海 へ の 想 い

 皆様からの海に関する想いを募集しております。幼い頃や青春時代の思い出、海洋レジャー、また海洋汚染などの環境問題から未来への提言など、お好きなテーマより海への想いを綴ってください。また、お気に入りのお写真などもあわせてお寄せください。お手数ではございますが、メールよりお願いいたします。

 NEW僕の初夢(投稿者:荒川様) 

 あけましておめでとうございます。ことしもよろしくねがいします。

 僕はことしはとても楽しい初夢を見ることができましたのでお話します。

 以前、家族と横浜港に行きました。なによりも感動したのは岸壁に係留された氷川丸でした。とても80年も前の船とは思えないくらいきれいで、かっこうよかったです。
 そしてなんと、このあこがれの氷川丸が新潟港に寄港するという初夢をみてしまったのだー・・・!
 氷川丸入港時にはわしかぜ、海上保安庁巡視艇ゆきつばきが放水で出迎えました。
 僕は夢の中でとても感動しました。この夢は僕の宝物です。そう、僕だけの・・・
 翌日、氷川丸は新潟港をあとにしました。やはり、わしかぜとゆきつばきが放水し航海の無事を祈っていました。僕も夢の中で安航を願い、見えなくなるまで追いかけ、手を振りました。
 その朝はすがすがしく眼が覚め、餅を6個食べちゃいました。
 ありがとう氷川丸!ありがとうわしかぜ、ゆきつばき!

 その時の夢を僕なりに忠実に再現しましたので見てください。徹夜で書いたのだー!!


 

図.入港時

図.帰港時

 *荒川さん、いつも心のこもった絵や写真をご提供くださり感謝します。これからもよろしくお願いします。

20130116 広報 




 故加賀田副隊長も粟島航海訓練へ 

 昨日4月24日昼、故加賀田副隊長の月命日のお墓参りに隊長、通信長はじめ先輩隊員、事務局の方々と行ってまいりました。
 隊長がお墓を清め、蝋燭と線香を上られげました。昨日は天気は良かったのですが、風が強かったので蝋燭に火はつくかと心配しましたが、スムーズに着きました。いえ、それどころか強風を受けものすごい勢いで燃焼するではないですか。芯だけでなく蝋燭全体で高く太い炎を燃え上がらせました。
 誰かが言いました。「まさに副隊長の人生のようであり、魂そのものを見ているようだ。喜んでくれている」と。私もまったく同感でした。
 私たちは手を合わせそれぞれ副隊長に語りかけました。私は「副隊長、今年も活動の安全と充実を見守ってください」とお願いしました。
 そして隊長は「おい、粟島に一緒に連れて行くぞ!!」と語りかけ線香数本を手にしました。これを粟島航海訓練へ持っていくのだそうです。
 ところで隊長は活動中ものすごく怖いと思う場面がしばしばあります。海の上ではとても厳しいのです。私もよく叱られます。そのときは本当に震えあがってしまいます。時にはへこんだり、折れかけそうにもなります。一方、副隊長への先の語りかけのように計り知れない愛情の深さも持ち合わせているのです。このように隊長はものすごくおっかねえおやじの面と優しいかあちゃんの面を併せ持っているようです。だから叱られてへこんでもまた「もう一丁!!」となれるのかもしれません。まったくすごい指導者です。
 こんなことを書くと訓練で叱りずらくなられるかも知れませんが、いよいよ始まる海の季節、今年度もどうぞ厳しくご指導よろしくお願いいたします!!
 さて、激しく燃える蝋燭はお参りを終える頃にはなんとすっかり燃え尽き、そこには天を駈けのぼる龍のような形をした蝋が残りました。私は今回のお墓参りを通じ言葉や思考を超えた存在、価値、やっぱり言葉では言い表せないか、を感じました(体験)。そして
風は強く寒いのに、なんだか暖かくなりました。

