この岩は見て直ぐに分かる成層の砂岩である。風化が進み丸みを帯びてきており、ほぼ中央部で切り離された状態になっている。

ここに置いた約20年前には外観上は一体ものであったが、
今は完全に2つに分かれている。
(峠入口の石橋手前で撮影)

PHOTO-17 成層であることが見て分かる

この岩も砂岩ではあるが風化し土になる直前の状態である。
敷石にはこの種の石は使われていないが、目に見えない程度での風化や浸食は起こっていると思われる。
    (アマヌマで撮影)

PHOTO-15 風化している砂岩

川の水により侵食した砂岩。成層のため同じ方法に浸食している。
 (峠入口の石橋から撮影)

PHOTO-16 水で侵食した岩

峠に敷いてある石には年輪のようなものが見られるが、これは薄い岩と岩の間に境界面を持つ石で、層理面の中央部分が何層か人馬により物理的に消耗し、写真のような年輪に似た模様ができたものと思われる。
(峠内敷石を撮影)

PHOTO-18 層理面特有の模様

 砂岩にも色々あるようです。石畳の石や採石場所の石を観ると、同じ砂岩でも外観には大きな違いがある。

以前から敷石を歩いている時に気になっている事があった。

石の表面に真円に近い丸い穴のようなものが開いている石があるのだ。土砂等が入っているために、それが何なのか解らなかった。
今回、その石を切り口とし調べたので記載する。

 黒沢峠周辺の地層は第三紀層で、2300万年前頃地域一体が海水に埋まり、火山噴出物や河川の土砂礫などが長い年月堆積され、やがて再び水面上に隆起してできたといわれている。峠周辺の地質は大きく見た場合、金山層(礫岩、砂岩、凝灰岩等の層)と中新世安山岩類の層でできているといわれているが、峠の敷石に使われたものは全て砂岩(石灰質砂岩)と考えられる。

採石場所の岩(粒子)から判断すると、Bが最も河口側でA、@の順で河口から離れた海底と推測される。

 黒沢峠の敷石工事は天保10年(1839)、安政5年(1858)、慶応3年(1867)の3回に亘り行われといわれている。天保6年(1835)から行われた越後・米沢街道の悪路を改修するために、36,800人以上の人夫をかけて行われた悪路改修事業の一部である。(「小国の交通」)。

  天保10年からの1回目は、市野々側〜古屋敷手前までの間について敷石工事が行われた可能性が大きい。
上図B(他にもあるものと思う)から採石し敷いたものと考えられ、採石場所の岩塊には鏨(たがね)痕が見られる。また、楢ノ木平より東側の石の大部分は、層になっておらず一体ものである。

 慶応3年(1867)の3回目は、荷替場に至る迂回している部分を150間の新道を切開し改修(現在敷石はなくなっている)しているので、残る古屋敷〜集落間は安政5年(1858)からの、2回目の工事で石敷工事をしたものと推測される。この間に敷いた石には孔が見られ、A・Bの採石場所の岩塊にも同様の穴があることから、ここを主にして採石したものと考えられる。昭和48年頃の林道工事によって祭り広場〜集落間の敷石は無くなっているが、大曲などには一畳近い平らな石があったことを記憶している。

  石を敷く前の約200年間のルートは現在と同じ(正保2年の絵図より)であるが、敷石のない峠道であり、更にそれ以前の黒沢峠は現道より北側のルートであった。又、昭和中期までは集落端から祭り広場の間にも敷かれており、市野々側を含めると敷石は現在の2倍近くあったものと考えられる。

■ 山形大学名誉教授 山野井 徹・他
■「山形応用地質」第32号(2012年)掲載予定    
保存会の活動 

孔径はφ10〜80mmで大小10個の孔が開いている。
孔のある敷石の数は多いが、これだけ多く開いているのは他にない。

φ10、20mmの小さいものは深さ40mm、他は全て貫通孔である。

B古屋敷を過ぎると小さい沢に出る。その周辺にも採石した跡が見られる。ここの採石状態は@Aとは異なり、穴(孔)が見られず、また、層をなしていない。鏨(たがね)を打った跡が見られる。下記PHOTO-13のスプーンカットは人工的(或いは侵食?)なものと思われる。

