著書『神と人間』に学ぶ生命の本質 

最近は様々に伝えられる情報から、生命に関する諸研究の深度が増していることを感じますが、研究が進むほど、
人間生命への考察を肉体の働きだけに限定することには無理があることが判明してくる、ということがあるのではないでしょうか。
なぜなら人間世界は、生命そのものの謎を全解明できているとは言いえないからです。
そこで、人間の真実 を説きつづけた宗教家五井昌久氏は、どのように生命の本質を解き明かしたのかを、著書 「 神と人間」の文章をお借りして下に記しました


 『神 と 人 間 』  三、実在界・霊界・幽界・肉体界
さて、前章においては、総括的にやや抽象的に人間の説明をしておいたが、この章では、もっと具体的に突き進んで、人間とはいかなる者かを述べてゆきたい。 (〜略)
人間は本来神から来た光である。光は即ち心である。神は、すべてのすべてであり、無限の智慧、無限の愛、無限の生命であるけれど、神そのものが神そのままの姿で動いたとしても、無限はいつまでも無限であって、有限にはならない。一がいくら動いてもやはり一なのである。 無限が幾つかの有限になり、一が自己分裂して二になり、四にならなければ、形の世界は創造されない。この光そのものである神がある時、突然その統一していた光を各種、各様相に異なった光として放射した。このときから神の創造活動が始められたのである。

神まず天地に分かれ、そしてその一部の光は、海霊(うみだま)、山霊(やまだま)、木霊(こだま)と呼ばれ自然界を創造し、後の一部の光は直霊(ちょくれい)とよばれて人間界を創造した。ここにおいて神は一であり、多であることとなり、一即多神となるのである。
さて人間の直霊(ちょくれい)、即ち神の一部の光こそ、私が前章より書きつづけている人間そのものであって、このときはいまだ業因は生じていないのである。この直霊が動き出でて各種の光の波を出だし、霊界を創り、各分霊となり、各分霊が直霊より分けられた光(心)により、創造力を駆使して幽界を創り、肉体界を創造して、ある時は幽体という衣だけ着て幽界に生活し、ある時は幽体を着けたうえに、肉体という衣をつけて肉体界の創造活動を営んだ。
霊体が中味だとすれば、幽体はシャツであり、肉体は上衣である。この三つの体はいずれも光でできているのであるが、肉体はその光の波が非常に粗く、流れる速度も遅く、その波は重い。分霊(わけみたま)は精妙な光であり、本来自由自在に動きうる波動をもっているのであるが、肉体界に出入りするうち、いつとはなく肉体の鈍い動きに同化されてきて、しだいにその精妙さが失われてきた。
はじめ、肉体界をつくり、そこに神の創造を形づけようとして活動を続けていた各分霊(わけみたま)は、さながら繭をつくって、その中に閉じ込められた蛹(さなぎ)の如き状態に陥り、しだいにその光波が濁っていったのである。
やがて、分霊(わけみたま)は自分たちの親である直霊に向ける念を疎(うと)んじ出し、それまでに幽体と肉体に蓄積されていた光の波(念)だけに重点を置いて、楽な創造を営もうとしはじめたのである。
ここにおいて人間は、肉体界の生活を主とした自己限定をするようになっていったのである。分霊の創造の始めにおいておこされた想い(光の波動)は、神より来る本来因果(真善)であったが、肉体界に自己限定を始めたころより、生じた想いが業因となって、人間の悲劇が始められたのである。

即ち、自己限定した各分霊は、お互いの不自由を解放しようとして、縦である直霊に向かわず、横につながる兄弟姉妹である分霊魂から、その自由を得ようとし始めた。即ち縦取りをしないで、横取りをしはじめたのである。そして、幽体及び肉体に蓄積された想い(知識)並びに腕力を使い合って、闘争の歴史を繰り広げていったのである。
しかし時折り、自ら閉じ込め、今は閉じ込められた肉体の隙間から、神の顔をその光明をちらりと観ては、蓄積された想念の中から、かっての自分の光を見出し、直霊にむかって救いを求める絶叫を挙げたのである。 これが信仰の始まりであった。(〜略)
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本文内では図解入りで説明がなされていて、より理解しやすくなっています。でも私たちは幽体とか霊体という言葉を聞かされてもそれを実感できません。
頭で分かろうとしても、なかなか納得できないという事はあります。
でもいつかきっと未来に、宗教が説く永遠の生命原理と、生命科学の理論が、一点で交わることが、実現するかもしれません。
次の文章からそうした可能性があることをうかがい知ることができます。