 5月2日、3日私たちNPO新潟海難救助隊は春の恒例「
粟島春季航海訓練」を実施いたします。今回は新たに看護師による応急処置演習も予定され、実り多い活動が期待されるところです。

 八重桜は島の山肌を桃色に染めているかしら。

帰港

20090425 広報

関連記事:故・副隊長を偲ぶ会(20071006)




萬代橋スケッチ小林晋一先生作品展より

萬代橋スケッチ・小林晋一作先生作品展より
(2008年10月15日〜21日/新潟大和6階美術特別会場)


灯台記念日表紙

日本の海を愛し、守る!!


 CF:灯台記念日に寄せて(お知らせ/2007.10.30追加)


フォトギャラリー2007-03


加賀田副隊長のご冥福を祈ります

 せめて海に散れ、想いが届かば
      
せめて海に咲け、心の冬薔薇

空を染めてゆく、この雪が
    
 静かに海を眠らせて、貴方を眠らせる

                               (群青・谷村新司より) 



      
  ありがとうございました   さようなら

                           
UW

 


フォトギャラリー2007-02

 

日本海の夕暮れ


かたくなまでの一筋の道、愚か者だと笑いますか

 ひたすら夜を飛ぶ流れ星、急ぐ命を笑いますか

 生真面目すぎたまっすぐな愛、不器用者と笑いますか


いとしき日々のはかなさは、消え残る夢、青春の影

いとしき日々はほろ苦く、一人夕陽に浮かべる涙

(故・副隊長の大好きだった唄「愛しき日々:作詞小椋桂/作曲堀内孝雄」より)

(表紙20071011〜/画像:フォトギャラリー2007-02より)


フォトギャラリー2007-01

2007年夏の終わりの新潟の浜辺

図.2007夏の終わりの新潟の浜辺

 フォトギャラリーでは、皆様より海や船の写真や絵画などを募集しております。
 表紙などでもご紹介させていただきます!! 

(H19.9.26/提供:広報)


<幸福の木に花が咲きました!!>

幸福の木4
撮影日:6月10日

これは何でしょう?

平成17年2月に、14年ぶりに開花した「幸福の木」の花が今年も咲きました。
前回の開花もサイトで紹介いたしましたので、ご存知の方もおられたことと存じますが、
今年も見事に咲きました。

幸福の木は、まさに幸福の象徴として、開運、金運をもたらせる縁起のよい木とされています。
めったに花が咲の咲かない木ですが、花が咲くと、幸福が訪れると言われています。

ご覧のように、花の一つ一つはかわいらしく、そして、全体としてはとても美しいですね。
花は夕方頃より咲き始め、とてもいい香りを放ちます。
そして、とても甘い蜜をたっぷりとあふれさせる花の姿は、まさしく、開運の木を思わせます。

さて、幸福の木の開花に、海救隊活動の一層の発展と、隊員、
そして、わが国日本丸の幸福を祈るものであります!!

幸福の木2
撮影日:6月2日(つぼみ)

幸福の木1
撮影日:6月2日(つぼみ)

幸福の木3
撮影日:6月10日(開花)

 (H19.6.13/写真提供:NPO新潟海難救助隊 隊長/文:広報)


<海救隊への感謝状>

 海難救助隊では、8月14〜16日に佐渡への救命胴衣着用キャンペーン、操船訓練を行いました。寄港させていだきました水津港では、地元の小学生が私達のわしかぜにとても関心を寄せ、14日にわしかぜの船内見学、15日に水津港付近での体験航海などを行いました。そのときのお礼状が先日届きましたのでご紹介いたします。隊員一同これらの感謝状を励みにこれからも活動がんばりたいと思います。お手紙心よりありがとう!!(広報)

