伊達市
旧伊達郡保原町(〜H18)
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保原城
保原城跡標柱。
保原城跡標柱。
【所在地】 伊達市保原城ノ内
【別称】  
【築城年】 鎌倉、室町時代か
【築城者】 (伊達為重)、中島氏
【城主変遷】 (伊達氏)…懸田氏[中島氏]-伊達氏[中島氏]-蒲生氏(1591-98)-上杉氏[大石氏、小越氏](1598-1664)
【廃城年】 寛文四年(1664)か
【現状】 市街地
 伝承によれば、文治五年(1189)奥州合戦の功で伊達郡を与えられた伊達氏初代朝宗(中村常陸入道念西)の次子、常陸次郎為重によって築かれたとされるが明らかでない。なお為重は伊達氏2代宗村であるともいわれ、また念西が宗村であるともいわれているため、朝宗の子であるかは不明である。

 南北朝時代は懸田城主懸田俊宗家臣中島右衛門宗常の居城となり、天文年間(1532-55)には伊勢守宗忠が城主であった。天文十一年(1542)に始まった伊達稙宗と晴宗による内訌、所謂天文の乱に於いて、主家懸田俊宗は稙宗の女婿であったためこれに与したが、宗忠は主に背いて晴宗に与して戦った。乱は晴宗方優勢のうちに和議が結ばれて終結し、乱後伊達氏の家督を相続した晴宗は自身に与した宗忠に刈田郡平沢の采地を与えた。なおこの和議の条件には懸田城の破却が含まれていたため、それを不服とした俊宗は同二十一年(1552)に挙兵し宗忠を保原城より退けたが、翌年には討ち取られ滅亡した。
 懸田氏滅亡後中島氏は伊達氏に服属し、その後激しくなった相馬氏との合戦で度々功を挙げ、天正十二年(1584)頃には伊達政宗より伊具郡金山城を与えられ伊達氏一族に列して以降明治維新まで存続している。

 天正十九年(1591)、豊臣秀吉の奥州仕置により伊達政宗は国替を命ぜられ、伊達郡は伊達氏の支配を離れて新たに会津郡若松城主となった蒲生氏郷へ与えられた。この頃保原城も一旦廃城になったと思われる。
 慶長三年(1598)、蒲生氏に替わって上杉景勝が若松城主となった頃に再建されたとみられ、保原城代には会津三奉行と称された大石播磨守綱元が任ぜられた。上杉氏が米沢城へと移封された江戸時代初頭も伊達郡はその所領として引き継がれ、寛永十三年(1636)には小越清道が城代に任ぜられている。しかし寛文四年(1664)、米沢藩3代藩主上杉綱勝の急死による家督相続時の減封により収公されて天領となり、その頃に保原城も廃城となった。

 その後の寛保二年(1742)、当地を含む伊達郡内17箇村が陸奥国白河藩主松平定賢に与えられ、その出張陣屋として城跡西側に保原陣屋が設置された。


 現在は市街地となっており、中野病院脇に標柱が建てられるのみでその景観は失われているが、往時は東西約100m、南北約200mほどの規模を持ち、その周囲を幅約12m、深さ約2mほどの堀が取り巻いていたという。堀跡は最近まで水田の灌漑溜池として利用されていたとされるが現在は埋め立てられている。


 昨今の城ブーム(笑)のお蔭で城=天守といった認識はだいぶ少なくなった(と思いたい)のですが、現状を見てここに保原城があったと感慨に耽る人は未だに変態なんでしょうね(^-^; 古絵図や字限図などを見ながら歩けば往時の痕跡などは見つけられるかも知れませんが、結構行かないんですよね保原。
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保原陣屋
保原陣屋跡に残る陣屋の欅と黒松。
保原陣屋跡に残る陣屋の欅と黒松。
【所在地】 伊達市保原町宮下
【別称】  
【築城年】 寛保二年(1742)
【築城者】 松平定賢
【城主変遷】 松平(久松)氏(1742-1823)-阿部氏(1823-1868)
【廃城年】 慶応四年(1868)か
【現状】 市街地
 寛保二年(1742)に設置された、陸奥国白河藩松平氏の出張陣屋。

 戦国時代、当地には保原城が所在しており、その後江戸時代初頭には米沢藩主上杉氏の支城として城代が置かれていたが、寛文四年(1664)上杉氏の減封に伴いその支配を離れ、江戸幕府天領となっていた。

 その後寛保二年(1742)、当地は陸奥国白河藩主となった松平定賢の分領となり、伊達郡内17箇村支配の拠点として設置されたのが保原陣屋であった。
 文政六年(1823)、伊勢国桑名藩に国替となった松平定永に代わって武蔵国忍藩より阿部正権が白河藩主となるが、当地の支配は引き継がれ陣屋は存続、慶応二年(1866)阿部正静が棚倉藩へ転封となった後も引き継がれた。
 慶応四年(1868)より始まった戊辰戦争で棚倉藩は奥羽越列藩同盟に加わったため、板垣退助らの率いる西軍による攻撃を受け棚倉城は落城する。藩主正静は残存する藩士とともに保原陣屋へと移動した後、ここで降伏した。


 保原中央公民館周辺となる旧保原城二の丸に築かれていた。現在は市街地となり景観は失われているが、公民館に面した陣屋通りを挟んで「陣屋の欅と黒松」が立ち、その面影を伝えている。また明治十六年(1883)に陣屋門が市内長谷寺に移築され、昭和六十一年(1986)建て替えが行われたが柱、梁、扉はそのまま現存している。


 近世まで存続した陣屋ながら、それを示すものがほとんどないため、現在も残る陣屋通り、陣屋の欅と黒松がどういった由来なのかを知らない人が多そう(^ω^; 陣屋を描いた古絵図なども残っているんだし、公民館脇に解説板の一つも建てられてれば良いんですけどねー。

【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「福島県文化財調査報告書第197集 福島県の中世城館跡」(福島県教育委員会1988)、「武者たちの舞台 ふくしま紀行 城と館 上巻」(福島民報社2007)

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