聞光寺の歴史

聞光寺のルーツを聞かれる事がままありますが、長い歴史を重ねる間に、幾度も火災などに遭い、古文書のような確実の裏付けとなる史料のものは殆ど焼失しておりますので、現在まで伝承しているものを主として他を参考としながら記してみます。

第二十四世 井上 宗華記之

聞光寺系譜について

聞光寺は無量山清和院聞光寺と称します。

清和源氏の流れを汲むという名乗りでありましょう。

井上氏の系図を「尊卑分脈」によって略記すれば以下のとおり。

井上九郎光盛の末子井上四郎高義が出家して、聞光寺の開基(宗観)となったと伝えています。高義の父光盛については「ふるさと須坂」長野県須坂市教育委員会発行(昭和63年1月10日)に次の記述があります。

少し長くなりますが引用します。

源平戦争と郷土の軍団―治承4年(1180)4月平家追討の以仁王の令旨が東国を走った。同年9月7日村山義直は平家方の笠原頼直と善光寺の付近の市原で戦い、木曽義仲に救援を求めている。ところが翌年、養和元年5月16日頼朝は、村山義直に村山、米持の地を本領として安堵している。

村山氏は早くより頼朝の陣営に加わったようである。

このことは頼朝の誘いの手が当初より、井上氏系武士団に伸びていたことを示すものである。義仲・頼朝の双方から郷土の武士団は誘われたのである。

しかし信濃が次第に義仲の許に固まるにつれて、郷土の武士団が去就を決すべき時が熟して来た。

寿永元年(1182)10月横田河原の合戦で、平家方の越後城氏6万の大軍を破ったのは主として井上氏騎馬軍団300騎の奇襲戦によるものであった。

合戦に臨んで義仲は、井上九郎光盛に「御辺(ごへん)」と呼びかけている。(源平盛衰記)

御辺とは当時対等の相手に対する武家のことばで、義仲・光盛二人の関係をよく表わしている。(一説に光盛は義仲の女婿とか)

井上軍団は義仲に従軍したのではない。請われて協力し行動を共にしたのであった。

義仲敗死後も光盛は京にあって、甲斐源氏(一条忠頼)や後白河法皇に近づいて複雑な動きをしたらしい単純な一武将ではなかった。その為頼朝に警戒され、鎌倉へ呼びつけられて下る途中、東海道蒲原駅で頼朝の手の者に討たれた(吾妻鏡)その一ヶ月前、甲斐源氏の嫡流一条忠頼は頼朝の面前で斬り殺されている。

その後、高井源氏の保科・須田・高梨・村山・小笠原氏等はすべて将軍頼朝の御家人となった。井上氏が家人となるのは、源氏が三代で亡んだ後、承久の乱の頃であった。

建暦元年(1211)親鸞聖人は流罪赦免になられ、建保2年(1214)関東に入られました。

尊卑分脈によれば、光盛の舎兄清長の嫡男矢井太郎忠長は、井上相伝として光盛の子と為ると記しているところからすると高義にとって義兄にあたる訳です。その忠長は関東に於いて、親鸞聖人の下で剃髪出家して法名を明性と給り、下総国磯部に一宇を結んでいます。後の磯部の勝願寺、現在の上越市高田の瑞泉寺(井上性)です。

四郎高義は義兄忠長入道明性のもとにとどまり、貞応元年(1222)39才の時、剃髪出家して、聖人より法名を宗観を賜ったといいます。(当寺縁記) なお明性については、弘安6年(1283)親鸞自筆「教行信証」(坂東本)を相伝する(東本願寺蔵奥)(真宗年表)とあります。

正応3年(1290)本願寺三世覚如上人関東御下向の折り、磯部勝願寺に御逗留になり、当時二世宗永(92才)に光明本尊を賜られました。(当寺縁記)聞光寺根本本尊として大切に現在に伝えられていあす。

応長元年(1311)覚如上人第2回関東下向の折り、

光明テラシテタヘザレバ
不断光佛ト名ケタリ
聞光カノユエナレバ
心不断ニテ往生ス

の和讃により聞光寺の寺号を賜られました。

正和元年(1312)聞光寺を信濃国高井郡小柳郷島村に移します。(当寺縁記)

信州は井上氏同族の地で、外護者も多かった為でありましょう。この時代信州ゆかりの寺が続々と関東より移っています。

天正12年(1584)八世永順聞光寺を米山寺に移しました。

文禄2年(1593)九世永尊聞光寺を柏崎に移しました。(当寺縁記) 現在に至ります。

聞光寺の歴代

  • 一世宗観
    二世宗永
    三世宗堅
    四世宗転
    五世宗雲
    六世宗味
    七世永頓
    八世永順
    九世永尊
    十世泉芸
  • 十一世宗微
    十二世賢貞
    十三世了転
    十四世永存
    十五世尊応
    十六世宗罕
    十七世宗登
    十八世宗存
    十九世宗行
    二十世宗由
  • 二十一世厳宗
    二十二世宗雄
    二十三世宗尊
    二十四世宗華
    二十五世温成

