「それは…半助には、言うな!」
ハッキリと届いた声で半助は目覚めた。
それは伝蔵の声だった。
声は遠く…部屋の外から聞こえた。
無意識に、ベッドの隣…伝蔵が眠っていた辺りに手を伸ばす。
そこは、まだ温かく、伝蔵の温もりを残していた。
昨夜は、これ以上ない程の幸福感と、充足の中で眠りに落ちたと言うのに…。
(もう少し…早く目が覚めていたら、山田先生の顔を一番に見られた…かな)
ベッドから抜け出した伝蔵に、全く気付くことなく眠りこけていた自分に、半助はふぅ…と溜息を一つ。
(明日は、早起きしよう…)
半助は、小さな決意をしていた。
室外に意識を戻すと、伝蔵は誰かと会話していた。
相手は…それが、人ではないのはすぐに分かる。
伝蔵とは違う、熱い存在感。
今まで、こんな風に感じたことがなかった半助は、自分が人とは違うものになってしまったのだな…と思う。それに対して、後悔は全く無いけれど…。
伝蔵が、誰かと…半助の事について話している様だった。
(何を、言うなって…私に?)
半助は、不意に思い出した。
ここは、伝蔵の家だ。
その家に居て当然の…伝蔵の息子――山田利吉の存在。
彼と、伝蔵の間には…半助が入り込めない、家族ならではの深い絆がある。
これから…利吉とは、ずっと付き合っていかなければならない筈だ。
しかし、半助は目覚めてから、全くその気配を感じなかった。
今、別の月氏の存在を目で見る様にハッキリと感じ取れる事で、その不在という違和感に気が付いた。
(きっと、あの……利吉、さんだ)
利吉の冴え冴えと整った美しい貌を思い出すと、同時に…初対面の時のピリピリとした緊張感を思い出す。加えられた苦痛と、恐怖。食事の対象にされたことだけではない。
半助は、自らの唇に触れていた。
そう……有無を言わさず、伝蔵の前で…キスされたのだ。その記憶は消せぬ汚点として、半助の上に、くっきりと残されていた。
…とは言え、これからの事を考えたら、逢わない訳にはいかないのだ。
半助は、すぐに起き上がり、声の方に向かおうとした。
「あ…っ」
しかし、ハラリと上掛けが落ちた瞬間、自分が何も着ていない事に気付いた。
それ以上に目を惹いたのが、己の身体中…所かまわず付いている、朱い、鬱血の跡。
(わ…っ!)
半助は慌てて目を反らした。
つい昨夜のことを思い出し、半助は赤面した。
(山田先生、こんなに、跡付けて…)
半助には、それら全てが…伝蔵の所有の印に見えた。
独り照れる半助だったが、内心、震えが走る程に…嬉しかった。
身体も…身動ぐ度に、下肢に甘い痛み…まだそこに伝蔵がいる様な、熱が残っているような感覚がある。
全てが、昨夜の事が夢ではなかった証拠なのだ。
しかし、不快感は全くなかった。
(山田先生が、後始末を…してくれたのだろうか?)