 A君(小学校三年生)からの手紙

 海きゅうたいのみなさんへ。
 この間は船にのせてくれてありがとうございました。
 そしてのせてくれたおかげで船の前から水がでることがはじめてしったし
 エンジンがあんなにでかいと言うことがはじめてしりました。
 めずらしいたいけんをさせてくれてありがとうございました。
 あとしたのへやもあんなにひろいとは思ってもいませんでした。
 でも一番楽しかったのは船を動かしてもらったことです。
 なみが高くてもそんなにはげしくなくちょうどいいぐらいできもちよかったです。
 このたいけんは一生にのこるきねんになりました。
 ありがとうございました。

手紙A

 B君(小学校高学年)からの手紙

 海救隊のみなさまお元気ですか。
 この間は船に乗せていただきありがとうございました。
 まさか乗せてもらえるとは思わなくて最初のせてくれると言われたときは
 うれしかったしびっくりしました。
 ぼくは、えんりょなく乗せてもらいました。
 はじめて乗ったので、こうなってるんだ〜の連発でした。
 みなさんがやさしくしてくれて、うれしかったです。
 「明日また来なよ」と言ってくれた時はうれしかったです。
 そして、行ったら船を動かしてくれました。船が動くときは速力があって楽しかったです。
 ほかにもいろいろ体験させていただきありがとうございました。
 全部楽しかったです。
 写真や船のグッズありがとうございました。
 夏休み一番の思い出になりました。本当にありがとうございました。
 みなさんお元気でがんばってください。

 A君とB君のお母さんのコメント
 大変貴重な体験をさせて頂き、本当にありがとうございました。
 子供達は、家に帰って来てから興奮しながら目をキラキラさせて色んな話を聞かせてくれました。
 台風の多い時期になります。お体に気をつけお仕事頑張ってください。(母)

手紙B

 C君(小学校高学年)からの手紙

 海救隊のみなさんお元気ですか。
 先日は船に乗せていただきありがとうございました。
 夏休みにいい体験ができとってもうれしかったです。
 また、写真や貴重なグッズをわざわざ送ってくださりありがとうございます。
 ファイルにして学校でも見てもらおうと思っています。
 船の中を見てこんなにすごい船があるとは思いませんでした。
 これから台風の多い季節になりますががんばって海を守ってください。

 C君のお母さんのコメント
 大変親切にしていただきありがとうございました。
 皆々様のご健康と益々のご活躍をお祈り致します。(母)

手紙C

 (H18.8.31/広報)


<海の日に寄せて>

 海の日お祝いいたします。子供のために作ってみました。まだ小さく海で遊ぶことはできませんが、私がそうだったようにこの子たちにも楽しい海の思い出がたくさんできたらいいなと思います。海救隊のみなさんこれからも頑張ってください。

海の日

 (H18.7.14/海の思い出いっぱいの2児の母より)


<ありがとうございました>

 今年も恒例の粟島島開きに海救隊の航行訓練安全キャンペーンに行ってきました。島のみなさま、観光客のみなさまのご協力のもと無事イベントを終えることができましたことを心より感謝いたします。

粟島

 (H18.5.7/NPO新潟海難救助隊 広報)


<隊長あいさつ>

 先週の日曜の昼過ぎに、「わしかぜ229」のところに行ってきました。
 「わしかぜ229」は私にとり、息子のようなものです。
 なんだか息子も春の到来を喜んでいるようでした。

 さて、4月はドック入りして、整備や化粧を行いましょう。
 5月には恒例の粟島操船訓練です。

 皆さん、新年度もよろしくお願いします。

隊長あいさつ

 (H18.4.1/NPO新潟海難救助隊 隊長)


<海救隊マスコットキャラ>

わっくん

 海救隊の資料整理をしていましたら、2年くらい前にラフにデザインした海救隊マスコットキャラのイラストがありました。以下に紹介します。

 名前 : オオノ ワシキチ   ニックネーム Oh,No ! わっきち!! (みんなも呼んでね)

 種類 : おおわし(わしかぜに由来)

 特技 : 海難 Oh,No ! 汚染 Oh,No ! 密輸 Oh,No ! (海保のスローガン)
      海上での No をとり(鳥)しまる!!

