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■22-1:法制度と偽善団体2■

22:法制度と偽善団体2◆初期のファイル:22-1

ムダな法律。勝手気ままなの数々。

『法律の意義』

法を守るべき政府与党が法を破っている現実。

「当たり前の作業」に対して「当たり前である」という認識すらスムーズに行われない異常性がはびこる日本と狂ったメディアの存在。

東北で発生した大きな地震による人々の被害と復旧作業が気にかかるのだが、本日はほかの題材について述べてみたいと思う。
昨日の6月17日、凶悪犯罪者3名の死刑が執行されたということについて発表があった。そのうちの1人である「宮崎勤」死刑囚。
20年前の1988〜1989年にかけて、埼玉県と東京都の4〜7歳の幼女4人を『性的欲望を満たすため』に次々と連れ去り、その後『首を絞めて殺害』し、遺体をバラバラに切断した。更に、切断した遺体の一部や骨などを焼いたり、山に埋めたり、その遺体の一部を遺族宅へ段ボールで届けたり、犯行声明文を新聞社へ送るなどの異常な行動を繰り返した。また、様々な犯行における状況をビデオに録画するという突出した性犯罪者特有の異常性もあった猟奇的事件でもある。裁判所の法廷では、「遺体の一部を食べた」という発言なども行っている。
現在の法相である自民党の鳩山邦夫君は、「刑の執行」という自らの職務について当たり前に作業をしているに過ぎない。与えられた仕事を当たり前のこととして「こなす」ことに問題などない。自民党議員であるということがネックであるが、「仕事を当たり前にやっている」という事実は認めなければならない。ただそれだけのこと。
鳩山邦夫君:「慎重の上にも慎重に検討した結果、絶対に誤りがないと自信を持って執行できる人を選んだ。数日前に執行を命令した。正義の実現のためには粛々とやるのが正しいと信じている」と発言している。
これまでの法相は、『全く仕事をしない』という無銭飲食と同じ輩が君臨していた。本来、問題にされなければならないことは完全に無視した上での「一方的な論調」をまき散らす狂った各テレビ局のキャスター共が非常に目立つこの日本。
殺された幼女達の恐怖や絶望感、その後の人生のすべてを奪ったことに対する最も重要な視点や考察が消えうせている。更には、今も苦しみ続ける遺族の存在でさえも「眼中にはない」という明らかな内面がにじみ出ている各キャスター共。そして、死刑廃止を言い放つイカレタ議員(偽員)共。
法律では、『死刑確定の6カ月以内に刑を執行する』という決まりがある。その決められた期間を大幅に越えた「2年4カ月〜2年10カ月」という経過の中で刑が執行されたにもかかわらず、まるでそれが『短いかのような印象を与える』放送の在り方は、明らかに片寄った『情報操作』と言える。
過去において、刑の確定から執行されるまでに「約8年間」の期間があったということ自体が『異常である』という認識すらない。何よりも『20年』という歳月がムダに流れているという現実の重みも理解していない。
更には、「秋葉原無差別殺人(殺傷)事件」の『9日前後』に刑を執行したことにかみつき、「見せしめのようだ」と取り上げる始末。もし、「見せしめ」としての考慮があったのであれば、それは『両サイドの人々への警鐘』であり、何ら問題はない。いずれにしても、そのようなことがあったとしても、それ自体が問題であるということにはならない。
