血の連鎖

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27・月の光の元で…

窓の外は、夏の盛りを過ぎたというのに、まだまだ暑い日々が続いている。
窓を開けると、カーテンを揺らす風は熱気を帯びて、まだまだ熱帯夜は続きそうな気配。
もう陽も落ちかけていると言うのに、争うように蝉が鳴いていた。
「乱太郎…横になってないと駄目だろ」
「……きりちゃん」
振り返った乱太郎は、右足をギプスに固められ、松葉杖を付いた痛々しい姿だった。
「今日は、熱は下がったのか?」
「うん、薬が良く効いたみたい。ちょっと風にあたりたくなって…」
「…無理するなよ」
きり丸は気付いていた。
乱太郎が、自分のことを『きりちゃん』と、まるで昔の様に呼ぶときは、酷く不安定な時なのだ。
うん…と乱太郎は微笑む。
「無理したところで、もう…絶対に間に合わないし」
微笑みを残したままの頬を、ゆっくりと涙が伝った。
「乱太郎……」
きり丸は掛ける言葉を失っていた。
乱太郎もきり丸も、高校三年生になっていた。
高校生活最後の夏を乱太郎は、ベッドに縛られてしまった。
本来なら、陸上の練習に明け暮れる貴重な夏を…。
―原因は、交通事故。
部活から帰宅途中だった乱太郎を、飲酒運転の暴走車が跳ね飛ばしたのだ。
犯人は逮捕されたが、乱太郎の身体が元に戻る訳ではない。
今年の駅伝は、高校生活最後の大会になる筈だった。
都道府県単位で争われるその大会は、オリンピッククラスの一流選手が選抜されると同時に、陸上選手育成を目的とし、実業団選手以外にも大学生・高校生など幅広い選手で構成される。
結果的に、数多くのスター選手を排出し、テレビでも全国中継されるようになった。
その大会は、乱太郎にとって小さい頃から、それこそ…中学時代、陸上を始めた頃からの憧れだった。
乱太郎には、有名選手に混じって、堂々と走る高校生の姿がキラキラして見えた。
どんな名のある選手より、大人から受け取った襷を繋ごうと必死に走る『お兄さん』に釘付けなったのだ。
幾つも歳が離れていないのに…自分もこんな風に走ってみたいと。
その為に走ってきたと言っても良い程…この大会は、乱太郎の夢だった。
「団蔵との約束も果たせなくなっちゃったヨ」
出場するという夢の第一歩は、去年果たされた。
高校生に任される区間、乱太郎は高校2年で大抜擢されたのだ。
中学時代のライバルで、卒業と同時に引っ越してしまった加藤団蔵も、他県から選抜され、同じ区間を走った。団蔵はチームに恵まれ、トップで襷を受け取りトップを守りきった。
乱太郎はその背中を見ることも出来なかったのだが、区間賞を取ったのは乱太郎。団蔵も好タイムではあったが、乱太郎は更にそれを上回る、過去の記録を10秒以上縮める区間新記録だった。乱太郎は、必死だっただけなのだが、結果…怒濤の6人抜きをし、チームを上位へと引き上げた。
レース後二人は、来年…つまり今年の再戦を誓った。
…その時は、こんな事になるとは誰も思ってもいなかった。
当然、今年は二人とも、有力選手として早くからテレビの取材を受けるなど、注目されていたのだが…。
それが、その同じ番組で、乱太郎の事故が報道されることになるとは。
「……乱太郎」
きり丸は、なんと声を掛けたら良いのか…結局は、ただ一緒に居てやる事しか出来ないのだ。
ここ数週間、ずっとこうして見守ってきた。
乱太郎は、ただ黙って空を見上げていた。
きり丸も乱太郎が落ち着くまで、付かず離れずの距離で同じ空を見上げる。
どれほど、そうしていたのだろう。
気が付くと、夕焼けに染まっていた筈の空に、月がポッカリと浮かんでいた。
「…月、すげぇな。満月かな?」
思わずきり丸の口から出た言葉に、乱太郎はクスリ…と笑う。
「違うヨ。満月は一昨日かな?あとは、もうどんどん…掛けていくんだ」
乱太郎は、月を見上げる。
確かに、満月と見間違えるのも仕方ない。雲一つない暗い空に白い輪郭がくっきりと浮かんで、煌々と輝いていた。
そのまま見つめていたら、吸い込まれそうなほど、澄んだ光。
きり丸は、黙って月を見つめる乱太郎の横顔に、不吉なものを感じた。
「乱太郎、もう暗いから…窓閉めよう。虫も入ってくるしな。」
「…うん」
乱太郎は、慌てて窓を閉めるきり丸を不思議そうに見つめる。
ガラス一枚隔てたくらいでは、月の光は遮られない。
それどころか、窓枠に綺麗に納まった光景は、絵画のように見えた。
きり丸は、いつも見慣れている筈の月が、こんなに恐ろしく感じるのか理解出来なかった。強いて言えば…
「きりちゃん。今日の月、綺麗過ぎるネ……満月でもないのに」
乱太郎の言葉に、きり丸はドキリとした。
「…俺も同じ事考えてた」
二人は、ベッドに並んで腰を下ろすと、少し欠けた玲瓏な月を見上げ続けた。