 座右の銘 : No の言える日本の鳥

 好きな言葉 : 見つけたらすぐに118(いいはね)

 特徴 : 額にわしかぜの頭文字 「W」 の柄

 2003年の3月下旬の私の作ですが、例えば海上保安庁さんなどの機関にはうってつけのキャラクターと思われます。キャラの貸し出しについては、ご相談ください。海のためになるのであれば、どうぞご使用ください。うみまる、うーみんに迫る出来栄えと自負しております。

 (H17.10.19/海救隊広報)

※当時このキャラは隊員の間でいまいちのうけでした。いいと思うんだけどな〜。いかがですか。


<竹島航海おつかれさま>
 帰港セレモニーを見学していました海救隊のファンです。海救隊の皆様の素晴らしいご活躍をホームページにて拝見させていただいており、更新を楽しみにしています。竹島を守るための航海おつかれさまでした。さて、明日のイージス艦の入港を防波堤より歓迎いたしますので、入港予定時刻をお知らせください。

(H17.8.28/H様)

 H様、いつもサイトご覧いただきましてありがとうございます。なお、せっかくお問い合わせいただいた上記メールのイージス艦入港時間のお返事をできませんでしたこと、誠に申し訳ございませんでした。これからもよろしくお願いいたします。

海救隊広報担当


<海図(尖閣諸島/沖縄島至台湾)>
 尖閣諸島の魚釣島の灯台の管理が海上保安庁に引き継がれ、海図に灯台が記載されました(H17年2月25日刊行)。

海図3

  海図1
海図1 海図2
魚釣島の灯台はFl.5Mと記載されていますが、Flは単閃光を、
5Mは灯光の光達距離が5マイル(1マイル=1852m)を意味します。

魚釣島

  北小島と魚釣島   灯台(遠景)
魚釣島 北小島と魚釣島 魚釣島灯台(遠景)

灯台

魚釣島灯台

(海救隊情報提供)


<待ち遠しい海>

海

 桃の節句も過ぎ、いよいよ春ですね。まだ、寒い日もありますが、じきに海の季節が始まります。海、待ち遠しいですね。

 (H17.3.5/海救隊広報 書)


<懐かしき思い出>
 尖閣諸島・・・・懐かしい島々です。いまから30数年前、大学の実習船で1ヶ月ほど付近の海底の地質探査を行いました。
 当時、私は学生で、造船技師を目指していました。地質探査など、造船所に就職してしまったらなかなか体験できない、しかし造船屋は実際に運行している船を知らなければなら無い、船を知る為には船に乗らなければならない、と言う様な屁理屈を付けて、尖閣諸島地質調査航海に強引に参加しました。
 那覇市長主催のパーテイにも招かれ、当時高級品だったジョニ黒やオリオンビールなどをあびるほど飲みました。このパーテイの席上、魚釣島から持帰った20キロぐらいの石が「この石は今後の沖縄には大変な重みを持っています」と言うメッセージを添えて、調査団の団長から手渡されました。感動のシーンでした。
 この石の採集の為に沖合いで本船を漂泊させ調査団をエンジン付きのライフボートで魚釣島の海岸まで送迎する役を引き受けていたのが私です。本船からボートを降ろす段になって、本船の乗組員は他の作業で忙しく、一等航海士にお前ならヨットをやっているから(大学時代は体育会ヨット部)、ボートの操船は出来るだろうと言われ、即座に引き受け、同行の造船屋2名を連れ、海パンと水中メガネを持って乗込みました。岸近くになり浅い所ではバウにワッチを立て、又後進の効き具合を確認し、慎重に艇を進め、無事調査団の団長始め団員の皆さんを浜辺に上陸させました。(初めても艇はなんであれ神経を使います!!)
 調査団の皆さんが上陸して帰って来るまで、送迎のボート要員は、潜って色とりどりの熱帯魚と、たわむれていました。
 石垣島でも当時新聞の一面に大々的に報道されていたので、大歓迎で、前夜の市長主催のパーテイに続き翌日は、中型バスで島内観光に招待していただきました。昭和45年夏、30数年前の事ですから、埃まみれのガタガタ道をクーラーの効かないバスでウンザリしながら峠を超えると、川平湾が目に飛び込んできました。ガンガンと照らす太陽、青い空、白い雲、沖合いの濃紺の海の色が、湾内に川の様に切れ込んでいます。浅くなるにつれ海の色が急激にエメラルドグリーンに変り、海岸の白い砂浜、岸辺の木々の緑、湾内に点在する黒真珠の養殖筏やオレンジ、黒のブイ、全てが調和していました。
 素晴らしい、今度来る時は自分の艇で海からきてやろうと思ったものです。