同じく 『神と人間』  三、 実在界・霊界・幽界・肉体界 からの抜粋です。
分霊が最初に幽体、肉体を創造したのは、神が天地、山、海、草木を創造し、動物の創造を司る神霊が動物を創造したその創造過程が、霊、幽、物質としだいにその光波を物質化した。いいかえると、エーテル、微粒子、原子(電子、電磁波)としていったと同じ原理で、直霊が各分霊に自己の光を分け与えて、肉体人間の創造を、山霊、海霊、木霊、動物を司る霊等と協力してなさしめたといえるのである

したがって人間(霊)が光波ででき、肉体が原子でできていることと、自然界の法則とは、範疇の異なった、等しい原理によるといえよう。ただ大いに異なることは、山海草木も動物も創造されたものであって、自己意識、我(知性)を持たぬが、人間は創造者である分霊そのものが肉体にあって、たゆまざる自己創造をつづけていることである。これは重大なることであって、釈尊かの言葉に 人身得難しとあるのは真(まこと)である。(〜略)

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上記の文章から 人身得難し、肉体界に生命をいただいている今の大切さが分かります。そして今という時々が、生命の本質を理解し飛躍の道を得る時であることを教えています。
でも、頭の中でイメージし理解をしようとしても、平面的にしか理解できません。そんな私達の理解の及ばない事や真理について、正しく知覚できる人たちはいつの時代にも存在しました。
そうした賢者、覚者とよばれた人達が先駆けとなり、常に新しい道が切り拓かれてきた事になります。そして私達の意識に新しい窓が開きます。その可能性はこれから先も、まだまだ残されていると思います。
そうした私たちの意識変化は、最先端科学の研究成果からもたらされるのかもしれません。そして
宗教が解き明かす真理からも得ることができるのだと思います。

以下は『神と人間』六「正しい宗教と誤てる宗教」からです。
先の章と重複するが、人間とは肉体ではなく、霊そのものをいうのである。
肉体とは霊の容(い)れ物であって、霊の心のままに行動するものなので、ちょうど自動車が運転手によって走っているように、霊の運転によって種々の行動をなすのが肉体なのである。(略)
これを物理学的にいうと、霊体は非常に細かい周波数を持つ波長体であり、肉体は粗い波長と持つ体であり、幽体はその中間の周波数を持つ波長の体である、ということになり、分霊はその三つの体を自己の体としているのであるが、肉体に入るには必ず幽体をつけてゆかねばならぬのである。それは霊体から肉体に移るには、波長の周波数があまりに違いすぎて合わぬからである。
幽体は霊と肉体を結ぶ役目を持っているのであり、霊の念と肉体人間としての脳髄の想いとを、その体に録音しておく役目をもっているのである。(この場合幽体を念体ともいう)(〜略)

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上の文章から、人間とは肉体、幽体、霊体、という波動の異なる体を持つ生命であり、いのちの本質という見えない真実は、肉体生命の説明だけでは全容が見えない事を知ることができます。 でも人類全般の常識は、平均寿命約80年プラスアルフアーという有限な生命を、人間生命と規定しているのが現実です
では霊界や神界という世界が存在すると仮定した場合、人間とそうした世界を分ける大きな隔たりは何なのかという疑問が生じます。
その場合上記の五井昌久氏の文章から解ることは、神と人間とを隔てるものは、距離や空間という尺度ではないことは確かです。
遠い時代をさかのぼれば、数多の聖賢、聖者の苦難の足跡があります。そうした人たちが目指した目標や残した教えには、共通するところがあるのだと思います。

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『神と人間』 著者・五井昌久 白光出版
お読みいただいたき 有難うございます
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