それは、不意に起こった。
きり丸は、自分の目を疑った。
それまで空に雲一つなかったと言うのに、月が…ぼやりと霞んでいく。
「き…きりちゃん」
錯覚ではない。
乱太郎の目にも、同じようにその光景が映っていた。
そして、それが月に起こった異変なのではなく、自分達に起こっている事なのだというのに気付く。
身体が…動かないのだ。
金縛りとは違う。まるで突然重力が大きい所につれて来られたような、濃い空気に包まれているような感覚だ。
きり丸はなんとか動かせた手で、乱太郎の手を取る。
「だ、大丈夫だ、乱太郎」
なんの根拠もないけれど、パニックになっている場合じゃない。
きり丸は努めて冷静になろうとした。
すぐ横には、お煎餅やみかんをくれるおばあちゃんや、テレビの音が嫌いなおじさんがいる筈なのだ。
なのに…4人部屋を仕切っていたカーテンがやけに遠く感じる。
乱太郎の指がぴくりと動いた。
「きりちゃん……誰か、来る」
確かに、耳を澄ませると、コツコツと足音が聞こえる。
きり丸は、乱太郎の手をギュッと握った。
ゆっくりと近付いて来た音は、まるで普通の見舞客の様にカーテンの前で足を止める。
足音は……二人分だった。


フワリと捲られたカーテンの隙間から入ってきた人物を、二人は呆然と見上げた。
「う、嘘…だろ?」
二人にとっては、誰よりも逢いたかった人。
「ど……土井先生?本当に…?」
二人が半助を見間違える筈なかった。
確かに、二人の中学一年の時の担任教師、土井半助に間違い無い。
ただし、半助は行方不明だったのだ。
部活動の帰り道、自分達を送っている最中に、殺人事件に巻き込まれて……。
半助が事件に巻き込まれていくのを、二人は見ている事しか出来なかった。

 ――早くお母さんの所に…!

