人 身 受 け 得 難 し


人間の全体像を考察する時、最初に思い浮かぶのは進化論ではないでしょうか。その理論が人間の特性を100%語りつくせないとしても、否定することも出来ないのは、人間と動物(霊長類)両者をつなぐ類似性にあます。DNAの調査では違いよりも類似性において高いパーセンテージを示すといわれています。
それはお互いのボディである組織形態が似ているということでしょうか。肉体という物質面の働きが酷似しているという事では納得がいきます。
その共通性から知ることは、物質的組織という生命を維持するという働き面において、両者のそれが地上の環境に適しているという事があげられます。でもいかに類似性が多くても、そこに精神の働きは含まれてはいないのですから、根本的な部分では大いに違っているとかんがえる事ができます。
なぜなら進化論は、物質面の順応性と適応による変化を観るものです。その形態に起こる変化であり種が変わってしまうことではありません。

素人の分際で、いきなり進化論だなんて、難しいことを書きましたが、このページでは、人身受け難し(得難し)というテーマをかかげているので、人間の特性が肉体にあるのか霊性にあるのかについて考えてみたいと思います。今日に至っては、人間に進化があるとすれば、身体能力という肉体面ではなく、精神面にその可能性が秘められていると考えることができます。進化の考察を物質世界の現象だけに当てはめると、必ず限界があるからです。
でも精神面の働きに進化を求めるという広い視点はこれまでなかったのではないでしょうか。そこには限定も限界もないことは確かです。

動物はその生命を維持するうえで、自然環境への依存度が大です。なぜなら、環境の悪化は致命的であり、そういう意味では自然界の変化に対して受け身だからです。
動物は自然界にあって、生存競争を勝ち抜く本能を働かせて生きています。その本能を主体に生きるのが動物の特徴です。動物的本能と理性は共存しないとしても、どんな動物も親子間の愛情が深い事はよく知られています。人間世界と同じ情景を動物世界に観ることができます。
動物的本能という片鱗が人間のDNA記憶の中にも残っていることは、歓迎したくない事実です。でもそれがあるから競争心理が生まれ、創意工夫能力をフル活用することにもなります。なので、内在する動物性という負の内在を認めつつ、その劣性を克服するところに進化が生まれると考えることができます。

人間と生まれた以上は、進化の可能性を捨て去らないようにしたいものです。そのためには何を確立するべきかという事があります。人間は肉体であるという全体所の中に霊性を宿しているといわれています。そのことに進化の可能性が内在する事実があります。
人間とは肉体プラス霊性であるということを意識に確立することが大事という事になります。霊性の内在ということの意味を掘り下げて探求すれば必ず、人身受け難しという真理にたどり着く ・・・古来よりの教えが示してきた事です。
進化するという可能性は、誰もが未知なる能力を秘めていることを物語っています。内在する人間独自の特性を知り、その働きを活用することが、進化につながることになります。
でも、人間の特性能力を物質的繁栄のために輝かせるだけではもったいないことになります。宇宙の叡智に近づくためにも、人間の霊性とは、につての謎を紐解くことが求められます。

人類は今や 宇宙から地球を見る事が出来るという、俯瞰的視野を可能とした時代に生きています。更には長い歴史上に残された人類の偉業を振り返り細部まで知ることも出来るのです。それは同時に人類が犯してきた過ちという部分においても同じことがいえます。
いつの時代も先人が築いた成果をさらに発展させて進むのが人類の姿でもあり、今日も例外ではありません。DNA科学の発見は同時に、人間に内在する動物性が、精神面において負の内在として暴走してはいけないことも暗に示しています。

人間社会が発明し生み出した飛行機や新幹線、テレビ、コンピューターといった素晴らしい機器群は、多方面にあって人間の能力を引き出してくれるものであります。思考の角度を少し変えてみると、あらゆる発明の原点に、人間の能力を補う発想と願望があることがわかります。でも飛躍的進歩の道のりにも、ともすれば、利益にならない事は避けて通ってきた、そういう事もあるのだとおもいます。でも解明を避けてきたことの中に、調和科学という新分野の軌道の奥に、真の叡智につながる人間の霊性についての解明があるのだと考えます。
“一人生まれ一人死す” その言葉は、人間の生き死が、あたかも動物界のものと似ているかのように響きます。
動物の死が、神の被造物として 本能とともに大自然に帰るとしたら、そこには静かな終焉があるだけです。でも人間は霊なる存在であり、神の被造物ではないのですから、人間の死と動物の死とは根本的に異なることになります。

ではなぜ“一人死す”なのでしょうか?
肉体の死は肉体界以外の階層への移行であるといわれます。その意味は、新しい界への引越しのようであり、決して忌むべき深刻なものではないという説があります。 でもこの世を去る時は、どうみても何も持たずに、お別れとなります。それは形容しがたく寂しく哀しい事にみえますが、人間は決して一人で生きているのではないという真理があります。
肉体と同時に幽体と霊体と神体を持っているのであり、肉体を去り幽体、霊体になった時には、守護霊さんをはじめ、縁ある霊人がたくさん迎えに来て下さるといわれています。 

基本的には決して不安がることはないようです。でも人は自分自身の生死に対して、肉体に限定した価値意識を持つことも、神仏を信じて無限に広がる生命意識を持つ事も自由です。
その上で人間生命の本質が霊性にあると信じるか、あるいは唯物的な生命観で終わるかによって、“一人死す”のその先が変わってくるのです。

日本の神話は、遠い遠い時代にまでさかのぼれば、天の神様のいのちが地上に降り立ったことが物語られています。とすれば、私達の命は、ずーっと太古をたどれば、神様の命からつながっている、という事になります。 聖書の記述には、宇宙的中心の神様が、地上の物質組織で神の似姿(人間)をつくられ、そこに自らの息を吹き込まれたとあります。神のいのちが息づく人間生命を、宇宙大霊自らが創ったことが記されています。

それらが人間生命の深いところにある真実ということになります。
だとすれば、人間の本当の特性は、生命の中に存在していることになります。

“人身受け難し”の根拠は、人間のみえない特性にあることになります。社会全般がどんどんスピード化し高度化を遂げるなかで、日常生活も利便性を高め、衣食住に関わる環境も飛躍的に進展している今こそ、更なる進化について考える素地が十分にできているといえそうです。

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