喜多方市
旧喜多方市 - 旧耶麻郡喜多方町(〜S29)
トップさくらとおしろ福島県喜多方市小田付館
小田付館
小田付館跡とされる稲荷神社。
小田付館跡とされる稲荷神社。
【所在地】 喜多方市字大豆田
【別称】  
【築城年】  
【築城者】 佐瀬氏、五十嵐氏か
【城主変遷】 蘆名氏[佐瀬氏、五十嵐氏]…
【廃城年】  
【現状】 稲荷神社、宅地、耕作地
 築城年代、築城者については明らかでないが、黒川城主蘆名氏の四天宿老といわれた重臣佐瀬大和守種常、または慶徳兵部輔祐長の次男五十嵐善次郎昌勝が住したと伝わる。

 稲荷神社境内地及び北接する宅地、水田が館跡と比定されている。この稲荷神社は御倉稲荷と呼ばれているが、当地に天明八年(1788)代官所が置かれ、米倉が2棟設置されていたことに由来するという。代官所は稲荷神社に北接する形で建てられていたとされ、さらにその北の水田、畑地が米倉跡であったともいわれる。
 東西五十一間、南北三十八間の規模であったとされるが現在遺構は存在しない。開墾時に井戸跡が発見されたというが、館跡、代官所いずれに関係するかは不明である。

 この付近に神社があり、そこが中世の館跡、近世の代官所跡だったというのはどこかで聞いて知っていましたが、まさかばあちゃんがよく行く服屋さん?の目の前だったとは思いもしませんでした(笑) 稲荷神社の鳥居の前に、かわいい「代官所跡」の石碑が建てられています。
トップさくらとおしろ福島県喜多方市坂井館
坂井館
坂井館跡(諏訪神社)。
坂井館跡(諏訪神社)。
【所在地】 喜多方市字御茶屋
【別称】 小荒井塁
【築城年】  
【築城者】 (石川氏)、小荒井氏か
【城主変遷】 (石川氏)…蘆名氏[小荒井氏]…
【廃城年】 天正十年(1582)か
【現状】 諏訪神社、愛宕神社、稲荷神社、宅地
 『会津鑑』『会津古塁記』には、和銅年間(708-15)石川民部勝良が構築、応永年間(1394-1427)新宮次郎広高の子小荒井新助盛常が居住した際に坂井館と称したとある。また宝亀年間(770-781)石川刑部が築いたともあるが、何れにしても信憑性は低いと考えられている。
 『新編会津風土記』には築城者、年代とも不詳、元亀、天正年間(1570-92)に小荒井阿波が住したとあり、天正十年(1582)小荒井阿波と檜原村の地頭穴沢新右衛門との間で合戦があった際に焼失、その際に廃されたと考えられている。
 その後蒲生氏が若松城主となった際、放鷹のため別荘が置かれたという。しかし寛文年間(1661-73)には放棄され、現在は御茶屋の字名だけが残っている。

 『会津鑑』『会津古塁記』には東西百六十間、南北八十三間、『新編会津風土記』には東西三十四間、南北三十間余と異なった規模を記している。諏訪神社、愛宕神社、稲荷神社に囲まれた地域と推定されているが、三社とも坂井館焼失後に現在地に勧請、移動されたものである。現在は宅地となっており、館跡を偲ぶものは遺っていない。

 御茶屋の地名が残るってんで行ってみましたが、北側の三社以外の地は宅地となっており、さすがに歩き回るのは憚られました。諏訪神社の境内を掃除していたお母さんに尋ねたら、字御茶屋の範囲はかなり狭い様子。住宅地図を持って再訪か? なお坂井という城館名は、加納荘と新宮荘の境界に位置するからという推測もあるそうです。
トップさくらとおしろ福島県喜多方市塚原館
塚原館
塚原館跡標柱、解説板、略図。
塚原館跡標柱、解説板、略図。
【所在地】 喜多方市天満前
【別称】  
【築城年】 天文元年(1532)
【築城者】 富田義実
【城主変遷】 蘆名氏[富田氏](1532-61)…
【廃城年】 永禄四年(1561)か
【現状】 宅地、市街地
 築城年代は定かでないが、天文元年(1532)富田監物義実が築城したと考えられている。富田氏は黒川城主蘆名氏四天宿老と称される重臣であり、義実は松山和泉守の子で富田氏10代実持の女婿となり、実家から分家した際に塚原村に館を構築して居住したいう。

 義実は蘆名氏15代盛舜より、庶子である山城守氏方の随身を命ぜられた。しかし盛舜嫡子の16代盛氏は、盛舜の遺命に背き氏方に相応の所領を与えなかったため、義実は遂に氏方を擁して永禄四年(1561)挙兵した。しかしこの叛乱も程なく鎮圧され、氏方は自刃、義実は討死し、義実嫡男主膳義祐も捕らえられて処刑された。なおこの叛乱は永禄十一年(1568)ともいわれ、何れにしてもこの内紛の後に塚原館も廃されている様である。
 しかしその後、富田将監隆実が居住したともいわれる。隆実は美作守氏実の嫡子であり、氏実の父は義実の妻の弟、左近将監実滋である。隆実は天正十七年(1589)の摺上原合戦序盤において、蘆名氏一族ながら伊達勢に与した猪苗代城主猪苗代弾正盛国、伊達氏家臣原田左馬介宗時、片倉小十郎景綱の各隊を崩す活躍を見せている。敗戦後、黒川城にあった父氏実、平田左京亮(尾張守輔範?)らが伊達氏に通じて当主蘆名義広を常陸国に逐うと、隆実も主君を追って常陸国へ落ち延びたという。

 本丸は東西三十間、南北三十六間、その東側に東西三十間、南北四十間の二の丸、西側に東西十四間、南北四十二間の三の丸を置いた連郭式の平地館であり、各郭の周囲には土塁、堀が巡らされていたと推定されている。しかし現在は市街地となっており、各郭の遺構はもちろん、その南側に位置していたとされる馬場跡なども確認は出来ない。発掘調査も行われているが、塚原館と直接結びつく遺構、遺物は出土していない様である。

 現在は漆器屋さん?の前に標柱、解説板、ごく簡単な絵図などが建てられています。向かい側の馬場跡も含めて周囲をホテホテと歩いたことがありますが、特に目立った遺構などは見られませんでした。しかし単にわたしの目が節穴であることは否定出来ません。
 歴史の表舞台にはほぼ登場しない蘆名氏方ですが、蘆名氏の最盛期を築いた盛氏も家督を継いだ頃には一族、家臣の統制には苦慮していた様ですし、結構チャンスはあったのかもしれませんね。重臣である富田氏が後盾になっていた訳ですし、盛氏も簡単に相続したんではないんですねえ。ここで氏方が勝利していたら、蘆名氏の行く末はどの様に変わっていたものでしょうか。

【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「福島県文化財調査報告書第197集 福島県の中世城館跡」(福島県教育委員会1988)、「喜多方市史 第4巻 考古・古代・中世 資料編I」(喜多方市史編纂委員会1995)

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