 さて、先ほどの屁理屈論法で、実は大学3年の夏には、日本に返還直後の小笠原調査航海にも乗船したこともありました。
 小笠原、母島の奥村港で停泊中、船巾いっぱいのマンタが船底で泳いでいました。その大きさには、感動しました。

 実習船で遊び回り、単位はしっかりいただきました、言うこと無し。教授殿 感謝、感謝。
 ただこの裏には、学科の全て乗船実習の面倒をみた事や、授業をサボリ学校から100mほどの所に有る臨海実験場の小型船のエンジン整備の手伝い(本当はひやかし)などで実習船の運航方と大分仲良くなっていた事もあります。

 尖閣調査航海の時は船長がわざわざ教えにきてくれました。

 こんな事ばかりしていたせいか、卒業前のコンパで教授に君たちはバカなのかね利口なのかねと真顔で尋ねられましたが、両方ですと答え置きました。

 最近の尖閣諸島の魚釣島灯台が海図に記載されたという報道に触れ、懐かしい思い出がよみがえりました。
 そして、造船技師を目指した若い日の思い出は、私の造船魂に再び熱いものを与えました。定年も間近な年になりましたが、残りの日々を海や船に一層の情熱を注いでまいりたいと思います。
 
 造船技師に進んでよかった。

(H17.2.27/58歳 神奈川県 造船技師)


<幸福の木・開花(海救隊事務所)>
 

幸福の木・開花

 縁起の良い木とされていますが、めったに花は咲きません。当事務所の幸福の木は14年ぶりに開花しました。花は夕方5時ごろに咲き、とても良い香りがします。図は最初の開花の様子ですが、別の株にもつぼみがつき近々咲きそうです。
 幸福の木の開花に、今年の海救隊の活動の充実と、新潟港の安全と環境保全を祈る想いがいたしました。

 (H17.2/海救隊隊長撮影)


<冬の西港>

西港1 西港2

西港3  西港4
 

 冬の西港を佐渡汽船カーフェリーより撮影しました。

 (H17.1.30/海救隊隊長撮影)


<第1回いのち大学>
 

第一回いのち大学

 海救隊のみなさま、いつもお世話になります。ボランティア隊員として主に広報活動をさせていただいている夫とともに第1回いのち大学に行ってきました。講師の早川先生のお話は今回で3回目でしたが、いつも楽しく拝聴させていただいております。元気をたくさんいただいたうえ、なんと講演中にサインまでいただきました。第2回いのち大学は来年とのことですが、今から楽しみです。

早川一光先生の第1回いのち大学

 10/23(土)14:30〜17:00
 新潟県民会館小ホール
 参加費:ワンコイン500円

 (H16.10.23/会社員(海救隊ボランティアの妻))


<帆船日本丸>
 

帆船日本丸

 (H16.8.7/海救隊隊長撮影)


