般若心経の解釈について参考となる図書から

  『愛、平和、祈り』 著者 五 井 昌 久     

質疑応答 P197 
[問] 空、無想、無作という言葉がありますが、どういう意味でしょうか?
[答] 簡単に答えましょう。無想というのは、こうなければいけない、こうしなければいけない、ということを思うな、ということ。想わないということです。
無作とは構えてはいけない、ということで、無想も無作も否定ですね。ところが空は否定でもなんでもない、絶対なんです。空が元にあるわけです。
チョコチョコと小智才覚を働かせるな、ああしてはいけない、こうしてはいけない、構えるな、空になれ、というわけです。三段階になっています。
ところがそこに消えてゆく姿が入らないと、空までなかなかいかない。
消えてゆく姿をハッキリ使ったのは私以外にはないんです。消えてゆく姿を世の中に出したこと、守護霊守護神をはっきり世の中に出したこと、これは私を使っている神さまの大きな働きです。 

だから無想無作のところに更に消えてゆく姿をつけて空になれば、それは完全なる悟りの姿です。悟りに行く道です。

[問] うつるもの おのずうつりておのず消ゆ おのれは澄みてただひそかなり 
   
というお歌のみ心を教えていただきたいと思います。

[答]
 これはどういう歌かというと私の心境なのです。
皆さんもこうなったほうがいい。というのは、この世に現われてくるものはみんなうつるだけなんです。この世は現世(うつしよ)浮世ともいい、肉体は現身(うつしみ)ともいいます。ただ現われているにすぎない。この肉体というものは実在じゃないんです。
実在はなにかというと、神のみ心そのもの、神の子である霊、神霊が実在であって、神霊波動がここに現われている。
神霊波動がまっすぐ現われていれば、これは文句なく人間はみんな神の子で立派なんだけれども、神霊波動が神界から肉体界に現われるまでに、波動が随分違ってくる。
微妙な波動なのに肉体界でずーっと粗い波動になる。
(中略)
本当は人間の本性は完全なんだけれども、完全に到達するまでは不完全です。不完全なものはあくまでも不完全だけれども、それは現われてくるだけでどんどん消えてゆく。消えてゆくと本質そのものが現われる。 (中略)
だからうつるものは自然の法則で自ずから消えてしまうのです。 うつるものおのずうつりておのず消ゆ、なんです。本当の自分はただ光り輝いているものなのです。
これは私が体験したことなのです。(中略)
嫌なことが現われると、つかんじゃって嫌だ嫌だと放さない。放さなけりゃいつまでもうつってくる。放しさえすれば、どんどんうつって消えちゃう。消えるに従って本当の自分の真我というものが現れてくる。真我は静かに輝いている。 昔から仏教では「把われるな、空になれ」というけれど、言葉では易しいけれど、実際に行うためにはなかなか難しい。
そこで私は把われてもいいというんです。怒りにとらわれる、恐怖にとらわれる、嫉妬にとらわれる、憎い想い、悪いことにとらわれる。
把われたら把われたものをそのまま世界平和の祈りの中にもっていきなさい。世界平和の祈りをしていれば、把われを世界平和の祈りの光明波動で消してくれる。
把われちゃいけないといってもとらわれる。人間は聖者じゃないから把われても仕方ないから、把われたらすぐに平和の祈りをしなさい。平和の祈りの中で洗濯しなさい、とこうやって教えている。
わざと教えをさげているのです。
お釈迦さまが現われてキリストが現われてもこの世界があんまり幸せになっていない。なぜかというと難しすぎた。あんまり真理が高すぎて現実が低く離れすぎているからどうしても出来ない。空になれ、無為にしてなせといってもなれません。
そこで私が消えてゆく姿で平和の祈りという梯子(はしご)をかけ、エレベーターをつくって、さあ消えてゆく姿ですよ、ああこれは消えてしまった、これでよくなるんだ、とやっているうちに、しらないまに空の世界に到達しちゃう。
そういうふうに、梯子段あるいはエレベーター、エスカレーターをつけている。

