これからの文明文化   五井昌久著 白光出版  


第1章 文字、数学、思想 

文字と数の価値


言(ひびき)から言葉へ(P8〜P11)
この宇宙世界には解けない謎がたくさんありますが、文字の発生と数のはじまりは、謎のうちでも重大な謎というべきでありましょう。
どうして文字というものが生まれたのか、しかも各国各民族によってその言葉や文字が違っている、ということも考えさせられることです。
文字や数の発生する前に、まず言葉が最初に生まれ出たことは間違いありません。言葉も肉体の発声気管を通して出てくる以前に、想念の世界でひびきわたっていて、それが肉体の声の言葉となるのでありますが、
その創造世界のまた前に、神霊世界、つまり生命の根源世界のひびきがあるわけなのです。 言
(ことば)は即ち神なりき、という聖書の言葉は、このことを言っているのであります。
ですから言(ことば)は本来神のひびきそのものなのです。
ところが言が言葉として、本源世界の光のひびきから、枝葉の世界、つまり現象世界の想念の波動の中に入り込んできますと、光の波動が物質波動の粗いひびきと混入しまして、(ことば)は即ち神なりき、という清浄なひびきそのものではなくなってまいりまして、今日のような言葉になってきたのであります。

人間は神の子であるといわれるように、人類は、はじめは宇宙神のみ心を宇宙世界に現すために、各種の光明身として、各自の光の波動をもって、様々な創造を行っていたのでありますが、その想像波動を物質界に延長させて、肉体人間として星々に誕生してから、現在の地球人類のような、神とはまるで別のような人間になってきてしまったのであります。
しかし、その本源はやはり神霊そのものでありまして、絶えず神霊世界から、光明波動、つまり神の言(ことば)が送られてきているのです。この神霊世界と肉体世界の中間に幽界、いわゆる想念の世界がありまして、神霊世界の光明波動と肉体界の想念波動との、どちらの波動もこの世界を往き交うているのです。清らな善い言(ひびき)と汚れた悪い言葉(ひびき)とが混入して、幽界と肉体界を往来していて、今日の人類世界の様相となっているのであります。 (中略)

ここにおいて、流れの遅い川の水は汚れ易いのと同じ原理で、言葉が汚れ始めたのであります。この言葉の汚れを業(カルマ)というのであり、そうした汚れた想念を業想念と私は呼んでいるのです。この汚れが次第に増大してゆきまして、遂に神の言(ことば)がそのまま聞かれぬ地球人類になってしまったのであります。一応神と人間とが分断されたような形になってきたのです。
ところで、言(ことば)は本来光のひびきでありまして、形ではありません。この言葉を形に現したのが文字であり数であったのです。(後略)

闇を照らす光  ―真理と調和ということから

数学の本体は調和の精神である
(P28〜)
宗教が神と人間との一体の道を教え、神のみ心を地球世界に顕現することを本旨としていることは、神のみ心が大調和であることからして、宗教の目的がこの世を調和した世界にすることにあることは間違いありません。
ところが調和ということは、あに宗教だけがもっている目的ではなくて、芸術の世界にもあるのであり、意外と思われるかも知れませんが、数学の世界にもあるのであります。
1854年から1912年に存在した、フランスの数学者で物理学者であるアンリー・ポアンカレは、「数学の本体は調和の精神である」と言っていますし、我が国の数学者で文化勲章受賞者岡潔博士は、『春宵十話』という文章の中で、次のように面白いことを言っているのであります。
「数学とはどういうものかというと、自らの情緒を外に表現することによって作り出す学問芸術の一つであって、知性の文字盤に、欧米人が数学と呼んでいる形式に表現するものである。

