福島市
旧信夫郡吾妻町(〜S43) |
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内城 |
内城跡土塁か。 |
【所在地】 |
福島市笹木野内城
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【別称】 |
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【築城年】 |
建武年間(延元年間・1334-38) |
【築城者】 |
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【城主変遷】 |
香坂氏… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
宅地 |
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「日本城郭大系」「福島県の中世城館跡」には、建武年間(延元年間・1334-38)香坂弾正の居館とのみ記載がある。
まほろん“文化財データベース”の位置情報を参考に訪問しました。野田中学校を目印にして、斜め向かいの病院を中心にくねくね走ってみる…、宅地と耕地ばかりです。うーん、わからんと思い、病院の裏手にある教会前に車を停めて地図を見直していたら、目の前に不自然に残る土盛りを発見。地図と照らし合わせると北東隅の土塁か?とも思えましたが、資料がなく何とも判断がつきかねます。 |
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トップ>さくらとおしろ>福島県>福島市>蟹田館
蟹田館 |
蟹田館跡西側土塁。 |
【所在地】 |
福島市桜本字西蟹田
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【別称】 |
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【築城年】 |
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【築城者】 |
二階堂氏か |
【城主変遷】 |
二階堂氏[二階堂氏]… |
【廃城年】 |
天正十七年(1589) |
【現状】 |
宅地 |
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築城年代、築城者は不明、館主として須賀川城主二階堂遠江守(晴行か)家臣二階堂将監が居住したとされる。天正十七年(1589)伊達政宗の侵攻によって須賀川城が落城した際、当館も同様に落城したとされるが確証はない。なお須賀川二階堂氏家臣とあるのは、正しくは二階堂信夫氏であろう、とも考えられている。
現在の蟹田集落が館跡であり、南西隅から北西方向に延びる土塁、その外側に土塁に沿って堀跡が確認出来る。東側には遺構は見られないが、高低差から考えて100m四方の方形館であったと推定されている。
蟹田集落へ真っ直ぐ侵入していくと、途中で舗装道路が切れて砂利道となります。その舗装が途切れた辺りが館跡南東部付近であり、以前訪問した際はここで引き返しておりました。しかし「福島市の中世城館」を見るとその先に土塁が残るとあったので再訪、民家脇に残る遺構をようやく拝むことが出来ました(林になっており良く見えないんだけどね)。さらにその後地図を確認してみたら、西辺の土塁まで続いている農道があるじゃん、と思い再々訪、内側から見るよりはちょっとは良い感じでした。
でもなーんとなくこちらの集落は訪問し辛い…。行き止まりの集落なので、余所者がふと立ち寄ったという感じにはならないし、自動車でゆっくり走っているとカーテン越しに住民の方が覗いているし…まあ怪しいのはこちらの方なんですけどね(-_-;
なお集落に入る途中の水路?付近にはねこの親子が毎回おり、そのうち1回は怪我をしたたぬきとにらめっこしておりました。 |
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トップ>さくらとおしろ>福島県>福島市>隈ヶ城
隈ヶ城 |
隈ヶ城二重堀跡標柱(直売所の幟のが目立つけど)。 |
【所在地】 |
福島市上野寺舘
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【別称】 |
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【築城年】 |
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【築城者】 |
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【城主変遷】 |
信夫氏… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
宅地、耕作地 |
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「日本城郭大系」「福島県の中世城館跡」に、文治年間(1185-90)信夫重郎(重良?)の居城で、土塁、空堀が残るとある。大鳥城主佐藤氏一族の城館であろう。
義父を福島市庭坂の運転免許センターまで送り、時間があったので付近の城跡を見ようと名倉城跡へ向かう途中、偶然発見しました。画像を見て分かる通り、樹の陰で標柱の頭の部分しか見えなかったのですが、車で走行中に発見したのだからまだハナは衰えていないかった模様。
標柱には“隈ヶ城二重堀跡”と書いてありますが、明確にどこに残っているのかはわかりませんでした。「城郭大系」にあった土塁も同様です。宅地でしたので勝手に歩き回るのはどうもねー。標柱のすぐ隣に果物の直売所があり、そちらの方にもお伺いしたんですが、よくわからないそうです。ただ、地図を見ると舘という地名はこの標柱から東側に広がっていますので、もっと歩き回れば遺構が見つけられたかも知れません。
因みに更新に当たってGoogleストリートビューで見てみたら、生垣が更に高くなってて標柱が見えませんでした(^-^;
今もあるのかな? |
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猿内館 |
猿内館跡(日枝神社)。 |
【所在地】 |
福島市下野寺猿内
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【別称】 |
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【築城年】 |
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【築城者】 |
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【城主変遷】 |
