阿弥陀仏の世界              


鎌倉時代、法然上人は、阿弥陀仏の極楽浄土を説き、仏の救済力の偉大さ光明力と生命の永遠性を極楽浄土という言葉に集約して民衆に示しました。この世が苦し身に満ちているとしても、希望を託せる来世を極楽浄土と仏の存在として明らかにし、生きる力の発露を開き、人々の心にもたらしたのでした。そしてその希望の橋を渡る方法が念仏行の教えだったことになります。
極楽浄土へ救い上げていただけるという教えは、多くの民衆の信頼を得ました。 
法然上人自らもどんな時も瞬時欠かさず念仏を唱えたといわれています。そんな法然上人の霊性の高さ、人格の高潔さといった精神性に魅かれて、上人のもとを訪れ、念仏信仰の道に人る僧や民衆は少なくなかったといわれています。
その念仏の教えのもう一人の祖師として、法然上人とは違った使命を担ったのが、親鸞聖人でした。“ 御聖人様 ” という、法然、親鸞への尊敬が念仏の教えと結びつき、教えの中心にある阿弥陀仏の世界を人々の心に根付かせることになったと推察出来ます。

念仏の教えはとても分りやすく実践しやすいという利点があります。でも当時の仏教が、僧籍を持つ人や上層社会の人たち中心のものであったとすれば、小乗仏教から大乗仏教へという変化を自ら実践したのが法然上人であったのでしょうか。衆生救済の道を念仏行に定めて、民衆近くにおりられたと考えることが出来ます。
碩学中の碩学と云われた法然上人は、一時は自力道にも邁進したともいわれています。どの道の於いても秀逸した成果を挙げながらも、易行道一筋に道を定めた事は、組織世界の名誉、賞賛、地位などを、すべてを捨てることだったと考えられます。
実際念仏禁止の法に触れて流刑の身となった事もあります。それでも、どんな迫害にあっても、一瞬も南無阿弥陀仏の称名を怠ることがなかったといわれる徹底ぶりは、百万遍の念仏という言葉で伝えられています。

その法然上人を最上の師と仰ぎ続けたのが親鸞聖人であり、大乗仏教の中心精神がそのまま純粋に親鸞に受け継がれたことになります。 念仏の教えは、極楽浄土と、その世界の象徴である阿弥陀仏の救済力という、目に見えない世界を説くく教えです。
そうした不可思議世界の存在を伝える教えは、それを説く人自らの人格が集い来る人々の心を動かさなければ信頼を得ることができません。
説法者自身が信仰の正しさの見える証人であることが求められます。それを可能にして実践したのが、法然上人、親鸞聖人であったことになります。

そんな念仏の教えですが、念仏するという行為と、キリスト教の祈りには、精神的行為として類似性があるように感じます。高く仰ぐ世界から、地上に慈愛のみ手を差し伸べる光り輝く存在が示されていることや、その救済者が絶対世界を象徴する存在であるという点においてです。どちらも“祈り”という無心の行為が働くという事でも共通しています。
民衆の間に宗教信仰が生まれる最初には必ず優れた宗教指導者の存在があります。その優れた存在そのものを尊敬し信頼することから、個々の中に信仰心が芽生えることになります。長い歴史の中には、自らに厳しく、他に対しては愛深くあるという理想像を現わしつつ神仏の加護を説いた宗教指導者が世界中にあまた存在した事でしょう。

天にある理想をいかにしたら人間の内面に顕わすことができるか、ということに挑戦し続けてきた個々の精神は、人間史の中に織り込まれて、今日まで続く人類史の物語を豊かにしているのかもしれません。
祈りまたは称名あるいは座禅といった行為が今日まで伝えられていることは、そこに救いを求め実践した人の数が、数えきれないほど無数であったと考えることが出来ます。
多くの人の信仰心を導き出すのは高邁な教えだけではなさそうです。
それを語る人の人徳であり魅力であり、自分たちとはどこかが違うと感じさせるなど、温かい雰囲気が不可欠なのかもしれません。でもなかなかそういう人に出会うことは稀です。その為に、人は時には、占いなど、職業的なアドバイサーに問題解決の答えを求めたいという願望を持ちます。
私もかっては、占いに興味があったり、問題解決の答えを他に求めたりする方の人間でした。でも、実際には金銭を支払っての鑑定がどんなものか体験したことがありません。
人生順風満帆とばかりは限らなくて、時には藁にもすがりたいという心境に陥ることがあるかもしれません。そんな時、占いではなく、人生問題のあれこれに対して助言をしてくれるボランティアアドバイサーのような人が多く存在したらいいな〜、と思っている人は少なくないかもしれません。
人それぞれの運命の違いは、その人の中にある原因性の違いでもあります。
問題事項を改善するためには、自分でも気付かない想念のからまりを解くことが先決のようです。でも誰もが、何の努力もなく、頭で考える理想どおりに自分を動かし置き換えることは出来ません。人間には誰にも喜怒哀楽に起因する様々な煩悩があります。
その消しがたい煩悩を無理に消そうとしても消せるものではないのと似ています。そうしたことを見越して、仏道に専念できない一般民衆の為に生まれたのが念仏の教えだと考えることができます。そこには衆生救済を誓願する聖者の深い愛念があります。仏の慈悲と光明を信じる心は、念仏によって、煩悩を菩提に変えるというのです。

経典では阿弥陀仏を宇宙的な存在として語り、宇宙の永遠性の中で、仏の生命も永遠であると説きます。一般衆生すべての生命が仏と異ならないという真理を語っています。
阿弥陀仏の語源はサンクリット語にあり、アミターバー、アミターユスが変じて阿弥陀仏という名になっています。その意味は、それぞれ(無辺無極無限の)無量光仏、無量寿仏となります。永遠の大生命、永遠の大光明という意味の語源がそのまま仏の名前となり、漢字では阿弥陀仏と訳されています。仏典が宇宙的な永遠の生命と大光明パワーの総称として阿弥陀仏の存在を説いていると理解することが出来ます。

様々な様式の違いや思想的違いがあっても、根本に於いて正しい精神性である調和精神が保たれていれば、どのような違いがあってもそこに対立は生まれないはずです。それは宗教の世界も例外ではありません。
その時代時代の人の心や社会的背景に見合った必要性のなかで民衆の支持を得てきたのが宗教だとすれば、様々に違いが生じるのも必然かもしれません。世界中に多くの民族の違いが存在する如く、その地独特の宗教形式があることは当然のことであり、それは大事にしなければいけない精神的文化です。
万教帰一という言葉があります。細分化という流れが逆回転すればすべてが帰一に向かいます。そういう点からすれば、脱宗教論も、細分化の先にではなく中心帰一の先に観るべき理想であると思います。

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