・・・・・私は、数学なんかして、人類にどういう利益があるのだ、と問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えてきた」と言っています。
そして同じ『春宵十話』の数学を志す人に、という文章の中では、
「ここにいう調和とは、真(しん)の中における調和であって、芸術のように美の中における調和ではありません。
しかし同じく調和であることによって相通じる面があり、しかも美の中における調和のほうが感じ取りやすいので、真の中における調和がどういうものかをうかがい知るには、すぐれた芸術に親しまれるのが最もよい方法だと思います。
したがって、数学の目標とするところは、真の中の調和感を深めることよりほかにありません。調和感を深めるとはどういう事か一つ例をあげましょう。ふつう三次方程式の解き方は、タルタリア(文芸復興初期の人)の解法と呼ばれています。
ところで私は、三次方程式を解く必要ができたのに解法をすっかり忘れてしまったことがあります。その時、ちょうどよい機会だと思って自分の解き方を考えてみたのです。
すると三日かかって全然別の解法が発見できました。
タルタリアのほうが手際よくやっているのですが、ともかく私にも解き方がみつけられたわけです。そこで考えてみるのに、タルタリアの解法というのは、一代の天才が一生を賭して解いたものなのですが、三次方程式に取り組んだのは彼だけでなく、同時代の多数の数学者がこれにぶつかり、その中でタルタリアがうまく賭を当てたのだといえます。
文芸復興期の人たちにとっては、実は一生かかっても解けるかどうかわからないという難問だったのです。その問題がわずか三日間で解けたのはなぜか、それがこの四百年間に数学の調和感というものが、それだけ深まったためと考えられるのです。
調和感が深まれば、可能性の選び方、つまりは「希望」というもののあり方が根本的に変わってくるわけで、速く解けるのは当然だと言えましょう。そして数学の目標はそこにあるということができます。・・・・・・」


数学に働く無差別智
「ところであなた方は、数学というものが出来上がってゆくとき、そこに働く一番大切な智力はどういう種類のものであるかを知らなくてはなりません。それはやはりポアンカレの『科学の価値』が大いに参考になると思われます。
この中でポアンカレは数学上の発見が行われる瞬間をよく見る必要があると述べて、自分の体験からそれはきわめて短時間に行われること、疑いの念を伴わないことを特徴としてあげています。こんなふうに特徴を備えた智力、それが数学にとって必要な智力といえるわけです。
こうした智力はそれではどのようにして養うことができるのでしょうか。丁度日本刀を鍛えるときのように、熱しては冷し、熱しては冷しというやり方を適当に繰り返すのが一番いいのです。そしてポアンカレのいう智力も、冷やしているときに働くものなのです。
緊張がゆるんだときに働くこの智力こそ、大自然の純粋直観とも呼ぶべきものであって、私たちが純一無雑に努力した結果、真情によく澄んだ一瞬ができ、時を同じくしてこそに智力の光が射したのです。
そしてこの智力が数学上の発見に結びつくものなのです。しかし、間違いがないかどうかと確かめている間はこの智力は働きません。
この本当の智力というのは、本当のものがあればおのずからわかるという智力で、いわば無差別智であります。自分が知るというのではなく、智力のほうから働きかけてくるといったものです。これに比べれば、こちらから働きかけて知る分別智はたかの知れたものと言えましょう。


数学と人類全体の福祉
「ところで、数学と人類全体の福祉、利益との関係はどうなっているのでしょうか。以前は数学は計算も受け持たなければならなかったのですが、最近機械が発達して、機械的なものは機械にやらせればよいようになってきました。
やがて論理学も人がやらなくて済むようになるでしょう。こうなると数学の役目というものは機械にはできないことをやるということになります。それは調和の精神を教えるということであります。
ちょっと世相を見てください。ポアンカレが死んでから(1912年没)いままで丁度50年経っていますが、この50年間は一口に言えば、大仕掛けな戦争ばかりやってきました。・・・・・・こうなった原因は何でしょうか。
私はそれは調和の精神なしに科学を発達させたのが原因だと言えると思います。
・・・・・科学の発達で人類はいろいろな利益を得ていてように見えます。利益に対して、害のほうはというと、戦争一つだけでも実にたっぷりと害はあります。・・・・・・50年間でこんなありさまになったのですから、これからどんなひどいことになるか想像もつきません。
ただ一つ確信をもって言えることは、人類はこんな大きな試練にとうてい耐え得ないということであります。いま、真のなかにおける調和を見る目がどれほど必要とされているかがおわかりのことと思います。
こういう世相にあって、のんきな数学などは必要ないと思う方があるかも知れません。しかし、数学というものは、闇を照らす光なのであって、白昼にはいらないのですが、こういう世相には大いに必要となるのです。
闇夜であればあるほど必要なのです」