そして、今回の死刑執行について、わざわざ記者会見していた「死刑廃止を推進する議員連盟」の会長である亀井静香君(国民新党)と事務局長の保坂展人君(社民党)。
彼らは以下のことを言い放った。
亀井君:「死刑によって、国民の幸せにつながるものが生まれるのか。ベルトコンベヤーのように自動的に処刑していくのは異常事態だ」と。
凶悪な性犯罪者を消すことによって、国民の安全と安心につながっていることすら理解できていない。また、「ベルトコンベヤーのように自動的に処刑」とは実に身勝手な言い様である。DNAや指紋、そのほかの膨大な証拠によって確定された凶悪犯罪者に対して、刑を執行することが「自動的(?)」とは、どういう解釈をしているのか。異常事態であるのは亀井君の「脳みそ」そのものだと思うが。
亀井君:「秋葉原でも悲惨な事件があったが、国家が人の命を大切にしないのでは、凶悪犯罪は防げない。死刑による犯罪抑止論は現実離れしている」と。
「国家が人の命を大切にしない」という現実を本当に理解している人間であれば、ほかに山積している問題をいくらでも告発しているはずである。何より、「凶悪犯罪者の命を大切にする」と言い放っている意識自体が根本的に狂っているとしか言い様がない。そもそも、『凶悪犯罪者は人間ではない』。
亀井君:「死刑にしても凶悪犯罪は全然減っていないじゃないですか」と。
そもそも「どのような統計をどこから出してきた」のか。まず、凶悪犯罪や凶悪犯罪者といっても様々であるということ。そして、凶悪犯罪が激増している原因の1つは、国の悪政によって引き起こされているという現実を理解していない。圧制と暴政が、人々の精神状態を混乱と不安に陥れ、その精神状態が各家庭内でのコミュニケーションや教育そのものを破壊し、職場や学校でも差別やいじめ、ハラスメントなどの犯罪を助長し、生み出しているという実態を理解していない。また、少なくとも『完治することがない性犯罪者による次の犠牲者を出すことがなくなる』という最大の意味を全く理解していない。そして、多くの犯罪者は「死を恐れる」という人間の根元的な恐怖を持ち合わせている。だからこそ「抑止力は効果を発揮している」と言える。問題にすべきことは、「死を恐れない凶悪犯罪者をどうするのか」という大きな問題であり、「それに根差した諸問題」である。どちらにしても、ばかな輩には何を言ってもムダである。「理解できない者」に対して「理解しろ」といっても意味がない。
亀井君:「法務省は死刑囚が(拘置所で)どういう生活をしていたかも開示すべきだ。こんな凶悪犯罪をやったとだけ詳細に発表し、国民の共感を得ようとするのはおかしい」と。
死刑囚やほかの犯罪者が拘置所でどういう生活(?)をしていようが知ったことではない。それを知ることで、それこそ「国民が幸せになる」とでも言いたいのか。それを知ることで「凶悪犯罪者が反省(?)している」とでも思えるというのか。
アホなコメンテーターがしたり顔で、「犯罪者が、自らが犯した犯罪の意味とその重みを認識することも必要だ」というようなことを言い放っていたが、『過去の犯罪者の本当の心の底にある思いを理解した者など皆無である』という現実を理解していない。『人間の本心』を理解できる者など、一般的なレベルでは「この世には存在しない」と言っても過言ではない。人間の本心とは、そういうものである。人々が通常の生活の中で、「何らかのやり取り」を行い、「そうだと思っている」ことは、「基本的に思い込み」によって引き出された一時的な考えに過ぎない。