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【廃城年】 |
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【現状】 |
日枝神社、宅地 |
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「福島県の中世城館跡」にはほとんど何も、「日本城郭大系」には全く記載のない館で、まほろん“文化財データベース”の位置情報を参考に訪問しました。JR奥羽本線笹木野駅南側、福島製鋼工場の南東側十字路から日枝神社付近が館跡の様です。
日枝神社は館の西寄りに位置している様ですが、周囲の耕地がやや低くなっており、堀跡の様に思われました。東側は道路を隔てた辺りまで含まれているようですが、神社から東側は宅地のため詳しくは見てまわれませんでした。 |
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庭坂塞 |
庭坂塞跡付近の堀跡の様な…?住宅地の隙間。 |
【所在地】 |
福島市町庭坂休所
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【別称】 |
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【築城年】 |
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【築城者】 |
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【城主変遷】 |
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【廃城年】 |
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【現状】 |
宅地 |
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「日本城郭大系」には記載がなく、まほろん“文化財データベース”の位置情報を基に訪問。が、地図で示されているところは住宅地になっており、また写真じゃ判りませんが夕暮れ時、しかも吹雪で全く手掛かりが得られませんでした。 周囲を廻っているうちに、民家の間にある不自然な隙間を見つけ、堀跡か何かかと思い撮影してみました。当然積雪のため詳しくは見られず、雪融けを待って再訪したいと思います。 |
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堀之内館 |
堀之内館跡付近。 |
【所在地】 |
福島市上野寺堀之内
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【別称】 |
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【築城年】 |
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【築城者】 |
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【城主変遷】 |
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【廃城年】 |
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【現状】 |
宅地、勢至観音堂 |
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「日本城郭大系」には記載なく、「福島県の中世城館跡」に二階堂駿河守の居館とのみ記載があります。
まほろん“文化財データベース”の位置情報を基に訪問しましたが、その地図を見る限り、写真中央左寄りの勢至観音堂が館跡南西に位置しており、中心部は現在宅地となっている様です。訪問時はご覧の様な有様でしたので、観音堂にも近寄れませんでしたが、周囲で遺構らしきものを確認することは出来ませんでした。 |
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トップ>さくらとおしろ>福島県>福島市>八島田陣屋
八島田陣屋 |
八島田陣屋跡解説板。 |
【所在地】 |
福島市八島田東本庄町
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【別称】 |
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【築城年】 |
寛政元年(1789) |
【築城者】 |
溝口氏 |
【城主変遷】 |
溝口氏(1789-1868) |
【廃城年】 |
慶応四年(1868) |
【現状】 |
市街地、八島田駐在所 |
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寛政元年(1789)に置かれた、越後国新発田藩溝口氏の出張陣屋。
織田信長、次いで豊臣秀吉に仕え、慶長三年(1598)越後国新発田城主となった溝口秀勝は、同五年(1600)の関ヶ原合戦では東軍に与して上杉遺民一揆を鎮圧、その功によって徳川家康より所領を安堵されて新発田藩祖となった。
以降溝口氏は明治維新に至るまで新発田藩主として存続、越後国蒲原郡を中心に領知したが、寛政元年(1789)の村替により陸奥国信夫、田村、楢葉3郡23箇村が飛地領となり、その支配陣屋として設置されたのが八島田陣屋であった。文政十三年(1830)再度の村替によって信夫郡内8箇村を残して収公されたため、陣屋組織の縮小などが行われたが陣屋自体は幕末まで存続した。
しかし慶応四年(1868)に戊辰戦争が勃発すると、新発田藩は新政府に与したため奥羽越列藩同盟諸藩と敵対、福島、米沢間に所在する飛地領である八島田陣屋在勤の新発田藩関係者は米沢藩士によってことごとく連行されたという。
現在は市街地となっており遺構は判然としませんが、敷地内には陣屋、米倉、道場、牢屋、稲荷神社などがあったとされ、表門は西側であった様です。八島田駐在所、消防団屯所前に解説板が設置されています。 |
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【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「福島県文化財調査報告書第197集
福島県の中世城館跡」(福島県教育委員会1988)、「福島市文化財調査報告書第35集
福島市の中世城館I」(福島市教育委員会1994) |
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