…そんなに必死なんですか?)
呼びかける、伝蔵の顔が見たいと思ったら、あれ程重たかった瞼が震えながら上がる。
一番、見たいと望んだ人が…そこにいた。
山田伝蔵。
(酷くやつれて見えるのは…どうして?)
原因を探ろうと視線を落とした瞬間、半助は信じられないモノを見た。
握られている半助の手に、ポッカリと穴が空いている。
物理的なモノではない。
感じるのだ。
同じ穴が伝蔵の手にも空いていて、それはピタリと重なっている。
元々、死にかけた【果実】の半助と、【月氏】である伝蔵。
…精気の質・量の違いは、圧倒的だった。
高いところから低い所へ水が流れるように、凄い勢いで伝蔵の精気が半助に流れ込んでいた。

「や、山田、先生っ!」
顔色が悪い筈だ。
自覚してしまえば、身体は難なく動く。
今まで感じた事のない力(…それが精気なのだろうか?)が満ちていた。
「…離して…はな…して…」
半助は、手を放そうとしたが、真空が引き合うように微動だにしなかった。
精気は、生きるエネルギー。
それが、伝蔵から半助へと、まるで無尽蔵に流れていく。
(いつから…いつから、こうしていたのか?)

あの、注がれ続けた熱は…伝蔵の命だったのだ。

「せんせい、死んじゃう…」
あまりの事に、半助は震えが止まらない。
伝蔵は…何をしたのか?
「大丈夫だ。半助…戻って来てくれて、嬉しいよ」
半助は、伝蔵を見詰める。
「お前は、わしを捕まえるのに、何度も命を掛けてくれた。今度は…わしの番だ。まず…お前を、死神の所から連れ戻すのには、成功したようだ」
やはり、こんな無茶は…自分の為にしていることなのだ。
(自分を犠牲に?)
半助の顔から血の気が引く。
この会話をしている間にも、精気は伝蔵の身体から失われているのだ。
伝蔵は、クスリと笑った。
半助の考えている事は、丸見えだ。
「舐めるな、こんな事くらいじゃ…わしは死なん。」
伝蔵は、真っ青になってしまった半助の唇に、そっと口付けた。
「もう、お前を手放す気はないから…お前をわしのモノにすることにした。」
伝蔵のキスを受けた唇は、ほんのりと潤んで色付いていた。
「山田先生の【果実】に…して頂けるんですか?」
伝蔵が半助を救う為に、【血の契約】を済ませたことを、半助は…まだ知らなかった。
「そんな、一方的な繋がりでは我慢出来んから、お前を仲間にする。」
「…仲間?」
「あぁ…お前を【月氏】として招き入れる。これは…その為に越えなければならん試練だ。勝手に決めて悪いが、半助も勝手に【果実】になったんだから、おあいこだ。」
「そんな…」
「もう始めてしまった事だ。最後まで…付き合ってもらうぞ、半助」
半助は思わず、折角艶めいた唇をグッと噛んだ。
涙が出るほど嬉しいのに、自分の口から、それ以上の後ろめたい感情が…酷い言葉になって飛び出してしまいそうだったから…。
伝蔵は、それをほどくように、再度口付けた。
痛い程の愛情が伝わってくるキスだった。
頑なな心がとろけるようだった。

「山田先生…ひとつだけ、聞いても良いですか?」
質問を促す優しい瞳。
「利吉さんの、お母様は……」
伝蔵の奥様は?…とは聞けなかった。
小さな棘の様に、心に引っ掛かっていた疑問。
あんな大きな息子が居るという事は、結婚しているという事で…。
しかし、半助は、最後まで質問を言葉にすることが出来なかった。
ところが…伝蔵は、半助の神妙な表情に、ははは…と声を上げて笑う。
予想外の反応に、必死の覚悟で質問した半助は悲しくなった。
「ひ…酷いです」
「スマン。何を聞くのかと思ったら…大丈夫だ。【月氏】は人と違って、子を成すのに母体を必要とはしない。利吉は、わし1人で生み育てた子供だ。」
「ひ、1人…で、生んだ??」
伝蔵の言葉に、半助は伝蔵の笑いの意味を理解する。
人と、月氏とでは…違うことが沢山あるようだ。
(でも山田先生に…奥さんは、居ないんだ。)
あからさまに安堵の顔をする半助。
伝蔵は、コホン…と咳払いをすると、一転真顔になった。

「わしは、複数の相手に…あー、こうしてだな、誓いを立てられる程、器用じゃない」
ギュッと、穴の空いた手に力を込める。
「半助。うんと愛してやるから、【月氏】になって…共に生きていこう。」
伝蔵の目の前で、半助は口元を微妙に歪めて言う。
「そんな台詞、まるで…まるで、プロポーズみたいですヨ」
「そのつもりに決まってるだろう…半助。」
素直に喜べない半助を愛しいと思う。
その言葉に、半助はやっと破顔した。
「私は、ずっと前から…山田先生だけのモノでしたが、山田先生にそんな言葉を言ってもらえる日が来るとは…思わなかった」
伝蔵は、笑顔が見たかったのに、また半助は泣いてしまった。
「独占しても良いですか?あなたを…」
あぁ…と返事をしてやると、半助は派手に涙を零す。
今までと違う涙は、舌に乗せると甘かった。

涙が尽きる頃
半助は、やっと勇気を持って言葉に出来た。
「はい。私も、山田先生とずっと…ずっと一緒に生きていきたいです。」

伝蔵は、半助の言葉を聞くと、安心したように意識を失った。


自分に流れ込む精気は、とても楽観視出来る状態では無い。
しかし、伝蔵が言ったのだ。
―こんな事くらいじゃ…わしは死なん…と。
その言葉は、呆気ないくらい簡単に信じられた。

生きていくのだから…2人で。

半助は、魂が震えるようだった。
何もないように思われた自分に、ほんの少し…自信が持てそうだ。
(山田先生に…愛されている)
自らに訪れた福音に目も眩みそうだった。

半助は、自分のパートナーとなった伝蔵を、いつまでも見詰め続けた。
やっぱり…凄い奇跡だ、と。




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