これまで世界中に存在していた死刑執行された凶悪犯罪者の中に、「死の直前まで心底から反省をし続けた者がいた可能性もある」が、すべての凶悪犯罪者が常に反省をしているということは現実的に全く有りえないことである。また、たとえ反省をしたからといってそれがどうしたというのか。被害者は生き返らないばかりか、遺族の悲しみや苦しみが和らぐことなど、実際問題としてとうてい考えられない。凶悪犯罪者が犯罪の意味を理解しようがしまいが、「その凶悪な犯行について裁く」ということでしかない。
それから、「犯罪者の凶行を知る権利が国民にはある」ということと、「人々が生きている現実で実際に発生した重大な事件であるという認識をする」ということがどれだけ重要なことなのかを全く理解していない。
また、アホなコメンテーターは、「宮崎勤が凶悪犯罪事件を起こした『理由』やその『背景』が分からないままなのは問題だ」というようなことを言い放っていたが、ばか丸出しとはこのこと。ただでさえ「20年」という膨大な時間が経過している。その中で「答えを出せない者」が『なぜメディアに出演し、なおかつコメントしているのか』ということこそが理解できない。この事件は「非常に簡単な部類に入る事件」である。詳しくは省略させてもらうが、冒頭でも記述しているように『性的欲望を満たすための凶悪な性犯罪』であり、背景としては『家庭教育に問題があり、また身体的コンプレックスによって異次元へ現実逃避したこと』が最大の要因である。
このような分かりやすい事件を、分析できない者がしゃしゃり出てくることからも分かるように、いかに日本が低次元をさまよっているのかということである。宮崎勤自体にしても、本物の精神異常者ではなく、また矛盾する供述などあちらこちらで「意識的にうそを言い放っている」ことから、「計算している部分もある」ということが理解できる。何よりも「責任が問えるか問えないか」という不毛の定規を使うこと自体に問題があることについては、以前から指摘している。
保坂君:「国連でも日本の死刑執行に懸念が表明されているのに、増えていくのは国際社会で異常だ。(7月の)サミットでも話題にならないはずはない」と。
欺まんに満ちた国連など「へ(Gas)のようなもの」でしかない。世界中の搾取されている国々の中で、多くの人々に強要されている犠牲が永遠に続いている非常に深刻なおぞましい計画の存在など理解できる訳もない。現実がいかに『みぞうの欺まん』によって成り立っているのか。そのくさり切った国際社会を基本理念としている神経は並みではない。本物のバカとしか言い様がない。
この世界には「許されざる者」が存在し、それと同時にそれらの輩による「許されざる凶行」が横行している。その現実を知りもせず、それらの輩や組織と戦ったこともない「ど素人共」が一体何様のつもりでいい加減な主張ばかりを繰り返しているのか。
そして、福田君:「犯罪件数や検挙率が改善された」と。これだけの現実を目の当たりにしても、この国の政府与党という名の犯罪組織によって身勝手に決められた暫定首相が思いっきり間抜けなことを言い放っている現実。犯罪件数や検挙率など『都合のいい方法』で『都合のいい数字を出しているだけ』でしかない。
国家としても、政治家としても、行政に携わる者としても、人間としても、危機管理という意識も知識も認識もないばかりか、『まじめに生きている人々を守る』という根本をないがしろにしておきながら、何が人権か。