だから消えてゆく姿で世界平和の祈りさえやっていれば、あんまり他のことを考えなくとも自ずから自分の幸せはくるんで、あまり考えて考えにとらわれると、またそこでもたもたします。考えて考えに把われたら、とらわれた想いをまた世界平和の祈りの中に入れる。
何度もそうやっているうちに、把われが、千のものが百になり、百のものが十になり、十のものが一になってくるということで、そこで把われがなくなります。
霊界にいっても自由自在になります。肉体界は把われることが多い。しかし、霊界に行きますと、パッと把われがなくなります。それは守護霊守護神がもっと身近になりますから.。

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天地の通りをよくしよう(P133〜134) 

大生命の至上命令に忠実か
そこで、宗教というのは、その流れ(大生命)をはずれて勝手に動いている想いを、一遍大生命の法則の中に入れる。どうしたら入るかといったらまかせるよりしかたないでしょ。
自然に朝起き自然に夜ねむる。
何時にねむろう、何時に起きようと、如何にも自分で寝て自分で起きているような感じがするけれども、起きるのなんて、スーッと自然に目が覚めるのですよ。
地球科学で電磁場というのがあります。つまり、電気が流れると、そこに必ず磁場と電場が生じるのですね。
それと同じように人間の想いというのは、幽体という磁場、つまり想いの波が流れる場所があって、そこに想いが一杯あるわけです。
肉体にも磁場があり、霊体の磁場も身体の磁場もあるわけです。神体の磁場というのは、ズーっと大きく宇宙に広がっているのです。そうすると神体の磁場で大生命からの光が流れて、それが働きとなるわけです。
それが霊体を通り幽体を通り、肉体にスーッと流れてくれば、神のみ心がそのまま伝わってくるわけです。神さまの行いが素直にそのまま出来るのです。
それが霊体まではくる、幽体でもってグチャグチャと思っていると、想いがいっぱいつまっているから、光が入って来ないんですよ。光が屈折してしまう。ズレちゃう。
そうすると幽体、肉体に溜まっている、詰まっている想いが出てきて、無為にしてなさないで、ああしよう、こうしよう、といつもいつも思い巡らしながらやっていると、賢くない生き方になる。 
この自分の幽体で思っている想いを、神サマーって、神さまの中へ投げ出しちゃうわけね。そうすると、想いが守護霊守護神の霊体神体を通して、自分の神体の中に入っていく。神体に入っていくと、いうなれば穴があくわけです。
通りがよくなる。すると神体の磁場で行われている命令が生命の働きが、スーッと肉体まで通っていくわけです。 (後略)

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上記のお話は、磁場と波動の関わりなど、科学的根拠によって歴然と階層を異にする神界、霊界が存在することが説かれています。
そこから発する波動を肉体身が受け留められることは理想ですが、肉体に近い幽体磁場に溜まった業想念が邪魔をして、霊妙な波動の光が入らない、光が屈折してしまう事が起こると説かれています。
全託という言葉は、努力しない依存心と勘違いされます。
でも本当の全託とは、確かな信仰心を持って、自己の業想念に対して不動心を目指そうとする精神的行為なのです。
過去の歴史上有名な宗教家で、自ら全託の生涯を完うし、民衆救済の道を開き、念仏のお教えを説いたのが、法然上人であり、法然上人を師と仰いだ親鸞聖人です。
そのお二人の生涯が並外れた修行の連続の上に築かれた全託の道であったことは周知の事実です。
この頁では著書の本文の前後を省いてあるので、説明文も全部を記載しきれていません。
補足すれば、私たちが、種々の誤った想念の蓄積を消し去ってゆくことは、守護霊さんが望むことでもあり、私たちが意識を守護霊さんの存在に対して開くことにより、守護霊さんがより守りやすくなる事が説かれています。
何事も肉体人間の力だけでは成し得ないという真実がある
からこそ、開かれた慈愛と赦しの教えであると想います。
 

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