元々受け入れるように出来ていない男の身体は、こうして使うには、不便に出来ている。
それ以外考えられないのだが…半助は益々赤面した。
(自分の身体見て…こんなに動揺して、どうする)
半助は、深呼吸を繰り返した。
冷静さを取り戻すにつれ、不思議な感覚を自覚する。
こんな朝は…消耗していてもおかしくない筈なのに、身体中に力が漲っている様な気がするのだ。
いつもより深い意識の、またその奥に…
それは、心地よい感覚だった。
足腰が立たない事も考えられたが、ソロソロと床に足を下ろすと、羽根が生えたかの様に軽い。
(うわぁ…っ)
それだけ伝蔵が優しく愛してくれたという事で…半助は、三度顔を赤らめる。
「こんな…こと、してる場合じゃない」
半助は、ぽつりと呟くと、身支度を始める。
本当は、シャワーを浴びたい所だったが…。
脱ぎ捨てた服は、伝蔵の服の下で一緒にくしゃくしゃになっていたが、今…半助が自由に出来る服は、それだけ。
借り物のパジャマは、かなりサイズが大きい。あまり知られたくないことだか、半助の服は全てSサイズなのだ。迂闊に海外旅行土産のTシャツなど着ようものなら、「パパのお洋服、借りちゃいました」状態になってしまう。
全体的なバランスのせいか、平均で通っているが、こんな時…自分の軟弱さを思い知る羽目になる。
それでも、仕方なく袖を通す。
目に付いた鏡で、一応髪の毛もチェックして、元々癖毛なので一見寝癖と区別が付かないが、目に余る程、酷い見てくれではない…と自分に言い聞かせた。
ドアまで近付くと、2人がまだ言い合いをしている事が分かった。
(もし、私のことで喧嘩をしているなら、止めた方が良いよな…)
半助は、ゆっくりと少し開いていた扉を開いた。
「山田先生…おはようご…」
控え目に微笑んで声を掛けた半助は、伝蔵の話相手が見たこともない月氏だった事に驚き、絶句した。
「半助っ!」
伝蔵も、話しに夢中だったのか、突然パジャマ姿で現れた半助に声を上げる。
「おぉ〜っ!おはよう、半助。今日は意識、ハッキリしているようだな」
伝蔵と話していた相手は、半助を見知っているようで、馴れ馴れしく手を伸ばしてくる。
それを、叩き落としたのは、伝蔵の手だった。
「痛ぇ…っ!」
男は、さして痛そうではないのに、派手に痛がって見せた。
「半助に、触るんじゃない…」
「そんな風に、独り占めしなくてもいいんじゃないのか?伝さん。大切なのは分かるけど…」
そんな風に言いながら、ニヤニヤと半助の方を覗き込む。
「雅之助!」
伝蔵は、雅之助に食って掛かろうとしたが、半助は必死にそれを宥めた。
「山田先生…失礼しました。私、てっきり利吉、さんかと…」
「あぁ、良い。部屋に戻って、まだ休んでいろ。まだ本調子じゃないんだからな」
半助に意識を移した伝蔵は、甲斐甲斐しく半助の心配をする。
男はそれを物珍しそうに眺めていたが、半助を再び部屋に促そうとする伝蔵を遮った。
「紹介してくれてもいいんじゃないか?」
「…知ってるだろ」
「違う違う。わしをこの子にだヨ。不安そうな顔してるぜぇ〜半助。」
伝蔵は、2人の顔を見比べた後、はぁ〜と息を吐き、男を紹介した。
「……大木雅之助だ。商人をしている。」
「ヨロシクなぁ〜半助。」
「勝手に、呼び捨てにするんじゃない」
「いいだろぅ〜減るモンじゃなし」
伝蔵は、調子に乗るな!と雅之助をジロリと睨んだ。
雅之助は、大袈裟に両手を上げて、降参の姿勢。
「土井…半助です。」
半助は、伝蔵の影に隠れるように、雅之助を見た。
「知ってる、知ってる…目に入れても痛くない、伝さんの【華燭の典】のお相手♪」
それが本当に自分の事なのかと…半助は不思議な気がする。
初対面な筈のに…何故か、雅之助は半助を見知っている様だし。
【華燭の典】?