「2008-09-22:追記」
続発する殺人事件。

連日報道される殺人事件。その内容も様々。脳裏には常に、『なぜなのか』『なぜこのようなことが起きるのか』という変わらぬ思いが繰り返される。
今月の9月18日、福岡市の公園内で小学1年生(6歳)の男児(富石弘輝君)が、何者かに殺害された事件。
状況としては、母親と遊びに来ており、途中で母親がトイレに行った2〜3分間の時間に男児の姿が消え、そして殺害されていたとニュースで報道されていた。
しかし、犯人は『母親』であったことが、本日の22日に報道されている。
実は、今回の事件も最初に聞いた段階で、「これは他人ではなく、この母親が犯人だと思う」ということを、また知り合いの刑事に話していた。そして、いつもの連絡があった…「また当たりましたね」と。
この事件に関しては、不審な点がいくつか存在していたので、何となく「おかしい」と感じていた人々も多かったのではないだろうか。
まず、『動揺していた』という母親の態度を聞いた瞬間に、「子供がいなくなったことからの動揺ではなく、『自らの手で自分の子供を殺したことへの動揺』だと直感(直観)した」ことが始まりであった。
それから、「母親が使用した同じトイレの裏側で発見された遺体」という点。このような状況は、まず通常では考えられない。
そして、「GPS機能が付いた携帯電話をその場に居合わせた人々に対して強調していた」ように感じた点。これは『演出』だと分析していた。
昨日にしても、女児の全裸遺体が発見されている。最近は殺人事件が多発し、ニュースで目にすることも当たり前のようになっている。
更に、「解決されたというその後の報告や報道がない」という深刻な状況もある。犯人が検挙されない。どれだけ時間が経過しても逮捕されないという現状。
親が子を殺し、子が親を殺すという惨劇が連続して発生しているこの日本。家族で殺し合うという現実は、日本人の特徴になりつつある。他国では、まずほとんど発生しない事件のケース。
日本人という人種に何が起こっているのか。この日本の国に何が起こっているのか。なぜ、犯罪や凶悪事件が多発するのか。
すべての国民が真剣に受け止めて、その原因や要因を的確に分析し、答えを出し、対策を考えなければならない。その理由の1つには、犯罪は「すべての人々の『心の問題』」として認識しない限り、「他人事で終わる」可能性だけが圧倒的に高くなり、それが「社会全体を支配する」ことになるからである。その現状を見つめ、打開していくことが求められている。
自分の愛する者や大切な家族が殺されてからでは遅く、失った命の大きさと残された者に与えられるその後の人生という時間は最悪の地獄となる。

