心の中で生き続ける事    

普段は宗教に対する関心は薄いと自認しながらも、神社仏閣に参じては真摯に礼拝するといった精神は、ほとんどの人の中にある心根ではないでしょうか。でも、宗教は非日常的な事であるという感覚が薄れることはなく、一般的には宗教という言葉に対する心の受け皿もどんどん狭くなっていのかも知れません。宗教的教えでなくても、何かを信じて心がそれを受け入れることは、信じたことの反映が心の中で働くことになります。それは自分では意識しないとしてもです。
昨今は情報番組などでも、スマホとかラインという言葉をよく聞くようになりました。
私は使ったことがなくて全くわからないのですが、若い人たちにとっては信頼度の高い必需品であるとすれば、人それぞれの価値観は時代背景によって変化することを感じます。
でも、信じるという行為は想念の働きをともなうので、その内容は千差万別という事になると思います。プラスにもマイナスにも働くのが想念だからです。
信じるということは選択肢を一定の波動圏に固定化する事でもあります。その波動圏がどういう階層なのかみえないだけに、正しいか否かの判別はできなくて、何を信じてどんな行動に結びつけるかは、自己責任という事になります。
一口に宗教と表現してもその教えが波及する働き(波動)は見えません。
同時にこの世には未だ絶対の確信がないので、何でもありがまかり通ってしまうところがあります。人の数だけ異なる想念の世界が生まれるといえるのです。人それぞれの価値観を中心にして、想念世界を創り上げてゆくと考えられるからです。
例えば同じ講演や講義を聞いても、印象に残る部分や、納得する部分が皆同じとは限りません。それはすべてのことに言えることです。
“触らぬ神に祟りなし”という言葉があります。それはむやみに見えない(幽界、霊界)世界の話に近づくことは危険であるという戒めのようです。確かにその方が無難ですが、それだけでは全方向的視野から答えを得ることが出来ないはずです。
そして生命の本質に対する確かな認識があれば、ことさら日常の中に宗教という形式や言葉を持ち込む必要はありませんません。教えが正しいものであれば、時場所を選ばなくても、光明は心の中で生きて働き続けるからです。
見えない働きに対する解明は、知的探求と共に霊的探求という両面に及びます。
でもそうした解明を待つまでもなく、私たちは内在する不可思議な働きによって、生かされている・・・といえるのす。
その内部のみえない働きが大きいからこそ、解明があいまいになっているようです。人間生活の進歩向上を可能とする働きもその未解明な中にあるのですから何とも不思議です。人類の未来が、退化と進化という二つの道に分かれているとしたら、誰がそれを確認できるのでしょうか。誰もできません。でもその道を間違わないように明らかに照らし出す鍵は、生命の根源の働きが人間生命を生かしていることを信じる謙虚な思考にあるのではないでしょうか。
うつ病という心の病気が問題視されるほどに、心や精神の働きは精神分析だけでは語り切れない、複雑な要素があることが浮かび上がっています。そうした心の病を非難するのではありません。
うつは心の風邪であると軽く考えることがいいのかどうかも私にはわかりませんが、誰もが心の内部に、自覚するしないに関わらず、不調和なマイナス想念を抱えているものです。でも性格的な修正は自分自身でもなかなか困難といえます。当然、他人様の思考や想念を周囲が変えることは出来ません。自分はどう生きるかが問題です。普段から、正しい死生観を持って前向きに生きることが大事になります。
正しい死生観とはどういうものでしょうか。
「死」をもってすべてが終ることはない、ということは生命が秘めた真理です。 肉体は生命の本質からみれば、上着のようなものであり、その上着の下には幽体という下着があり、更には霊体、神体とつながっているといわれています。私たちが考える「死」は、肉体という地上生命が地上を去ることであり、物質体が亡くなることです。でもそれはすべてが無に帰すことではなくて、肉体に内在した魂が幽体、霊体となって、内在波動を体現する世界に移行することであるのです。
人間は幾度もこの地上に生まれ変わりを繰り返しているといわれています。幾転生と知れずの繰りかえしを経て、再びこの世に生まれたのだとしたら、そろそろ輪廻転生からも卒業したい気持ちにもなります。そんな気持ちに同感する人もいれば、いつまでも長生きしたいという人もいます。どちらにしても次へのステップを容易に踏み出すために、何が起ころうとも、命がある間は正直に懸命に生きなければならないのは皆な同じです。