古屋敷

林道

一里塚

楢ノ木平

ニラ畑

林道

座頭転び

祭広場

B

A

@

採 石 場 所

第3回目(慶応3年から)の工事が150間の長さで荷替場近辺(荷替場と祭り広場中間
の大曲)
で行われたと推測される・(現道路工事により敷石はない)。

第2回目(安政5年から)の工事が行われた。岩塊に孔あり、敷石にも孔が見られる。

第1回目(天保10年から)の工事が行われた。岩塊に鏨痕あり、敷石に孔は見られない。

採石場所

粗粒砂で一体、岩に鏨痕あり
Bは最も河口側である

細/中粒砂でほぼ一体、岩に孔あり

細粒砂で成層、岩に孔あり
@は河口から離れた海底である

B

A

@














PHOTO-14 鏨(たがね)を打った跡

PHOTO-13 スプーンカット模様

PHOTO-8  岩魂に開けられた穴

PHOTO-7  崖上の岩魂

Aここは「ニラ畑」と呼ばれる場所で、「座頭転び」の直ぐ上に「ニラ畑」に通じる昔の道跡がある。「ニラ畑」には畑か田の跡か、人工的な地形が杉林の中に存在している。
敷石道からは古道を行くと約300m位離れている場所であるが、砕石場所としてのスケールは一番大きい所である。現在は、平成初期に開削された林道を行くと数分で「ニラ畑」へ出る。

PHOTO-12  竹を通してみたら貫通孔である

PHOTO-11  岩塊に開けられた穴

PHOTO-10  貫通孔を通り生育の草(つる)

PHOTO-9  ニラ畑 

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ー まとめ −        一部推測も含めてまとめると次のように考えられる。

1.以前は峠全長に亘り敷石が敷かれていた。黒沢峠周辺の山は砂岩が多く、敷石に用いられている石も砂岩
   (石灰質砂岩)である。又、成層(楢ノ木平より下)のものがある ため平らな敷石が多く、採石は他の峠より
  容易な環境であったといえる。

2.現在の地層ができたといわれる二千三百万年前、下図「採石場所」のBは最も河口に近い場所で、A、@
  の順で河口から離れた海底で、水の流れ少ない場所であったと考えられる。

3.採石場所は3箇所以上あり、道脇直ぐの近い場所もあるが、約300m程度離れた場所もある。他に道脇の
  転石を用いたと考えられる。

4.敷石工事の順序と場所の関係については、岩塊に残された鏨跡や敷石の孔の状態から、第1回目の天保
  10年からは、市野々から古屋敷手前まで。第2回目の安政5年には古屋敷から黒沢集落まで。第3回目
  の慶応3年には峠の西側と荷替場近辺(荷替場と祭り広場中間の大曲)の工事が行われたと推測される。

5.採石方法は「鏨(たがね)」を用いたものと思われる。「桜鏨(さくらたがね)」も考えられるが孔の状態から説
  明が難しい。

6.最も重い敷石は1枚300kg以上あり、主な運搬手段は「背負子」と「土橇」など。また、冬季間は雪の上を
  橇で運んだ可能性がある。
 
 
黒沢峠の敷石について 
敷石についての調査結果 
 

黒沢峠の敷石(採石場所など)  

1.黒沢峠の敷石工事について

PHOTO-5 PHOTO-2赤枠拡大

孔は真円で色々な角度から開けている。
   (敷石表面側から撮影)

敷石裏面側(土接触面)から撮影

PHOTO-4 PHOTO-2赤枠拡大

4.採石・運搬方法について

<孔を開ける方法>
 敷石や岩の孔が人工的に開けられたものと仮定して、その方法としては「桜鏨」を用いた可能性がある。「桜鏨」は桜の花に似た鋼に柄が付いており、金槌で柄を打ち付けると鋼部分が回転しながら孔を開けていく道具で、孔の中に水を入れ打ち付けながら掘り進んでいくもので、数メートルの深さまで開けることができ、つい最近まで使われていたとの事である。(前保存会長 安部利男氏、他)
 この事をお聞きし理解できなかった一つの疑問が解けた。それは、岩塊には色々な方向から孔が開けられており、別な孔に突き当たっているものが多いということである。砕石を出すためにこうした開け方をしていたと考えられ、「桜鏨」で開けたとすれば必要な手段であったと思われる。