「2008-11-19:追記」
元旧厚生省事務次官への惨劇。

昨日の11月18日、埼玉と東京で2件の殺傷事件が発生した。被害者は元旧厚生省事務次官。その部署での実質的な最高権力者である。現在、事務次官が保有している権力を変えようとしている動きもあるが、その抵抗はすさまじい。
旧厚生省は、現在の厚生労働省であり、その傘下には社会保険庁がある。以前に触れたことがあることの1つに、旧厚生省には旧日本陸軍からの「流れ」についてのものがあった。
以前から再三取り上げている旧厚生省(現:厚生労働省)と社会保険庁。これらの省庁は、国内で突出した『犯罪組織』であることに何ら変わりはない。「被爆・被曝問題」「薬害問題」「年金問題」などなど、国民、この日本で生きていた、生きてきた人々にとって非常に大きな問題に「戦前・戦中・戦後」という長い年月の間、ずっと関与してきたと言える。
これらの省庁が「過去・現在」に何を行ってきたのか、何を行っているのかについては多くの人々が大なり小なりの情報を認識しているものと思う。そして、今後何をしようとしているのか…という問題もある。
現在の日本社会において、ほぼ全国民を襲っている多くの不幸が、その大半がこれらの省庁によって生み出されていると言っても過言ではない。それは動かぬ現実である。
今回の事件で標的になってしまった事務次官は、「支給開始年齢の引き上げ」などの法案にもかかわっている。任命したのは「狂人小泉君」でもある。
今この瞬間にも、国民の税金を食いつぶす「独立行政法人・福祉医療機構」や、中国などからの『毒品』を全国にまき散らすことに関与している「全国生協連」などにも天下っている。
残念ながら、そういう人物を「メディアは『功績があった』」とのたまっているが、全くそうは思わないと同時に、そう思ってはならないとも考えている。その家族にも「その仕事を把握している以上」、全く責任はないというふうには完結できない部分もある。そのことについても、以前指摘したことがある。
結論としては、その死に関して「何も感じない」というのが率直な感想である。
人間の命とは、生まれた瞬間には、すべてが尊いものであり、その価値は完全に平等であると考えている。しかし、人間が成長し、社会で生き、そしてその社会で『何を行ったのか』ということをかんがみた時に、その命の価値は必然的に『激変』する。
メディアに出演し、その人間性について「すばらしかった」と発言している者達がいるようだが、「本当にすばらしい人間であれば、『国民を苦しめることは決してしない』」という当たり前の判断基準が欠落している。
ただ単に、「仕事に熱心だった」とか、「人当たりがよかった」などの理由で、善人として認識することは、非常に短絡的と言える。
では、「だれがこのような破滅的な社会を構築したのか」「だれが悪法制定にかかわってきたのか」「これまでの数年間だけで数十万人という、一体どれだけの人々が自殺をしたのか」「今どれほど多くの国民が苦しんでいるのか」…にもかかわらず、「政治と行政は地の底にある」という深刻な問題がある。それらの問題から目をそらしてはならない。
ただし、事件そのものの行為は決して許されたり、正当化されるものではない。可能な限り、早く解決することを望んでいる。もちろん、関与した犯人もしくは犯罪組織は「極刑で処理する」ことが望まれる。