二人の事を心配しながら、悲鳴の方へ走って行く、半助の後ろ姿。
それが、警察に面会謝絶にされ、病院にお見舞いに行くことが出来なかった二人にとって、最後の記憶だった。
その後、半助に逢えなくなるなんて、夢にも思わなかった。
きり丸は、半助が…まるで猟奇殺人の加害者か共犯者のように報道されているのが許せずに、『良い先生を心配する生徒』を過剰に演出して見せたっけ…。
それも、半助が無事帰ってくる事を前提にした事だ。
まさか、その後…事件が不可解な展開をしていくとは、予想も出来なかった。
一時は重体とも言われた半助が、警察の保護と言う名の監視の中、忽然と姿を消し、その後、事件被害者の兄弟にあたる暴力団関係者の建物から、半助のものと一致する大量の血痕が発見される。その場に居合わせた者達は、証言を取れる精神状態では無かった。それを最後に、半助の足取りは途絶える。
その頃になると、報道のスタンスは半助を被害者として扱っていたが、口さがない人達は、死体こそ発見されなかったが、とうに死んでいるだろうと言った。
でも、二人はそんな事は無いと信じていた。
…信じていたかった。
その半助が…。
当たり前のように、二人の前に居る。
もう何年も行方不明になっていた人が、こんな風に現れるなんて、二人が自らの目を疑うのも仕方ない。
乱太郎は、瞬きを何度も繰り返し、その瞳に徐々に涙が溜まっていく。
「土井…先生」
「今まで、すまなかったな…」
二人の目の前で、はにかみながらも微笑む半助。
驚く事に、二人には、半助が…最後に会ったのは5年も前になるのに、その姿に全く変化が無いように思えた。
重要参考人もしくは被害者として、警察が探しても発見されないという状況は、決して普通ではなかったと思われるのに、目の前の半助は、今にも中学校で授業を始めそうだった。
「乱太郎…頑張って、陸上続けたんだなぁ。しかも、去年…例の駅伝で走ったそうじゃないか」
「土井先生…」
まるで昨日のことのように話す半助の言葉に、乱太郎の瞳から堪えきれなくなった涙が次々溢れ出す。
「覚えていて…くれたん、ですね」
乱太郎は、駅伝の夢を一度だけ半助に話した事があった。他の大人は誰も、ただテレビに出たいだけだろう?と夢物語のように乱太郎の話を受け取った。
しかし半助だけは何も言わずに、その後、陸上部の為に尽力してくれたのだ。
ハッキリとした形ではなかったが、乱太郎は初めて…夢に対して、背中を押されたような気がしたのだ。
「見てやれなくて…ごめんな」
半助は、ゆっくりと二人に近付くと、泣き崩れる乱太郎に両手を差し伸べる。
「そうだよ!先生、今まで一体何処で…」
きり丸は、涙に言葉を無くした乱太郎に変わって、聞かずに居られなかった。
「きり丸、お前にも…本当に迷惑、掛けたな…」
半助は、少し悲しそうにきり丸に詫びる。
「そうじゃなくて…」
きり丸は、そこまで言い掛けて、ギョッと言葉を止める。
半助の後ろから、もう一人…男が入ってきたのだ。
…そう、足音は二つあったのだ。
その存在感に目を向けたきり丸は、男と目が合った瞬間、身動きが出来なくなり凝視する羽目になった。
漆黒のスーツに身を包んだ壮年の男は、一部の隙も無い。
その立ち居振る舞いから言っても、何かが普通と違う…きり丸は、理由も無く直感した。
この異常な状況の中心にいるのは…この男だ。
実際、視線を向けられただけで、周りの空気が重さを増すような息苦しさを感じた。
男は、その存在だけで、きり丸の言葉を遮ったのだ。
「すまん。きり丸…時間が、あまり無いんだ」
「…時間が?」
乱太郎が聞き返す。
半助は、ベッドに腰を下ろしている乱太郎の、怪我をしている方の足に手を伸ばす。
触れるまで行かない距離で、その手がビクリ!と震える。
「ひ…酷いな。こんなボルトが沢山…」
半助がポツリと漏らした言葉に、乱太郎は混乱した。
「どうして、そんなこと…」
確かに、乱太郎の足には、割れた骨を固定するためのボルトが何本も入っていた。
しかし、乱太郎の怪我は事故にあったとだけ報じられ、公表はされていないのだ。
まして外見から分かるものでは無い。それどころか、足自体も見えない、すっかりギプスに固められた状況なのだ。
「静かに…、頼むから、怖がらないで欲しい」
半助は、乱太郎の顔を見上げる。
それは、乱太郎が知っている…中学生の頃、自分を心配してくれた『土井先生』そのものの表情だ。
「…悪い様にはしないから、私を信じて欲しい」