肉体という限りある人生期間をどう学び、どう生きたかは、すべて幽体に波動記録されているといわれます。それがごまかしようもなくそのまま顕われるのは、肉体消滅後のことです。その次なる段階の移行先を決めるのは自分の意識想念である事になります。肉体世界の都合が利かない、公平な一貫性ある法則が働く段階に進むということになります。
そこに死生観をおろそかにはできない理由も存在します。でもその法則が大いなる慈愛からなることを信じる人にとっては、移行先へスムーズに導いてくれる霊人たちの存在に出合えるという保証もあるようです。それを肯定することが出来れば、死を怖れる理由は本当はないことになります。
信じるという能力が私たちに与えられた恩恵であるとかんがえれば、何を信じて何を自分の中に構築するかはとても大事であることになり 先端という今が過去になる時、更に先端の道がうまれている、そうした瞬々を創るのが一人一人の責任であるとすれば、いつの時も進化する未来への道は自分たちの中にもあるはずです。信じて努力するところに道は出来るともいわれています。どんな道であれ、小さくとも確かな一歩をたゆみなく創るのが今を生きる者たちの責務であるとすれば、精神面という見えにくい部分をおろそかにはできないと思うのです。
人は誰でも肉体をもって生まれた以上は、長所も短所も持ち合わせているのであり、そしてどんな人生にも必ずいつの日か終焉が訪れます。この2つの事をセットで考える時、どんなに平凡な人生であっても、自分しか生きれない人生を生きているという、大きな自己肯定を持つことができます。
どんな人生であっても、誰かに認めてもらわなくても、その人ならではの命が輝いた、頑張った、そんな場面や時間はたくさんあるものです。恩恵をいただいて生きている自分、それを知るのは、心の眼を開いて、自然界に充満するゆるぎない光明の働きを観る時です。無償の恩恵に満ちています。見えないものを見る発想によって感謝の種をたくさん見つけることが出来ればうれしくなります。そうしたことだけでも魂の成長になり波動の記憶に大きな違いが生まれるのです。
私たちの内面には、汲めども尽きない自湧の光があると聞きます。
人間とは本来、永遠の生命を得て進化し続けるものであるからです。
それ故に、生命の永遠性を教える宗教が生まれています。その道は、ただお願いをして願望が叶えたいとか、苦しみを取ってもらいたい、それ以上でも以下でもないという思考とは少し違うと思うのです。でもそういう求め方や救済を願う気持ちは、神仏とつながる入口となります。
真の宗教指導者とは、自らの因縁生を、何らかの方法で浄化し昇華した人であり、その結果として神体と一体化を果たした覚者のことです。内奧の真理である、人間の実相を顕現し体現していることになります。
その結果、霊的に、天と地をつなぐ光明の柱を立て、光のエレベーターを創った人がいます。
世界平和の祈りの提唱者である五井昌久氏です。
その光明エレベーターに乗る方法を、“消えてゆく姿”と “世界平和の祈り”の教えで明らかにしています。
五井昌久氏は、生前中、苦しい時は自分の名を呼びなさいと、自分を師と仰ぐ多くの人達に対して話していたそうです。それは助けを求める人の苦しみを自分の身に受けることであるといわれます。多く人々の因縁や業を自身の肉体に受けて浄めるということは、生易しいことではなく、真の神霊力の発揮なくしては、自分が倒れてしまうほどの厳しいことだったと聞きます。
“五井先生”とその名を呼ぶだけで、光のエレベーターに瞬時に乗れるから大丈夫というわけです。五井昌久氏自身が保障された称名効果は今も生きていることになります。
そしてもうひとつの真実は、潜在意識階層の奥という、すべての肉体的記憶を超えたところに、本心という輝ける永遠の座がある、それが人間の本体であるということです。
それは大生命の光の一筋が人間生命に宿っていることでもあります。
五井昌久氏は「人間と真実の生き方」という短い文章の中に簡潔に表現されています。 普通に日常の生活を完うしながら、誰もが神意識に叶った生き方が易しく行える、そんな道があるのです。
宗教が説く救済とは願望の成就や目先にある苦しみからの解放だけで終わることではないのです。宗教の教えの根本は、波動的にとても深いところに根ざすものです。
本心が霊妙な高級神霊の波動につながっているという事実なしには成り立ちません。
それ故に私たちの精神の働きと可能性はまだまだ未知数という事になります

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