「2008-12-12:追記」
判断と裁判員制度。

世界恐慌の中、以前から他国では数兆円から数十兆円規模の全国民に対する様々な減税政策が行われている。が、この日本では何が行われたのか。全国民に対する減税政策が行われたのかどうか。それどころか、「タバコ税増税」や「消費税増税」の話し合いが連発で行われている。
この国に、この国の政治に、この国の行政に、この国の政治家に、この国の官僚に、正常な意識、正常な判断、そのほかに必要とされるいろいろな項目が果たして存在し、そして有しているのか。答えは『NO』である。
この国にあるものが、戦前から戦中、戦後の間、正常と言えるものなど何もなかったということについては、これまでの歴史のすべてが明確に証明している。
そのすべての元凶は、『その人間共の悪意に満ちた意識』と『他者の存在を犠牲にすることを何とも思わずに己の欲望を満たす』ことに起因している。これらの起因、原因は全世界のあらゆる分野において共通して存在している『悪意』や『思い込み』によって、すみずみまでまん延している。
人々にとっての政治、行政、そして社会治安が最も身近なものとして直接影響があるこれらの「悪意」や「思い込み」の存在。
更には、明治時代からそのまま放置され続けている実にバカげた無意味な法律の山。特に「犯罪関連」「医療・福祉関連」には山積している。現在、人間の社会は崩壊し、格差という名の深刻な貧困が拡大を続けた結果、人間のモラルも企業のモラルもことごとく破壊され、凶悪な犯罪が日常的に発生している現実の実態。
全年代で軽犯罪や凶悪犯罪が増加し続けても、警察庁からの『犯罪件数は減少傾向にある』と言い放っているイカレタ発表は、完全に国家警察としての存在を放棄していると言える。
そもそも検死すら1割にも満たないこの日本という狂った国の体制で、何を根拠に犯罪が減ったと言えるというのか。実際に減っていたと仮定した場合でも、検死を行っていないという重大な欠陥がある以上は、単純に「犯罪が減った」とは言えないのが正常な人間の判断と正式な発表である。
医療と福祉に関しても、官僚という生き物の世界では、「医療と福祉に国の予算を使うべきではない」という論文が数十年前から横行しており、その政府と結託している与党の自・公連立は、これまでその方針のもとに政治と行政を行ってきた。
そして、アメリカの短い歴史上で最悪の狂人であるブッシュに言われるがまま、この日本を破壊してきた日本の歴史上で最悪の狂人である小泉君。その小泉君の置き土産の1つに『裁判員制度』がある。
来年から実施される裁判員制度。アメリカなどの陪審制(陪審員制度)を「日本もやれ」とアメリカから言われたことが発端であるが、日本の裁判員制度は「一応は法のスペシャリストである『裁判官』も加わる」ことが、欧米の陪審制と異なる点として挙げられる。
また、すべての事案に参加するというものではなく、例えば政治家や官僚などの国の問題に関しては完全に除外される方向性が有力とされている。これはこれで非常に問題である。ここにこそ国民が切り込めるということが必要とされているからである。
その問題以前に、いくつか大きな問題がある。
1つには、崩壊した社会の中で、人間性の内面が変異するまで様々な影響を受け、精神的にふらついてしまっている人々が、凶悪犯罪などに関する基礎知識を何も持たない上に、正常な判断が可能であるとは認められないという重大な問題がある。
ただでさえ、「『自分自身の存在』について、哲学的に理解できず、常に迷っている人々」が激増しているという現実がある。
だからこそ、汚物である宗教が世界中にはびこっているのである。たやすく宗教というモンスターに「入信」できる者達は、残念ながら正常な精神状態ではない。更に、「精神的にふらついている」ことと「物事に対する思い込みが激しい」という共通点がある。
創価学会であれ、統一教会であれ、そのほかのカルト宗教や、「通常の」といわれる宗教でも根本的に変わりはない。
そこに「所属すること」、「入信すること」に疑問を持てないほど、精神状態は異常を来たしているということが根本にある。
少し分かりやすく言えば、「孤独だから」とか「さびしいから」とか、あるいは「自分自身という存在についての意味が分からない」ということなどが挙げられる。
そういう状態の人々の内面が、「あらゆる項目において『高度な理解力・認識力』を持っている」とは考えられない。非常に残念であるが、それが現実の人間に関する実態である。
こういう人物は、何よりも真っ先に除外される世界が「特殊部隊」や「諜報機関」である。もちろん日本以外の「指折りの部隊や機関」のことであり、その判別方法や判別内容は「すさまじい」とだけ言っておきたい。
話をもとにもどすが…、いろいろなこと(題材や事象)に対する「高度な理解力」がなければ、「的確な判断力」は存在しない。
