肉体人間観    『霊性の開発』を妨げる想念の誤り        

太初(はじめ)に言(ことば (道))ありき、
言(ことば)はすなわち神なりき、

と聖書にあるように、太初はみんな神様の中にあったのです。
それが、肉体世界が出来て以来、神様の世界と肉体の世界とを全く別のものとして観たり、神様の世界というものを全然考えず、肉体世界だけを実在と誤って考えてしまった無智無明の想念が、今日の人類の不幸となってしまったことを、人間はもっと落ちついて考えて見なければなりません。

上記の文章は五井昌久氏の著書、『霊性の開発』
「自由自在心について」内の小見出し、

―はじめ人間は皆神の中にあった― 内の文章です。
最初はそれほど気に止めずに読み過ぎるたのですが、再度読み返してみると、
凄いことが書いてあるという驚きに変わりました。
なぜなら無智無明の想念という言葉が使われているからです。
ではそれほどまで厳しく指摘される想念の間違いとは何でしょうか。


「神様の世界と肉体の世界とを全く別のものとして観たり、
神様の世界というものを全然考えず、
肉体世界だけを実在と誤って考えてしまった」

上記が無智無明の想念である、という指摘となっています。
人類が間違い、今も現在進行形の間違いについて、
著者は無智無明の想念と厳しい表現を用いています。
でも現実は、想念に誤りがあっても気にすることなく生きられます。
何だそんなことの何処が?・・・という反論があるのではないでしょうか。

では無智無明の想念という指摘はどこから生まれえるのでしょうか。
著者が厳く指摘するのは、生命に関する認識の誤りです。
ひとり一人の自分を含む、人類全体の未来に生命を輝かすということが叶わないからです。
では私たちがどんな想念を持って生きるべきなのでしょうか。
文章は次のように続きます。

「釈尊はそれを悟られたので、この世界はすべて空(くう)なのだと、一度この現象世界、現れの世界を否定してしまって、それに附属している各種の想念、欲望をも一切断ち切ることを教えたのです。
人間が今迄、自分だと思っていたのは、習慣的想念なのです。
自分が生命だと思っていたものは、肉体という器(うつわ)内に限定していたものであって、生命の本体ではないのです。 
海は波そのものではないのです。波だけをみて、これが海だといったらおかしなものです。波は想念であり、海は生命なのです。
人間の生命を肉体だけに限定して考える誤り、想念を把えて 心である、とする誤りこの誤謬を一日も早く改めなければ、人間世界を真実の世界にすることは出来ません。
人間よ、想念を静めて本心をみつめよ、
ひたすら神(守護霊、守護神)を呼びつづけ
本心開発の加護を願え、
さすれば、その人は自由自在心を得ん、
と私はいいたいのです。
守護霊は貴方の頭の上に、守護神はそのまた上に、貴方の本心開発の為に、真剣になって過去世からの貴方の誤った想念行為の波動を、光の波で浄めつづけているのです。
守護霊守護神に感謝しつづけていれば、必ずその神霊の存在が、貴方に感得出来るようになるでしよう。」
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どんな時も守護霊さまに守られていると信じられることは有難いことです。
何があってもきっと大丈夫という安心感を持つことが出来ます。
心の中で一生懸命に守護霊様を呼ぶ時、迷い道から脱する答えが知らない間に自分の中に入っている、そんなことがあるかもしれません。


参考図書 『霊性の開発』 著者五井昌久 白光出版   TOP