<海は学校!!>
 家族で久しぶりの海水浴を楽しみました。2歳になる次女は初めての海なのに、まったく怖がらず浮き輪で妻といつまでも遊んでいました。長女も長男も大喜び、バーベキューではふだん家ではしないお母さんのお手伝いをがんばりました。海は自然の学校かな。

海は学校

 (H16.7.31/39歳 会社員 阿賀野市 SY)


<海が好き。だから年中海を感じて>
海が苦手という人から、「ヨット楽しそうですね」と言われ、2回ほど乗ってもらった。
3回目には「チョッと遠慮します。やっぱり海は苦手なもんで・・・」と一言。
・・・・良かった僕は海が好きなタイプの人間で!! 心からそう思った・・・・
理由なんかわからないがめっちゃすきだ。だから毎週海で暮らしている。
冬場は荒れていて出れないのでヨットの整備が中心。
今はやりの「男の隠れ家」通いのようで、心がときめく。
そんな僕に・・・彼女はジェラシー・・・そしてあきらめ・・・
だから年中、海を感じて生活している。 

ヨット

(H16.3.6/50代/男性/ヨット乗り)


<2004海の日コンサート>
 第2回「海の日コンサート」開催決定おめでとうございます。ステージと聴衆の間を寄せては返す感動の波間に、出来れば今年も漂ってみたいと思います。海難救助隊の皆さん、どうぞよろしくお願いします。

(H16.2.3/森 章二)


<海のように>
 私の心の原風景。それは、うまれ育ったふるさとの海。
 伊勢湾に浮かぶタンカーと、海苔の養殖のさおが並び、きらきらと光り輝く、穏やかな海を見て、私は育った。
 そんな私は、誰に教わったわけでもないが、海が好き。いつも心に海がある。
 海は、私たちに大きな恵みをくれる。
 春の穏やかな日も、夏の光り輝く日も、秋の夕日も、冬の荒波の日も・・・。
 幸せな日も、心が疲れている日も・・・。そんな時は、私は遠く海を見つめ、その大きさと広さを知り、また、海中を見 つめ、その深さを知ることで、心が浄化される。
 今、大きく開発が進み、海上に空港が建設されている。そこには、タンカーは浮かぶが、海苔の養殖さおの姿がなかった。四季の表情は変わらないが、私の海は、少し様子を変えた。
 ここは、海の恵みが大変豊富な場所。海を守る人びとの声。
 母なる海と人々の共生。この絶妙なバランスを忘れてはならない。
 そして、私の心も海のように青く、広く、深くありたい・・・。

(H16.1.31/愛知県・31才・女性・すなめり)

海のように


<自然の美しさと大切さ>
 私は海が大好きで、いつも楽しませていただいております。
 そして、この綺麗な海は残していきたいと思っております。
 そんな気持ちからかもしれませんが、海に落ちていく太陽や、昇る朝陽の写真をずいぶん撮ってきました。
 そうした風景写真を通じ自然の美しさや大切さ、そんな何かを伝えられたらいいなと思っています。

海

(H15.12.31/埼玉県/会社員/T様)

当サイトではこの初日の作品を新年の表紙に使わせていただきました。


<海守コンサート>
 海守コンサートに行ってきました。演奏は海上保安庁音楽隊、熱心な演奏にとても感動いたしました。ありがとうございました。

海守コンサート1 海守コンサート2 海守コンサート3

 海上保安庁音楽隊は、下のシンボルマークより海上保安庁のサイトにアクセスしてください。

海上保安庁音楽隊


(H15.11.24/海救隊ボランティア)