例えば、だれかが「何かに対して意見を述べた」とする。「高度な理解力」がある者は、その意見が「問題のどこの部分(と更にどこの部分)を考察したのか」「問題のどこの部分(と更にどこの部分)に対して考察が不足しているのか」ということなどがほぼ瞬時に理解できる。よって、正しい反論へとつながっていくことが可能となる。
しかし、そういう『処理能力』がない者は、その意見そのものに、多角的な考察がなくても、意見そのものに意味すらなくても、どれほど幼稚な意見であったとしても、「それも貴重な意見です」と平然と言い放てる不思議な特性を持っている。
このような人物達が果たして複雑な凶悪犯罪に対して、高度な理解力や的確な判断力が持てるのかどうか。答えは、「火を見るよりも明らか」である。
絶対に無理である。理解できなければ、判断はできない。
これが当たり前の結論である。政府与党は、ほかに必要な「ひき逃げ」に関する法の不備の整備など、早急に行う必要がある問題はいくらでもあるにもかかわらず、このような重大な問題を無視しながら、裁判員制度を強行しようとしている。
何事かを実際に行う前に、「そこにどのような問題があるのか」ということを徹底的に議論しなければならないのだが、そういうことは行われていない。アメリカに言われるがまま、何でも従う奴隷国家日本。
メリットとしては、無関心だった人々の中である程度の人は「犯罪と向き合う(だろう)」ということが挙げられる。
しかし、「人間が人間を裁く」という作業の中で、被害者のこと、被害者遺族のこと、加害者のこと、加害者の家族のこと、事件が及ぼした社会への影響、判決が及ぼす社会への影響などが脳裏を駆け巡ることになる。
また、その犯罪者が「記録上で初犯」であろうがなかろうが関係なく、極刑が相当する事案もある。更に、「その犯罪者が持つ『人間性の根元』を見極められるか」という大きくて非常に難しい問題もある。この部分もトテツモナク重要な部分である。
更に、犯罪の種類に関しても、解明されている部分に関する犯行内容や、解明されていない部分に関する犯行内容への理解など、非常に複雑となる。
これまで、自分自身の存在や、世界的な事象、社会的な事象に関する「読解」など、ほとんど何もなく生きてきた者達が、ぶっつけ本番で「何事かを理解し、判断すること」が可能なのかどうか。
そういう中途半端な精神状態と未熟な理解力と判断力で、判決という「何らかの決断」をしなければならない。終わってからも、「その判断が正しかったのかどうか」で悩み、苦しむ人々も出てくることが考えられる。中には重症化して、トラウマになる人も出てくる可能性もある。
せんだっては、数年前に広島市で発生していた被害者の木下あいりちゃん(2005年度、当時7歳)の強姦、殺人事件が「差し戻し」ということでニュースで取り上げられていた。その当時、当サイトでも記述していた凶悪な事件の1つである。この事件で広島高裁の楢崎康英裁判長は、「1審は犯行場所の事実誤認がある」「弁護人が公判前整理手続きで任意性を争うとしたのに、1審は争点整理をまったくせず、当事者に任意性の主張すらさせないで証拠請求を却下した」「1審は審理を尽くしておらず、訴訟手続き違反がある」などとして、無期懲役とした1審判決を破棄して、審理を広島地裁に差し戻した。
遺族の父親は、「どのような判決でも受け入れるつもりだった。差し戻されて残念です」というコメントをしていた。
今回の高裁の裁判長の判断自体は適切であり、的確な対応だったと思う。「白バイ警官死亡事故関連の国家によるねつ造事件」とは全く違うと言える。できれば、この白バイ事件のように「おかしな判決」などに対して、国民が「再度の裁判」を選択できるシステムが望ましいのだが…。
何よりも木下あいりちゃんの遺族にとっては、1日も早く「法的な解決を望んでいた」ことが理解できるのだが、個人的な結論として、この凶悪な犯罪者には『極刑』以外には考えられないということを理解してほしいと願う。この凶悪犯罪者が他国でどれだけの犯罪を繰り返したのか。更に、他国でのことも同様に言えるのだが、この日本でもほかに被害者が存在している可能性も残されている。そして、未来の被害者の可能性も考慮しなければならない。
特に性犯罪者という完治しないモンスターに関する問題は難しい。愛する家族を想像を絶する残虐な方法で殺された地獄のような悲しみと苦しみは、他者が簡単に理解できるものではない。だからこそ、被害者の無念の思いと尋常ではなかったはずの恐怖を生きている者が可能な限り考え、そして判決を下さなければならない。そうしなければ、殺された被害者は何も報われない。
我々が決して忘れてはならないことは、『被害者の苦痛に満ちた思い』である。その思いを代弁することがとても重要となる。絶対に忘れてはならないことである。その苦痛を与え続けながら殺した凶悪な犯罪者共に、生きる道などみじんもない。
いずれにしても、来年から行われるこの裁判員制度には「非常に大きな問題」が様々な場所で充満している。そして、この国の法の在り方そのものにも。