聞光寺の歩み

西暦元号聞光寺本願寺備考
1173承安4月1日親鸞聖人御誕生
1182寿永恵信尼様御誕生
1184元歴2月3日開基 井上九郎高義 誕生(信州にて)
1201建仁聖人「帰本願」
1207承元聖人越後へ配流(35歳)
1210承元義兄忠長 出家(明性)磯部勝願寺開基
1222貞応開基 出家し「宗観」と名のる(39歳)磯部勝願寺にて
1232貞永12月7日開基 宗観 磯辺村に一宇を結ぶ
12月7日開基 宗観没
1261弘長11月28日親鸞聖人往生(90歳)
1268文永恵信尼様没(86歳)
1290正応5月3日二代 宗永 金泥御真筆を賜る
5月3日二代 宗永没
覚如上人関東へ
1300正安二代 如信上人没
1310延慶覚如上人より寺号を賜わる 「聞光寺」
1311応長信濃国下高井郡小柳郷島村に移る
1349正平9月18日三代 宗賢没
1351正平三代 覚如上人没
1378天授5月5日四代 宗轉没
1389元中四代 善如上人没
1393明徳7月21日五代 宗雲没五代 綽如上人没
1438永享10六代 巧如上人没
1457長禄七代 存如上人没
1461寛正2月9日六代 宗微没
1499明応八代 蓮如上人没
1525大永九代 実如上人没
1551天文208月20日七代 永頓没
1554天文23十代 証如上人没
1562永禄川中島の合戦
1570元亀石山合戦
1584天正12越後国米山寺に移る
1591天正19本願寺京都に移る
1592元禄4月10日八代 永順没十一代  顕如上人没
1594元禄柏崎に聞光寺を移す
1602慶長東西本願寺分裂
教如上人
1605慶長10聞光寺現御本尊制作作者 ェ慶
1614慶長14十二代 教如上人没
1627寛永6月7日九代 永尊没
1628寛永6月3日聞光寺焼失
1643寛永208月25日十代 宗藝(泉芸)没
1657明暦3月14日十一代 宗味没
1658万治十三代 宣如上人没
1671寛文11十四代 琢如上人没
1679延宝10月15日十二代 賢貞没
1694元禄十五代 常如上人没
1700元禄1312月3日十三代 了轉没十六代 一如上人没
1704宝永4月12日十四代 永存没
1738元文7月23日十五代 尊応没
1744延享十七代 真如上人没
1760宝暦10十八代 從如上人没
1792寛政十九代 乗如上人没
1793寛政1月25日十六代 宗罕没
1795寛政11月14日大火で全焼
1820文政再建
1824文政4月20日大火で全焼
1829文政129月9日十七代 宗登没
1832天保10月5日十八代 宗存没
12月5日十九代 宗行没
3月仮本堂にて
宗祖600回御遠忌
1838天保吊り鐘完成楽翁の銘あり
1860万延3月10日二十代 宗由没
1865慶応二十代 達如上人没
1880明治13大火で全焼
1887明治202月16日二十一代 厳宗没
1894明治27二十一代 厳如上人没
1897明治304月3日大火で全焼日野屋火事
1908明治41本堂・庫裏再建
1911明治443月28日大火で全焼チンコ大工火事
1921大正104月1日二十二代 宗雄没
1923大正12二十二代 現如上人没
1930昭和本堂再建
1943昭和18二十三代 彰如上人没
1951昭和26鐘楼新築
1955昭和30本堂屋根修復銅板から瓦へ
1957昭和3212月31日二十三代 宗尊没
1964昭和39宗教法人聞光寺立
柏崎中央幼稚園設立
1981昭和56二十五代 温成 入寺直江津林覚寺より
1983昭和58本堂内陣改装
1988昭和63本堂外壁修理
1989平成本堂内拝修復
1993平成庫裏改築「聞光」発行
1994平成二十五代住職就任 釋温成二十四代 闡如上人没
1996平成庫裏庭園完成「ニ河白道庭」
2000平成1211月22日二十四代 宗華没
2005平成17本堂屋根瓦葺き替え7月13日中越水害
10月23日中越地震
2007平成197月16日本堂・庫裏再建鐘楼倒壊7月16日中越沖地震
2011平成233月11日東日本大震災
宗祖750回御遠忌
2013平成253月23・24日本堂落慶