半助の言葉は、不思議と心に染みるようだった。
そのまま、乱太郎のギプスに手を翳し、目を閉じる半助。
乱太郎は、何故か…ギプスの中が、徐々に熱く燃えるような気がしてきた。
「…な、何?…この感じ」
半助も、最初の姿勢のまま、微動だに動かない。
ただ、額のあたりにジワリと汗が浮かんでいた。
不意に、半助の手がビク!ビク!と、大きく震えた。
…カラン!
…カラン!
続いて、この場に不似合いな金属音。床に何かが落ちる音だ。
一瞬、半助の身体がグラリと傾いだ。
それを支えたのは、もう一人の男だった。
その余りに自然で、優しげな様子が、きり丸を驚かせた。
「…すみません」
男に礼を言う半助の声は驚くほど嗄れて、疲弊していた。
「出来るか?」
男が問う。
「…はい。」
半助は、男に向かって微笑む。
それは、二人が見たこともない半助の顔だった。
改めて乱太郎に向き合った半助は、ふぅーと大きく息を吐く。
そして、今度は乱太郎の足元から、次第に上へと手を動かしていく。
テレビでよく見る、気功師のような動きだ。
乱太郎は、自分が何をされているのか全く分からなかったが、半助の手が動けば動く程、心地良く、異常な睡魔が襲ってくる。
「先生…なんか、眠…い」
「良いよ。ぐっすり眠ると良い…目が覚めたら、不安な事はみんな無くなっているから…今は、お休み」
半助の言葉、声さえ、乱太郎には心地良かった。
膝から下を半助に委ねたまま、乱太郎の身体がきり丸の方へ傾く。
きり丸は、咄嗟に乱太郎の身体を支えてやったが、すぐにその耳元に、規則正しい寝息が聞こえてきた。
ストレスと、怪我の痛みで、最近ぐっすり眠れていないようだった乱太郎が、こんな風に寝入るのを見るのは久しぶりだった。
きり丸に寄りかかる乱太郎の身体は、まるで子供のようにポカポカと温かい。
きり丸は、それも不思議と悪い発熱のようには感じなかった。眠る赤ちゃんの手が温かいのと同じように思えた。
何事が起こっているのか、理解し切れてはいないが、半助が何かを良い事してくれているのは、きり丸にも分かる。
きり丸が、半助に視線を戻すと、同じ動作を怖いくらいに集中して繰り返していた半助が、ひゅっ…と大きく息を吐いた。
膝からつま先に向かって、指先がギプスの上を走る。
何の力も入っていない仕草だった。
すると、パクリとギプスが二つに割れ、綺麗に切断されたそれは、床へと転がる。
数週間振りに、露わになった乱太郎の足。
きり丸は、固定され続けた場所は、筋肉が落ち、骨と皮のような姿になると聞いた事があった。
しかし、乱太郎の足はスラリとしなやかな筋肉を持った以前と、全く変わらなく見えた。
何度も繰り返された筈の…手術の痕も見あたらない。
その足に、今度は直に手を当てる半助。
「怪我だけじゃない…」
「…え?」
きり丸は、半助が自分に話しかけている事に、一瞬気が付かなかった。
乱太郎と半助の間で行われている非現実的な出来事を、ただ傍観しているような気になっていたのだ。
「ずっと、色々無理していたんだと思うぞ。あちこちが悲鳴を上げてる」
他の人に言われたら、皮肉のように感じたかもしれない。
それが半助の言葉だと言うだけで、きり丸の心の中にすんなりと入ってきた。
「だから、きり丸の一番の望みも…こうすることだと思ったんだ」
こんな事で許してもらうつもりはないけどな…と、半助は小さく笑った。
そして、再び乱太郎へと向き合う。
その時だ。
きり丸の目にぼんやりとだが、半助の身体からオーラのようなものが立ち上がって、乱太郎と繋がって見えた。
(な…何?)
きり丸は、それを見失わないように、目を凝らす。
その中で、特に濃く半助の背中で、確かに存在してるモノが見えた。
(…は、羽根?)
そして…
半助から出るオーラのようなものは…もう一人の男と繋がっていた。
否、違う。
きり丸には、何となくだが、理解出来た。
二人の身体から出るオーラの様なモノこそが、この空間を作っているのだ…と。
あり得ない状況なのに、不思議と酷く安堵している自分が居た。
男と、半助が…かけ離れているようで、似通っている事に気付いたから。
…二人の作る世界。
それは、先ほど綺麗過ぎると思った月の光と共鳴するように、キラキラと光っていた。
「…綺麗だ」
きり丸は、思わず呟いていた。
「……ありがとう。きり丸」
半助が、そう返事をしてくれたのかどうかは、気のせいだったのか…定かじゃない。
…きり丸の意識も、そこでプツリと途切れてしまったから。