何だか、妙に引っ掛かる単語だった。
それに…
伝蔵・利吉に続いて、3人目の【月氏】である。
伝蔵や利吉はクールな印象があるが、雅之助は、砕けた印象で、太陽のようにガハハ…と笑う。それでいて、内に秘めたオーラは隠しきれないようで、半助の肌をピリリと刺激した。
「利吉だったら…今頃、宝石堀りだぞ」
「宝石堀り?」
質問は伝蔵。
「あいつ、わしのマリーにキャットフードなんぞ喰わせやがって…」
「あぁ、それは…すまんな」
口では詫びているが、伝蔵は笑っていた。
「マリー?…キャットフード?」
「あぁ、こいつは…自分の飼っている蝙蝠に、外国女の名前を付ける悪趣味男だ。」
「蝙蝠?」
半助は、吸血鬼のペットのイメージが強い蝙蝠を、月氏も飼ってるんだ…と感心していた。
「蝙蝠は我々と相性が良くてな…それに、彼らには、特殊な能力が有る。人は、彼らの言葉を、超音波と、暗闇で飛ぶための目の代わりのセンサーとしか解析出来ないが、それは人の身勝手な決め付けだ。今なら、半助にも…彼らの声が聞こえると思うぞ」
「そうなんですか?」
伝蔵の何気ない言葉が、半助には嬉しかった。
「悪趣味は余計だ、伝さん。マリーは、利吉に喰わされたキャットフードのせいで、能力が消えかけちまってな。責任取ってもらうのに…今、新しい宝石を取りにやってるんだ」
雅之助は、半助にも分かるよう、ゆっくりと話してくれているように思う。
「宝石?」
「利吉には、まだ【結晶】は作れんから…宝石には、力があってな…まぁ、その辺りは追々説明してやるから、今は…身体を休めてくれないか?」
「あ…」
半助は、自分が心配されているという事を忘れていた。
実際、それほど気分は悪くない。伝蔵が過保護なのだ。
「でも、私…大丈夫です。もう、どこもおかしい所は無い…」
「ほらな!だから、自覚させた方が良いって言ってるんだっての。」
半助の言葉を遮るように、雅之助が口を挟む。
「わしが、良いと言っているんだから、良いだろう…」
ずっとこの押し問答をしてきたのか…伝蔵の口調は、疲労を帯びていた。
「【華燭の典】の事も、ろくに説明してやってないんだろう…」
そこまで言って、雅之助は、何気なく見ていた視線を止め、じっと半助を眺める。
「まぁ、新婚さんには…会話をしている暇も無いって事だろうけどな」
つい…と手を伸ばして、半助のパジャマの衿に指を掛ける。
「わ…っ!」
余裕のある布地をずらせば、そこには目にも鮮やかなキスマーク。
半助には、そこに跡があるかどうか分からないが、雅之助の顔を見れば分かる。
「雅之助!真面目に話していると思ったら…貴様!スマン、半助…油断した」
すぐに、その手は伝蔵によって振り払われ、再び半助の身体は伝蔵の背に匿われる形になった。
半助は、伝蔵の背後で、パジャマの衿を両手で掴んだまま、身体を縮こまらせていた。
雅之助に、からかわれていることは…分かる。
伝蔵の受け答えからも、雅之助のキャラクターはそんな所だろう。
しかし…
半助は、居たたまれなくなった。
自分の事で…伝蔵が馬鹿にされているような気がするのだ。
そうでなければ、ここまで伝蔵が言われる事はないのでは?…と。
ざわざわ…と、胸の奥がさざめく。
「あ…っ」
違う、胸ではない…これは、先程感じた、もっと奥深い所が。
「半助?」
突然声を上げた半助。
伝蔵が何事かと振り返り、半助の両肩を掴むと、その顔を覗き込んだ。
「や、山田先生、なんでしょう…胸が」
(違う!胸では無い。もっと奥…あの)
半助は、ぶるぶると震えだした。
「半助!どうした?」
「どうしたヨ…半助?」
雅之助が、伝蔵の背中越しに声を掛けてくる。
それが…堪らなく不愉快だった。
「…呼ばない…で、下さい」
先程、あれ程凪いでいたものが、ざわめく。
「半助…落ち着け。」
「…山田先生」
今にも…吹き出しそうだった。
それが、何かは分からないが…それは良くない事なのだろう。
「半助、わしを見るんだ。息を深く付いて…」
「せ、先生…」
目の前の伝蔵は、優しく微笑んでいて、大丈夫だと繰り返す。
