生命の本質 著書『神と人間』から
最近は様々に伝えられる情報から、生命に関する諸研究が深度を増していることを感じることができます。それは生々滅々の働きの中に潜む深い叡智が少しづつ説き明かされてゆくかのようでもあります。そんな中でも、生命の原理という観点から、人間生命への考察を肉体の働きだけに限定することは誤っているとする説もあるようです。
でもそれはまだまだ一般的ではないというのが現実です。でも化学や科学の研究が進むことは、謎が一つひとつひも解かれてゆく事であるとすれば、あらゆる生命の働きの奥に更なる方程式、法則の叡智をみるような方向性が開かないとは限りません。
そこで 人間の真実 を説きつづけられた宗教家五井昌久氏は、どのように生命の真実を明かされたのかを、著書 「 神と人間」の文章をお借りして下に記してみました


 『神 と 人 間 』  三、実在界・霊界・幽界・肉体界
さて、前章においては、総括的にやや抽象的に人間の説明をしておいたが、この章では、もっと具体的に突き進んで、人間とはいかなる者かを述べてゆきたい。 (〜略)
人間は本来神から来た光である。光は即ち心である。神は、すべてのすべてであり、無限の智慧、無限の愛、無限の生命であるけれど、神そのものが神そのままの姿で動いたとしても、無限はいつまでも無限であって、有限にはならない。一がいくら動いてもやはり一なのである。 無限が幾つかの有限になり、一が自己分裂して二になり、四にならなければ、形の世界は創造されない。この光そのものである神がある時、突然その統一していた光を各種、各様相に異なった光として放射した。このときから神の創造活動が始められたのである。

神まず天地に分かれ、そしてその一部の光は、海霊(うみだま)、山霊(やまだま)、木霊(こだま)と呼ばれ自然界を創造し、後の一部の光は直霊(ちょくれい)とよばれて人間界を創造した。ここにおいて神は一であり、多であることとなり、一即多神となるのである。
さて人間の直霊(ちょくれい)、即ち神の一部の光こそ、私が前章より書きつづけている人間そのものであって、このときはいまだ業因は生じていないのである。この直霊が動き出でて各種の光の波を出だし、霊界を創り、各分霊となり、各分霊が直霊より分けられた光(心)により、創造力を駆使して幽界を創り、肉体界を創造して、ある時は幽体という衣だけ着て幽界に生活し、ある時は幽体を着けたうえに、肉体という衣をつけて肉体界の創造活動を営んだ。
霊体が中味だとすれば、幽体はシャツであり、肉体は上衣である。この三つの体はいずれも光でできているのであるが、肉体はその光の波が非常に粗く、流れる速度も遅く、その波は重い。分霊(わけみたま)は精妙な光であり、本来自由自在に動きうる波動をもっているのであるが、肉体界に出入りするうち、いつとはなく肉体の鈍い動きに同化されてきて、しだいにその精妙さが失われてきた。
はじめ、肉体界をつくり、そこに神の創造を形づけようとして活動を続けていた各分霊(わけみたま)は、さながら繭をつくって、その中に閉じ込められた蛹(さなぎ)の如き状態に陥り、しだいにその光波が濁っていったのである。
やがて、分霊(わけみたま)は自分たちの親である直霊に向ける念を疎(うと)んじ出し、それまでに幽体と肉体に蓄積されていた光の波(念)だけに重点を置いて、楽な創造を営もうとしはじめたのである。
ここにおいて人間は、肉体界の生活を主とした自己限定をするようになっていったのである。分霊の創造の始めにおいておこされた想い(光の波動)は、神より来る本来因果(真善)であったが、肉体界に自己限定を始めたころより、生じた想いが業因となって、人間の悲劇が始められたのである。

即ち、自己限定した各分霊は、お互いの不自由を解放しようとして、縦である直霊に向かわず、横につながる兄弟姉妹である分霊魂から、その自由を得ようとし始めた。即ち縦取りをしないで、横取りをしはじめたのである。そして、幽体及び肉体に蓄積された想い(知識)並びに腕力を使い合って、闘争の歴史を繰り広げていったのである。
しかし時折り、自ら閉じ込め、今は閉じ込められた肉体の隙間から、神の顔をその光明をちらりと観ては、蓄積された想念の中から、かっての自分の光を見出し、直霊にむかって救いを求める絶叫を挙げたのである。 これが信仰の始まりであった。(〜略)
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本文内では図解入りで説明がなされていて、より理解しやすくなっています。でも私たちは幽体とか霊体という言葉を聞かされてもそれを実感できません。
ということは理解も進まないという事になります。 でもいまや科学的な分野から人間の身体の研究がどんどん進んでいる事を思えば、まだまだ果てしがない先であっても、宗教が説く永遠の生命原理と生命科学の解明が、平行線ではなく必ず一点で交わることが、次第に理解されるようになるのではないでしょうか。
次の文章からもそうした事をうかがい知ることができます。