<孔を開けた後に>
 孔を開けた後の切り離す方法については不明である。
 Bの鏨(たがね)については一般的な方法であり、孔を開けて採石する以前の方法であったと思われる。大きな岩塊から切り離すには、「ナマ矢」と言われる楔(くさび)を打ち込み、徐々に亀裂を拡大させて剥がす方法が考えられる。鏨(たがね)を使い形を整えることは、ここの石の加工性を考えると比較的容易であったものと思われる。(実際に鏨を使い石に挑戦してみたが、記したたほど容易ではなかった。石がポーラスなため鏨の衝撃が吸収されてしまうのだ)このような石を加工する場所には、石切丁場があり石工職人が金槌の音を響かせていたものと思われるが、その痕跡は見つかっていない。

<運搬について>
 運搬方法についても推測であるが、当時は、現在では考えられない重いものを背負っていたようである。「大谷石」の「小出し」と呼ばれる職人たちは、1本が150kgもある石を「背負子」を使い運んでいたとのことである。
峠の石は最も大きいもので、145x50x20cmあり嵩密度は2.1g/ccであることから、1枚305kg程になるが、この大きさは稀であり、最も多いものは80〜130kg程度である。

 採石場から峠道までの運搬は、そのようなことを考えると「背負子」を使い運んことも考えられる。他に「モッコ」と呼ばれる運搬手段で、2人1組になって、棒の中間付けた縄で編んだ入れ物に石を入れて運ぶ方法もあったが、坂道などではバランスを取りながらだと難しかったのでないかと考えられる。
 「ニラ畑」のように峠道から300mも離れている場所から、しかもアップダウンや斜面をトラバースするような道での牛馬の使用も難しいので、春先に、雪の上を人夫が橇を使って峠道まで出したことも考えられる。

 峠道から石敷きの場所までは、土橇(どぞり)を使った可能性が高い。土橇は雪上での橇と同じで、牛馬に引かせて土の上を滑らせる道具である。昭和の中頃まで伐採した木材の運搬などに使われており、この地方の山地ではよく使う運搬手段であった。
冬季間の雪上であれば、運搬は更に容易だったと思うが何れにしても推測である。その当時は、馬を使った運搬や農耕が盛んだったようで、文政10年(1827)の小国郷での馬の飼育数は990頭(牛36頭)であった。(「小国の交通」)。そのために越後・米沢街道には多くの「馬頭観音」碑が見られる。


 峠の敷石は角が丸みを帯びている。目に見えないゆっくりした速度で風化や浸食をしているのであろう。
毎年1μmづつ厚さが薄くなると、計算上は15万年位で峠の敷石はなくなることになる。

 
地質について話を伺った小国町役場 産業振興課 主事 渡部寿郎氏、せきかわ歴史とみちの館館長 佐藤貞治氏に感謝申し上げます。

2.採石場所について

採石場所Bの粗粒砂

採石場所Aの細/中粒砂

採石場所@の細粒砂

@〜Bの採石場所からサンプリングした砂岩の断面

粒径は計れないため肉眼での判断である。PHOTO-6

3.寄り道(黒沢峠の石の色々)

PH0TO-1  敷石についている丸い穴(敷いてある状態)
  PHOTO-2 孔の土を除いたもの(剥がした状態)

PHOTO-3 敷石の側面

土に接触している面は、石と土の境界が
良く解らなくボロボロした状態である。

敷石工事の順序と採石場所別砂岩の特徴・採石手段

@祭広場(峠入口)から入って直ぐの所に六本木沢があり、沢の南東斜面は崖になっている。その崖上に採石した場所がある。この場所は絶壁であり危険であるが直ぐ道脇であることから、運搬を考えると採石には絶好の場所であったと思われる。現在の崖は砕石したため更に絶壁になった事も考えられ、岩にはPHOTO-2に見られるような孔が何箇所も確認できる。ここの岩は成層であり、黒沢峠内でこれほどはっきりした成層は他には見られない。

 先にも記した通り、黒沢峠は敷石工事用材料に恵まれた環境であったことが容易に想像できる。
採石場所として自分で確認できた場所は大きく分けて3箇所あり、直ぐ道脇の場所や遠い所では300m程度離れた場所から
砕石している。 この峠内の採石場所はまだ他にもあると思われるが、よく分かっていない。