郡山市
旧安積郡安積町(〜S40) |
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篠川城 |
篠川城主郭部(東館)跡。 |
【所在地】 |
郡山市安積町笹川字東舘
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【別称】 |
篠川御所 |
【築城年】 |
応永六年(1399) |
【築城者】 |
足利満貞 |
【城主変遷】 |
室町幕府[足利氏]…二階堂氏[須田氏]… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
東舘稲荷神社、宅地、耕作地 |
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南北朝の合一が成った元中九年(明徳元・1392)、室町幕府将軍足利義満は、鎌倉公方足利氏満に奥羽両国も管領させることとした。そこで氏満が兄興満を黒川へ、そして息子満隆を篠川へ下向させたのが篠川城の起源とされる。
応永五年(1398)氏満が没すると、跡を継いだ満兼は鎌倉を訪れていた満隆を留め、翌六年に弟満直、満貞を奥州へ下向させた。満直は稲村城へ、満貞は篠川城へと入り、それぞれ稲川御所、篠川御所と称された。これより先に、幕府は奥州管領職として畠山(二本松)、吉良、斯波(大崎)氏ら一族を奥羽へと下向させていたが、畠山氏は早くから衰退して安達郡の小領主となり、吉良氏も失脚していた。残った大崎氏は名生城を拠点とし、管領職の権威を背景に勢力を拡大したが、幕府、鎌倉に対して忠実ではなかった。満兼は足利氏による奥州支配の強化を図るため、二人の弟を下向させたのである。
しかし満兼の跡を継いだ鎌倉公方持氏が幕府と対立するようになると、篠川御所満貞は幕府と結び持氏と対立した。永享十二年(1440)持氏は鎌倉で自害するが、その翌年満貞も二本松城主畠山氏、塩松城主石橋氏らと戦い敗死、篠川御所は滅亡した。
その後は須賀川城主二階堂氏家臣、須田頼隆が居城したと伝えられている。
規模は東西300m、南北2kmに渡ると考えられている。宅地となっているためほとんど破壊されているが、主郭部にあたる東館跡に東舘稲荷神社が建てられており、その一角が横矢掛の櫓台跡とされている。東側に阿武隈川が接し、大きな堀が巡らされていた、南北朝期に多く見られる群郭式の城だった。
東舘稲荷を目標にして探しましたが、355号県道と阿武隈川堤防の間の宅地、畑地の中に所在するので結構見つけにくかったです。お陰でみちのく自転車道を車で走ってしまいましたよ(笑)。現在でもはっきりと堀跡などが確認出来、当時の規模が想像出来てなかなか面白いですが…私有地が多い城館跡の訪問はやはりキツいですね。 |
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郡山市
旧安積郡熱海町(〜S40) |
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安子島城 |
安子島城跡碑。 |
【所在地】 |
郡山市熱海町安子島字町
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【別称】 |
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【築城年】 |
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【築城者】 |
安子島氏 |
【城主変遷】 |
蘆名氏[安子島氏](-1589) |
【廃城年】 |
天正十七年(1589) |
【現状】 |
耕作地 |
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安積伊東氏一族安子島氏の居城。安子島氏は文治五年(1189)の奥州合戦で功のあった工藤祐経の子孫で、安積郡に勢力を拡大した安積伊東氏の一族であった。しかし各地に分散した伊東氏は一族での結集が果たせないまま戦国時代を迎え、安子島氏は黒川城主蘆名氏に従属していた。
天正十四年(1586)二本松城を攻め落とした伊達政宗は、次に宿願であった蘆名氏の攻略に着手し、蘆名家中の内訌、20代義広の佐竹氏からの入嗣による譜代衆と佐竹氏勢力の対立に乗じ、同十七年(1589)兵を起こした。そこで安子島城は真っ先に標的となり、奮戦空しく一日で落城、城主安子島治部省輔らは討死した。また日没のため伊達氏は攻城を中断したが、防ぎ切れぬと判断した治部省輔は城内より逃れ、会津へと落ちたともいわれる。翌日には高玉氏が守備する高玉城も落城し、その約一箇月後、磐梯山麓摺上原合戦において蘆名氏が敗北し、伊達氏が会津地方を手に入れるのである。
現在城跡は一面の耕作地となっており、写真の城跡碑が平成十三年に建てられました。縄張図などを見ていないので断言できないのですが、城跡への登り口に桝形虎口が残っています。49号国道からすぐの場所なので、いつでも見れんべ〜と思いつつ10数年が経っています。 |
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高玉城 |
高玉城跡碑、遠望。 |
【所在地】 |
郡山市熱海町高玉字沢田
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【別称】 |
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【築城年】 |
天文年間(1532-55) |
【築城者】 |
高玉常頼、高玉頼継など |
【城主変遷】 |
畠山氏[高玉氏]−蘆名氏[高玉氏](-1589) |
【廃城年】 |
天正十七年(1589) |
【現状】 |
愛宕神社、山林 |
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天文年間(1532-55)二本松城主畠山氏一族、高玉太郎左衛門尉常頼が築いたとされるが、また天文二十年(1551)安積伊東氏一族、高玉紀伊守頼継が築いたともいわれる。
天正十四年(1586)安積郡へと侵攻し二本松城を攻略した伊達政宗は、畠山氏旧臣高玉近江守に当地を与えた。しかしその一族の高玉常頼は伊達氏への服属を嫌い、黒川城主蘆名氏に従って伊達氏に反抗した。同十七年(1589)政宗は蘆名家中の内訌、20代義広の佐竹氏からの入嗣による譜代衆と佐竹氏勢力の対立に乗じて会津領へ向けて侵攻を開始、まずは安子島城を一日で攻め落とし、その翌日には高玉城へ迫った。常頼夫妻と女婿の荒井新兵衛夫妻は籠城し奮戦したが、伊達氏重臣片倉小十郎を中心とした1万余の軍勢には抗し切れずに自決し、落城した。戦後、政宗は残された全ての将士を撫切りにせよと命じ、民百姓、女子供300人から牛馬に至るまで惨殺したという。しかし常頼の3歳になる娘は乳母の命乞いにより助けられ(乳母が袂の下に隠し、死人を装い脱したとも)、親族の高倉城主高倉近江のもとで育まれた。現在高倉の常円寺に残る常頼夫妻の供養碑を建てたのがこの娘とされている。
この一箇月後、政宗は磐梯山麓摺上原で宿敵であった蘆名氏を討ち果たし、会津地方へと勢力を拡大することとなった。
高玉集落の民家脇から数分で主郭部まで上れ、その主郭には現在愛宕神社が祀られています。結構前に行ったので遺構の状態などの記憶がない(笑)写真も撮ったと思うんだけどなー。再訪せねば…(そんなんばっかり)。 |
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【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「福島県文化財調査報告書第197集
福島県の中世城館跡」(福島県教育委員会1988) |
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