本堂再建

完成の慶び

聞光寺の沿革

此の度、平成25年3月23日・24日の2日間に渡って、門徒の皆様を始め、市内外・工事関係者・東本願寺の方々多数の参加を頂き、盛大に再建落慶法要が無事終了することができました。

誠にめでたい事と、心より感謝申し上げます。

聞光寺のルーツは、長い歴史の間、幾度の火災に遭い、古文書等の史料がなく伝承しているものを主に他の歴史資料を参考として行く事をお許し下さい。

前本堂建設風景(昭和4年当時)
寺名
無量山清和院聞光寺
これは、清和源氏の流を汲むという名乗りを現しているものです。
(井上氏の系図より、第24世 井上宗華記 参照)
開基
信濃国 井上九郎光盛の末子 井上四郎高義が出家して、聞光寺の開基(宗観)となる。
光盛は、有名な武将でした。
貞応元年(1222年)
信濃国井上九郎光盛の末子 井上四郎高義39才の時、関東磯部の勝願寺に於いて出家得度し、聖人より法名「釈宗観」を賜わり開基となりました。
応長元年(1311年)
本願寺三世覚如上人より、三世宗賢(宗堅)が 寺号「聞光寺」を賜わりました。(寺号の基は 覚如上人関東下向の折り、和讃より賜る)井上宗華記参照
正和元年(1312年)
聞光寺を井上氏同族の地、信濃国、高井群小柳郷島村に移しました。
(当寺縁記)
天正12年(1584年)
八世永順が、聞光寺を越後国頚城郡米山寺に移しました。
文禄2年(1593年)
九世永尊が、聞光寺を柏崎に移しました。
十七世宗登(兄)十八世宗存(弟)の代に二度も火災で焼けたそうです。
明治30年(1901年)
4月3日本堂・庫裡が新町日野屋火事により類焼しました。
明治41年(1908年)
拾年計画をもって本堂、庫裡が再建されました。
明治44年(1911年)
再び類焼に帰しました。二十二世宗雄。
昭和6年(1931年)
二十三世宗尊が災害に強い本堂を再建しました。
平成5年(1993年)
4月25日庫裡落成式 二十四世宗華。
平成19年(2007年)
7月16日「中越沖地震」により、本堂・鐘楼が倒壊しました。
平成21年(2009年)
5月24日「臨時世話方総会」で聞光寺本堂再建事業予算が原案どおり承認されました。
平成25年(2013年)
3月23日・24日2日間再建落慶法要を開催しました。2日間の延参加者数三百数十名 その他見学者が多数おられました。(二十五世井上温成)
震災前の本堂
付記

元暦元年(1184年)聞光寺開基者井上四郎高義は信州井上で生まれました。父は井上九郎光盛と言い、有名な武将でした。

横田河原の合戦で平家方の城四郎を破り、木曽義仲が京都に攻上る途を開きました。

義仲が義経に敗れてから、頼朝に呼び出され、鎌倉に下る途中で殺されたということです。

四郎高義は、その時3才だったそうです。叔母と共に関東の磯部にのがれました。

高義は、義兄井上越後守忠長開基の勝願寺で成長し、38才で出家し聞光寺の開基(法名宗観)となります。

義兄忠長入道は法名明性と言い、親鸞上人二十四輩の一人善性上人の許にあったと言います。