「2008-12-18:追記」
犯罪と判決。

昨日、アメリカは自国史上初の「量的緩和政策」として「ゼロ金利政策」を選択した。これにより更なる「円高」が懸念され、その悪影響は日本を直撃する。アメリカが選んだゼロ金利政策は、バブル崩壊時の日本が強行した全国民に負債を押し付ける政策の1つであるが、現状のアメリカには「最終的なカードの1つ」であり、いかに深刻な状況にあるのかが理解できる。そして、日本も再び「金利下げ」を選択すると見られている。
このほかに、アメリカでは史上最大の詐欺事件が発生したり、イラクではブッシュが「クツ」を投げ付けられたりするなど、ニュースは途切れることがない。
国内でも『違法な契約打ち切り』が全国で行われているが、この腐り切った国、政府与党、自・公連立には「強制的に止めさせる力」など全くない。そもそもこれらの元凶である「様々な狂った制度」をアメリカや経団連と一緒になって推進してきた「国内最大の凶悪な犯罪組織」に正義を行う意志など毛頭ないばかりか、正義そのものがない。
トヨタなどは、『人々を切り捨てる』ことを強行しながら、その一方では「F1継続」と「ニューヨークヤンキースへのスポンサー契約」を決めている。やっていることが『おかしくないか』鬼畜トヨタよ。将来、本社や工場などが襲撃される日もそう遠くはないのではないか。これまで虐げられてきた人々が怒りに満ちた行動を選択することは、現在のひっ迫した現状と崩壊した秩序から十分に考えられる。
経団連の諸君の中では、なぜか「SP」に護衛されている輩も存在しているが、そのチームが1チーム何名なのか、そして何チームが任務を遂行しているのかは知らないが、たとえその護衛チームが1人に対して3〜4チームだったとしても、「全く意味はない」ということを知っておいたほうがいい。「何の問題もない条件である」ということを知っておいたほうがいいだろう。それよりも国民の税金を勝手に使用して、SPを使うなど言語道断である。全国民を苦しめている凶悪な組織である経団連。この組織は粉々に破壊しなければならない。その存在は、『悪の象徴』でしかない。国民にとって、この国にある経団連は存在する意味など何もない。百害あって一利なし。
そういう中で、犯罪に対する判決も相変わらず「ふに落ちないモノ」が多い。
「イギリス人ルーシー・ブラックマンさん(当時21歳)」の事件。1審ではルーシー・ブラックマンさんに関して無罪、ほか9人に関しては求刑されていた無期懲役となった会社役員織原城二被告(56歳)の控訴審判決で、東京高裁の門野博裁判長は今月の12月16日、1審判決を破棄し、改めて「無期懲役」を言い渡した。「死体遺棄・損壊については有罪と認めている」のだが、「死亡させたとする準強姦致死罪は認定できない」と判断している。これは一体どういうことなのか。昨年の2007年4月に行われた1審の東京地裁判決で浮上した「被告がルーシーさん死亡に関与した疑いはある(?)が、死因は不明(?)で、第三者が関与した可能性もある(?)」というどこを見てもバカげた判断が浮遊した状態のままなのか。
それから、昨年の2007年5月、愛知県長久手町で発生した「拳銃発砲立てこもり事件」。これに関しても、4人に対する殺人罪などに問われた元暴力団員大林久人被告(52歳)に対し、名古屋地裁の伊藤納裁判長は、射殺されたSAT隊員の林一歩警部(当時23歳)に対する殺意について、「被告は積極的に意欲して(殺そうとして)狙ったとまでは認められない」…と、更に「狙ったのであれば上半身のより被弾しやすい広い部位を狙うはず」という『特に銃器に関するど素人の根拠のない(根拠にならない)無意味で間違った判断』が根底にあり、そう述べているようだ。
この裁判長は、「どこのだれが銃を使用しても、どれだけ距離があったとしても『1度狙ったらその場所へ確実に銃弾が飛んでいき命中する』」と思い込んでいることもうかがえる。付け加えて、この裁判長が思い込んでいるように、「被弾しやすい広い上半身の部位」を『実際に狙って撃ったものの銃弾がそれた可能性』も十分に残されているということもある。
射殺されたSAT隊員のほかに、家族や警察官が至近距離から撃たれている。撃たれた被害者達は、ずっと放置され続け、「助けようとしたら撃つぞ」とも言い放っていたように「確実な(確定した)意志によって行動していた凶悪犯罪者」である。
この事件もまた、単なる「無期懲役」という判決。裁判長の判断は、まるで「バーチャルなゲームでもやっている」かのような脳の空間を感じるほど無機質なものに近い。
「銃」そのものの存在の意味。その銃を「所持」していた意味。その銃で「至近距離」から「何人」も「撃っている」という意味。「助けたら撃つぞ」と威かく発言していた意味。SAT隊員が「射殺」された意味。残された「遺族」の意味。残された「被害者家族」の意味。
法律とは何か。何のために存在しているのか。このような「あやふやで非常にもろい土壌」の状態で、これまた「ど素人が参加する」裁判員制度など成り立つ訳がない。
「心理学」「犯罪心理学」「凶悪犯罪心理学」「異常犯罪心理学」などの知識があるのかどうか。このように人間の心理学にもいろいろとある。犯罪心理学も「1つだけ」と思い込んでいる多くの日本の専門家達。これまで、このように「分別」されるということを見たり聞いたりしたことなど全然ないのだが、現実には少なくともこれらのように「それぞれが専門として明確に成り立つ」という実態を認識することから始める必要がある。

Status:2008-06-18〜作成

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