宗教も科学も芸術も大調和世界を現すためのもの

岡博士のこの文章を読んでいますと、宗教者と同じような態度が伺われます。岡博士はポアンカレが数学の本体は調和の精神である、と言っているのと同様に、数学の目標としているところは、真の中における調和感を深めることよりほかにないと言っています。更には、純一無雑な努力の結果、澄み切った心に大自然の純粋直観ともいうべき智力の光が差し込んでくると言っています。そしてこの智力、思慮分別の智力のようなたかの知れたものではなく、本当のものがおのずからわかる智力、いわゆる無差別智であると言い、それは自分が知るというものではなく、智力のほうから働きかけてくるといったものだ、と書いているであります。
これは全く宗教の極意のところでありまして、数学の根本というものが、大智慧大能力である宇宙神から流れてくるものであることが、実によくわかります。
そしてまた岡博士は、この50年の大戦争騒ぎは、調和の精神なしに科学を発達させたのが原因である、と言っております。全く全くその通りですね、と私は大声で同感したいところです。
岡博士は更に、数学は闇を照らす光なので、白昼はいらぬが、こういう世相にはおおいに必要なのだ、と結んでいます。この数学者の言葉はいたるところ宗教者の言う言葉と内容は等しいのであります。数学というものを知らない人々には、何かわけがわからぬなりに、ずいぶん根本的な宗教的なことをこの人は言っていると思われるでありましょう。ところが、宇宙子科学の研究を始めてからの私には、この人の言葉が身に沁みてわかるのです。そうなのだ、そうなのだ、
本当に宗教も数学もすべての科学も芸術も、みんな大調和世界をこの地球界に現すためのものなのだ、としみじみ思うのであります。P36(中略)


闇を照らす光 ― 宇宙子科学の誕生 ― (P44〜)
宗教が闇を照らす光ならば、科学もやはり闇を照らす光なのです。
ただし岡博士も言われているように、調和を根底にした科学でなければ、闇を照らす光だと思っていたものが、かえって自らが闇黒をつくってしまっているということになってしまいます。宗教の道でもこれと同じことが言えるのであります。
ここにまいりますと、宗教の道でも科学の道でも、闇を照らす光となるのは、調和をこの世にもたらすことより他にはないことになります。
愛と調和こそ真理を知らせる要(かなめ)なのであります。美も善も愛と調和の中から生まれてくるものなのです。

真実の愛の行為から現れてくる生命の美しさ、調和した雰囲気から生まれてくる美しさ、それこそ全人類の希求してやまないものなのです。
大生命である神のみ心は、そのまま大調和の姿なのですが、その調和した姿を、そのみ心をこの世に顕現するためには、宇宙大自然の法則に乗った生活を、地球界の人類がしてゆかねばならぬのです。
宇宙法則に外れた時、その外れたところだけ不調和になり、やがて消滅してしまうのです。唯神論者、唯物論者の区別なく、そうなってゆくのです。

アンリー・ポアンカレや岡博士の言っている、数学の本体は調和の精神である、ということは、宇宙神のみ心を現象の世界(霊幽肉を通した)に現すためには、科学的に言えば、電子や中間子などよりもっともっと微妙な存在である宇宙子波動、宗教的に言えば神のみ心の最も微妙なひびきを、様々な角度と種々な場において調和させて合ってゆくことが、たまたま数の組み合わせによって現されてゆく時、これを数学というのです

これが人間の声や様々な楽器によって現されてゆくとき、これを音楽というのであります。そしてその真理を行為として現してゆく人を宗教者というのであります。
神のみ心の最も微妙なひびきである宇宙子波動の数と角度と場の組み合わせが、宇宙神のみ心、つまり宇宙法則に合わなかった時、これが不調和波動となって、地球人類の不幸災難となってゆくのです。
こうした宇宙法則に合わなかった不調和波動を是正してゆくのが、宗教者の天命であり、科学者や芸術家の役目であるのです。

宇宙法則を知らせるために、宗教者は神の存在を説き、人間の心の在り方を説くのであり、科学者は科学の眼をもって、大自然の神秘を解明してゆこうとしているのであり、芸術家は大自然のみ心を美によって現そうとしているのであります。
私は宇宙天使の援助によって、宇宙子の存在を知らされ、宇宙子波動と角度と場との組み合わせを、神のみ心そのままの在り方に是正するため、地球科学の土台の上に、宇宙子科学の理論を組み立てているのです。現在はまだ理論の段階ですが、やがて実験の段階に入ってゆくことになるのであります。
宇宙子科学の誕生はいったい何を意味するのか、それは地球人類へ神のみ心が、科学力となって直接働きかけることを意味しているのです。
宗教と科学と芸術が一体となって現されてゆく宇宙子科学こそ、唯神論者、唯物論者の別なく、神の大愛を讃嘆して止まない、地球人類の完全平和を築き上げる唯一最大のものとなってゆくのであります。
調和こそ全人類等しく求むるところであり、神のみ心そのものであるのです。世界人類が平和でありますように、この祈り心こそ、神と人間との一体化の心なのであり、地球人類救済の宇宙子科学完成への心なのであります。(昭和39年11月)
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