<海へのあこがれ>
 海なし県の埼玉に生まれ育った私を海へといざなったのは皮肉なことにあの太平洋戦争だった。母親の実家のある柏崎へ単身疎開をしたのが機縁となった。終戦の年、地元の小学校に入学し夏は近所の悪童どもに連れられて毎日のように泳ぎに行った。番神堂のある岬へ行く事が多かったが、祖母の言いつけを無視してより近くの荒浜で泳ぐこともあった。終戦を告げるラジオの詔勅は祖母の命令で聞くことはきいたが、事態を理解していたわけではなかった。
 やがて秋になり疎開も終わって埼玉に戻ったが、夏休みには毎年1〜2週間、柏崎を訪れるのが恒例となった。ある夏、突如復員してきた叔父が毎日海岸に出て、海の絵ばかり描いていたのが妙に心に焼きついている。その傍でいつまでもあかず海を眺めていたものだ。
 中学2年の頃、兄貴が商船大学に行っていた友達の影響か、船乗りへの憧れが強くなった。高校2年のとき仲間の椰愉を真に受けて、当時の東京商船大学に手紙を出した。自分は身長182cmあるが、船乗りに適するか否かを問い合わせたのである。返信には「適」の一字だけが+かれていた。
 30年の時を経て、ある銀行の新潟支店勤務となり3年弱をこの地で過ごした。
護国紳社の近くの社宅を借りて、夏場は海岸通りを徒歩または自転車で散歩するのを常とした。冬の猛り狂った海に向かって「馬鹿野郎」を叫んだことも幾たびかあった。そう、若き日の船乗りへの憧憬は健康上の理由で断念せざるを得なかったのである。
 横浜に住んで20年、日ごろは海とは縁のない生活であるが、車で30分走れば海にぶつかる。埼玉に比べれば海べりだ。
 そして2003年夏、新装成った朱鷺メッセで海の日コンサートを聴いた。加藤順子の、そして新潟海難救助隊の皆さんのいざないで‥・

(2003年7月31日記 森 章二)


<ふるさと>
 子供の頃魚釣りをしたり海に潜ってあわびやさざえをとった。それはそれで楽しかったが、当時の私は島を出たかった。船が着くたび何もない島から飛び出したいと思っていた。新潟からの人がうらやましかった。
 私も40を過ぎ家庭を持ち、子供もできた。この年になり、ふるさとのありがたみが少しずつわかるようになった。今は里帰りが楽しみだ。何もない島だけど、情のつまった、自然いっぱいな島が好きだ。家族や島の人々、そして自然からたくさんのものを教わったと思う。
 都会で育ったこの子たちに私のふるさとをできるだけ見せてあげたい。そして、この子たちがやがて親になり、自分の子供を連れてこの美しい私のふるさとを訪れて欲しいと思う。

(H15.5.4/40代/男性/会社員)

子供


<いつまでも>
 佐渡に住む叔母(通称:おばちゃん)は毎年冬の寒い時期に、自分でつんだ海苔を送ってくれます。 海苔はお汁にはなすと、潮のかおりがひろがり、とてもおいしいです。
 おばちゃんは穏やかな日を見つけては近所の人と海苔つみに行くんだそうです。 おばちゃんは海苔つみが面白くて、はりあいだと言います。 テレビで観たことがあるのですが、海苔つみというのは手間のかかるもので、採ってもなかなか量がいかないようです。 冬の冷たい水に手を浸し、採ってくれたんだと思うと本当にありがたいばかりです。 腰のまがったおばちゃんが一生懸命に海苔をつむ姿が思い浮かびます。
 おばちゃんが海苔を採る海へは子供の頃によく行きました。 当時、箱めがねという道具で海中を眺めると、いろんな生き物がいました。 カニ、ヤドカリ、ウミウシ・・・・・いろんな魚たち。もう夢中でした。 そして、海から上がるや、新潟から持参した図鑑で名前を調べました。 そんな私をおばちゃんたち親類は「まー、学者のタマゴらっちゃ」などと言っていました。
私も36歳になりました。残念ながら学者にはなれませんでした。
 子供の頃夢中で遊んだ懐かしい海がいつまでも美しく豊かな海でありますように。

(H15.3.21/36歳/男性/会社員)


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