伝蔵に意識を集中していれば、不思議と落ち着いてくる。
「半助、楽にしているんだ…」
伝蔵の胸に抱き寄せられるのに任せて、半助は目を閉じる。
伝蔵は、片手で半助の肩を抱き寄せると、その頭を自らの胸へと預けさせる。
「山田先生…私、」
「…大丈夫だ」
伝蔵の指先が、半助の喉…気脈にするりと入り込んだ。
「ぁ…っん」
半助の口から、思わぬ声が漏れてしまった。
それは、冷静にその成り行きを眺めていた雅之助でさえ、ゾクリとくる嬌声だった。
伝蔵は、震える半助を宥めるように身体をさすりながら、気道から精気を吸い上げる。
ほんの少しでも、身体中の血液が沸騰するような…濃厚な精気だった。
余りの上質さに…酔いしれそうになる。
伝蔵から見て、半助はまだ月氏に成り立てで、上手く精気のコントロールが出来なかったのだろう。
何かを切っ掛けに、身体中の精気が沸き立って極度の興奮状態になってしまったのだ。
暴走する精気を少しばかり搾取したせいで、少しは楽になったのか…半助は、ほっとした様に、伝蔵に身体を預けていた。
それでも、まだ興奮にか…小刻みに震えている。
その様は、小動物を思い出させ、伝蔵の庇護欲を堪らなくそそった。
「半助…大丈夫か?」
何度も身体をさすってやりながら、声を掛けると、半助は小さく身動いだ。
「…何?」
伝蔵は、はた…と気付いた。
雅之助が、興味深げに半助を見詰めていた。
「雅之助!…席を外せ」
その視線は、伝蔵から見ても無遠慮に感じた。
「やっぱり、話しといた方が良いって…その方が、その子の為にもなる」
雅之助は、物知り顔で伝蔵に諭す。
伝蔵は、そのまましばらく黙り込むと、半助をベッドへと運んだ。
先程まで、あれほど饒舌だった雅之助が、無言のまま後に続く。
半助はその沈黙が怖かった。
「や、山田先生?」
ベッドへと横たえられ、伝蔵は半助の手を握った。
半助には、それが…手術前の患者を力付ける光景のように思えた。
「…半助。大丈夫か?」
半助はコクリと頷く。
何を告げられたとしても、冷静に受け止めようと、心掛けて…。
「言って下さい。私も…隠し事は、嫌です」
「…半助」
伝蔵は、半助をじっ…と見詰めた。
その視線は、半助の心をドキドキと沸き立たせたが、先程とは違う、心地よいものだ。
「本当は、少しずつ話すつもりだったが…」
伝蔵の言葉は嘘だろうな…と半助は思う。
伝蔵はきっと、半助が気付かなければ、いつまででも口を閉ざしていただろう。
半助を想って…。
「お前は【血の契約】で果実となったが、果実を月氏にする儀式は…滅多に行われるものじゃない。」
「何故?」
半助の口から、ぽつりと零れた質問に答えたのは、雅之助だった。
「【果実】の為に…命を張るバカな月氏がいないからサ。半助は、凄い確率で【華燭の典】を乗り越えた元・人間って事だ」
「命を…張る?」
「あぁ、あんたを1人、生き返らせる為に、伝さんは命賭けの儀式をしたんだ」
「それが…【華燭の典】?」
結界の中で見た、2人を繋ぐ大穴。
伝蔵は、なんでもない事の様に言っていたが…やはり、命を掛ける無茶な行為だったのだ。
「…半助」
伝蔵が否定もせずに、困った表情をしていた。
「山田先生、私なんかの為にそこまでして頂いて、ありがとうございます」
命まで掛けてくれたのに…半助には、何も言わないつもりだったのだ。
半助の瞳がポロリと涙が落ちた。
「否、わしが勝手にしたことだ…」
「だから…半助は知らなくちゃいけない。自分がどういう存在か…」
雅之助は、伝蔵の口からは言えない事を伝えようとしてくれているのだと分かった。
それは、決してイジワルでも、揶揄からでも無い。
月氏の先輩として…伝蔵の友人として…か。
半助が知っていなければならない事だ。
「半助…お前は、【月氏】としては、まだ一人前じゃない。」
雅之助は、半助の真摯な表情を見て、一呼吸置く。
「…って言うか、むしろ普通の【月氏】と違う、『規格外品』だ」
その言葉は、奇妙な硬質さで、半助の心に刺さった。
思わず、伝蔵の手をギュッ…と握り締める。
それだけが、半助にとって真実かのように…。