二人揃って眠りこけ、目覚めたのは翌朝になってからで、その後は……大騒動だった。
見舞い時間もぶっちぎって泊まってしまったきり丸だけではなく、夕食や検温など、入院患者に行われる全てを、乱太郎がいつも通りに済ませたと、複数の看護士達が断言したのだ。
夜ベッドを覗いた時も、そこにきり丸は居らず、普段となんら変わりなかった…と。
しかし、乱太郎は夕食も食べていないし、検温にも対応していない。
裏腹に、いつも通りだったと証言する看護士。
しかし、それは些細な事だ。
何より周囲を驚かせたのは……まず一見して分かる、ギプスが外れていた事。
普通、何の音も無く、機具も無く切断する事は不可能だ。しかも、切断面は滑らかで、鋭利な刃物で紙を切ったように綺麗だった。
そして看護婦は、外されたギプスと共に、散らばる金属に気付いたのだ。それは乱太郎に使われていたボルトの数々。
つまり治療の成果全てが、取り外されてしまったという事だ。
慌てて検査をした担当医は、言葉を失う。
乱太郎の足が完治していたのだ。
ギプスが割れて落ちていたのは、無理矢理説明出来たとしても、手術で埋め込まれた筈のボルトが床に散らばっていたのには、説明が付かない。
しかも、乱太郎の肌には傷一つなく、レントゲンなど一日掛かりで検査をしたが、異常がないどころか、健康そのものの結果を示す。
完治した…というより、むしろ、元々怪我が無かったと言った方が正しい状況だった。
担当医は、二人に何があったか問い質したが、二人は、昨夜の出来事を誰にも話さなかった。
話した所で、信じてもらえる訳がない。
何より、誰にも言いたくなかったのだ。
乱太郎の事情を知っていた看護婦達は、神様のお陰だと…涙した。
担当医も、そんな事実を公にしたら、自分の頭を疑われるだけだと…この奇跡を胸にしまう事にした。
何より、患者が完治して退院していく姿は医者には嬉しいもの。顔を引きつらせてながらも、「完治して良かったな…」と笑ってくれた。