同じく 『神と人間』  三、 実在界・霊界・幽界・肉体界 からの抜粋です。
分霊が最初に幽体、肉体を創造したのは、神が天地、山、海、草木を創造し、動物の創造を司る神霊が動物を創造したその創造過程が、霊、幽、物質としだいにその光波を物質化した。いいかえると、エーテル、微粒子、原子(電子、電磁波)としていったと同じ原理で、直霊が各分霊に自己の光を分け与えて、肉体人間の創造を、山霊、海霊、木霊、動物を司る霊等と協力してなさしめたといえるのである

したがって人間(霊)が光波ででき、肉体が原子でできていることと、自然界の法則とは、範疇の異なった、等しい原理によるといえよう。ただ大いに異なることは、山海草木も動物も創造されたものであって、自己意識、我(知性)を持たぬが、人間は創造者である分霊そのものが肉体にあって、たゆまざる自己創造をつづけていることである。これは重大なることであって、釈尊かの言葉に 人身得難しとあるのは真(まこと)である。(〜略)

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上記の文章から 人身得難し とは、肉体界に生命をいただいている今という時こそ、更なる生命の本質の道を得る飛躍の時であることを教えています。 それは肉体を生きるわたし達ひとりひとりが自分に問いかけることでもあります。
でも、頭の中で何かをイメージしようとしても、次元的平面しか理解できなくて、まして難しい理論の理解はなかなかに困難です。でもそんな私達の理解の及ばない事や真理について、正しく知覚できる人たちはいつの世にも存在しました。
そうした賢者、覚者とよばれた人達が先駆けとなり、常に新しい道が切り拓かれてきたのだといえます。そして新しい発見が開示される時々に、私達の意識に新しい窓が開く、そんな形容ができるのではないでしょうか。そうした内面の意識変化という現象は、宗教の真理も最先端科学の研究成果も全く相反するものではないと云えます。
日々無意識の中にも、肉体生命の働きを感じながら生きている私達なのですが、でも肉体は不老不死ではなくて、いつか老いを意識するときが来ることも知っています。そんな老化現象の先で脳内の記憶も薄れてゆくといいますが、ならば個人が人生上に記した歩みの足跡も同時に消え失せてしまうのでしょうか? その答えが否であることを次の文章は語っています。


以下は『神と人間』六「正しい宗教と誤てる宗教」からです。
先の章と重複するが、人間とは肉体ではなく、霊そのものをいうのである。
肉体とは霊の容(い)れ物であって、霊の心のままに行動するものなので、ちょうど自動車が運転手によって走っているように、霊の運転によって種々の行動をなすのが肉体なのである。(略)
これを物理学的にいうと、霊体は非常に細かい周波数を持つ波長体であり、肉体は粗い波長と持つ体であり、幽体はその中間の周波数を持つ波長の体である、ということになり、分霊はその三つの体を自己の体としているのであるが、肉体に入るには必ず幽体をつけてゆかねばならぬのである。それは霊体から肉体に移るには、波長の周波数があまりに違いすぎて合わぬからである。
幽体は霊と肉体を結ぶ役目を持っているのであり、霊の念と肉体人間としての脳髄の想いとを、その体に録音しておく役目をもっているのである。(この場合幽体を念体ともいう)(〜略)

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上の文章から、人間とは肉体、幽体、霊体、という波動の異なる体を持つ生命であり、いのちの本質という大きな世界は、肉体に限定された生命の説明だけでは解き切れないと知ることができます。 でも肉体こそが素晴らしい叡智の結晶であり、生命の不思議にあふれた尊いものである、という理解がそのまま人生80年という有限な生命を、唯一無二の生命と限定してしまっているのが現実です。その思考はそのまま、地上的環境と肉体生命が生命原理の基本であるという論理になっています。

でも霊界や神界という世界が存在すると仮定した場合、人間とそうした世界を分ける大きな隔たりは何なのかという事が謎であることになります。その場合上記の五井昌久氏の文章から解ることは、神と人間とを隔てるものは、距離や空間というこの世的尺度ではないことは確かです。謎の答えが波動の働き、波長の違いという、宇宙的数式、法則性、そうした領域にまで及ぶ事であるとすれば、それはまったく未知の世界ということになります。科学という世界の奥がまだまだ未知であることにどこか似ているといえなくもありません。
しかしどんな素晴らしい理想世界が存在しても、現実の私達は何生にも亘って蓄積してきた潜在意識に、延々とコントロールされきたということを否定できません。精神の自由自在性が阻害されることは不本意だとしても、その原因が自分の中にあるということになります。時代が進んでも人間の根底にある問題は今も昔もあまり変わっていないようです。

遠い時代をさかのぼり幾多の聖賢、聖者の教えをたずねると、いずれの教えにもその根底には共通する真理があるようです。それらが解き明かす救済を今日的にいえば、個々の潜在意識という幽体の記憶層の浄化による、人間の神性、仏性の顕現にあると云えるのではないでしょうか。
人間は創造者である分霊そのものが肉体にあって、たゆまず自己創造をつづけている。その言葉はとても信じがたいものがありますが、信じがたい想いを乗り越えて自己の意識に光の窓をあけることが出来るのも自分自身の意識の働きによるといえるようです


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『神と人間』 著者・五井昌久 白光出版
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