乱太郎には、まだ信じられないが……今日、退院だ。
昨日は一日、何かの間違いではないかと、一日掛かりで様々な検査を受けさせられたが、本当に身体に異常は無かった。
乱太郎の母親は、僅かばかりの間、息子の奇跡の回復に感動していたが、すぐに慌ただしく退院の準備を始める。
「乱太郎、あんたもう元気なんだから、身の回りの荷物は纏めといてね」
そう言いながら、まだ横になっている乱太郎のベッドの上に紙袋や風呂敷を広げて見せる。
たまたま同室の患者は検査に出ていて、部屋に居るのが乱太郎達だけなせいか、発言にも容赦がなかった。
早速それは無いだろう…と乱太郎はぼやいたが、こんな風に遠慮無く言ってもらえると、闘病生活から日常に戻ってきた実感が沸いて、嬉しくなった。
隣では、きり丸が大笑いしている。
そんな調子の母親が、会計などの手続きを済ませに席を外す。
乱太郎ときり丸、二人が部屋に残された。
あれから…
こんな風に二人きりになるの久しぶりだ。
乱太郎は、ベッドから上半身を起こすと、布団を捲って自分の足を眺める。
一昨日までは、ギプスに固められ、夜中には疼いて仕方なかった足だ。
それが、もう何処に傷があったのかも分からない。
「きり丸…あれ、全部夢じゃなかったんだね」
「……あぁ」
「本当に、目が覚めたら、心配な事がなくなってた…」
秘密を共有した二人に、余計な言葉はいならかった。
「なぁ…乱太郎、俺…昔、先生に聞いたことがあるんだ」
きり丸はポツポツと話し出す。
「…何?」
「どうして、俺達の夢…を応援してくれるのか?って」
「…うん」
それは、乱太郎が聞きそびれてしまった、一番知りたかった事かもしれない。
「先生、どうしても忘れられない人が居るんだって言ってた。その人は手の届かない所に居る人なんだけど、どうしてももう一度逢いたいって。」
手の届かない所に居る人?…と、乱太郎は反芻する。
「信じていれば叶うって、またその人と絶対逢えるって、何より信じたいのは自分なんだ…って、先生言ってた。だから、俺達の夢も信じようとしてくれた。」
「じゃあ、土井先生…その夢が、叶ったのかもしれないね。」
乱太郎の言葉に、きり丸も、あぁ…と同意する。
あの時の半助は…二人の良く知っている土井半助だったけれど、全く知らない土井半助でもあった。
半助は、その『手の届かない人』の所に行ってしまったのだ。
…その人は、二人が想像するより、もっと遠い所に居る人だったのに。
「俺も、そう思った。あの人がそうだったんだヨ。先生とは年格好が合わないと思ったけど、雰囲気…そっくりだった。お似合いだなぁ〜って。」
乱太郎は、あの時、半助の登場で頭が一杯になってしまい、もう一人の存在を良く覚えていない。
全てきり丸に、後から聞いた話だ。
「私も、逢いたかったなぁ…その人」
「馬鹿、マジで凄い迫力だったんだぜぇ。直る怪我も治らなくなるって。」
二人は笑いながらも、手荷物を纏めていく。
きり丸は、ふと手を止め、乱太郎を見詰める。
窓から入る太陽の光を受け、痛んだ髪がやや赤く光る。
この前とは別人の様に、屈託無く笑う乱太郎は、本当に太陽が似合う…と思った。
「乱太郎…俺、あの時見たんだ。」
乱太郎なら…信じてくれると思い、それまで話せなかった事を口にする。
「先生の背中に…何か。ハッキリとは見えなかったんだけど、あれ…羽根だと思う」
「羽根?」
乱太郎は、突然真顔でそんな事を言いだしたきり丸を、じっと見返す。
「…ふぅん。じゃあ、そうだったんじゃない」
乱太郎も、平然と言い返した。
「ふぅん…って?羽根だぞ、羽根!俺だって、錯覚だったかなぁ〜って思うのに…」
あまりにも呆気なく信じてくれたので、きり丸の方が驚いた。
「きり丸が見たって言うんなら、あったんだよ。うん、きっとそうだよ」
乱太郎は、納得したように、うんうんと何度も頷いた。
乱太郎があまりに嬉しそうなので、きり丸も素直に、そうなんだ…と思えた。
「今日から、練習復帰して、選手選抜に間に合って、大会に出られたら……先生、見ててくれるかな」
最後の荷物を紙袋に押し込んで、乱太郎は立ち上がる。
「出られたら…じゃくて、出るんだよ。馬鹿。そうしたら見ててくれるさ。絶対」
きり丸の言葉に、乱太郎はにっこりと笑う。
見ててくれる…絶対に。


乱太郎を夢に向かって後押ししてくれたのは、半助だった。
その半助は、自分達とは、遠いところに行ってしまったかもしれないれけど…あんなに心配してくれていた。
乱太郎は、頑張ろう…と思った。
心配してくれた皆の為。自分のため。

そして…誰より、きり丸のために。



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