郡山市
旧安積郡湖南村(〜S43)
トップさくらとおしろ福島県郡山市朝日城
朝日城
朝日城跡碑。
朝日城跡碑。
【所在地】 郡山市湖南町赤津字城山
【別称】 栗森城
【築城年】 建久年間(1190-99)など諸説
【築城者】 伊東祐光、栗村貞親、備中父子など
【城主変遷】 伊東氏…栗村氏…赤津氏
【廃城年】 天正十七年(1589)
【現状】 山林
 築城年代、築城者とも諸説あり明らかでない。建久年間(1190-99)伊東祐光が源頼朝より赤津に封ぜられ築城したとするもののほか、中世の地頭栗村弾正貞親が築きその子備中が居城、栗村氏が滅亡した後は伊東治部左衛門が入城するも、その子が浪人したため、伊東丹波範光が一時居住したとするもの、また栗村備中が築城したが、赤津治郎が栗村氏を滅ぼし、その後伊東氏が改築したとするものなどがある。
 この様に城主は度々変わったが、天正年間(1573-92)には湖南一帯を領していた安積伊東氏一族、小倉城主中地氏一族赤津氏が居城していたものであろう。この城の北西1kmほどの場所に、元亀二年(1571)赤津弾正時綱が築いたとされる鞍馬城が所在している。当時湖南は会津黒川城主蘆名氏の勢力下にあり、
三春城主田村氏との激戦地となっていた。

 現在は山林になっており登城口がわかりません。本丸と考えられている所に郭が残っているようですが…。
 すっとぼけた場所に城跡碑が建てられていますが、この位置は「日本城郭大系」にある外城と呼ばれる平館の場所なんでしょうかね?294号国道沿いの田圃道脇にポツンと建っています。実際の城跡は石碑の北東丘陵上に所在しています。
トップさくらとおしろ福島県郡山市小倉城
小倉城
小倉城跡標柱。
小倉城跡標柱。
【所在地】 郡山市湖南町中野
【別称】 鶴島城、鶴嶋城、中地城、小倉山城
【築城年】 文暦二年(1235)
【築城者】 束塚実恒
【城主変遷】 束塚氏…中地氏…蘆名氏[新国氏、中地氏]
【廃城年】 天正十七年(1589)
【現状】 小倉神社、中野保育所
 文暦二年(1235)束塚丹波守実恒によって築城されたのが始まりとされる。
 その後元応二年(1320)安積伊東氏一族、中地彦三郎の居城となり、以後代々伊東氏が住した。応永十二年(1405)には中地沙弥性久が在城、やがて会津黒川城主蘆名氏の勢力下となり、応仁二年(1468)には
三春城主田村氏の侵攻に備え岩瀬郡長沼城より新国信濃守が城主として入城した。
 永禄四年(1561)再び伊東氏の城となり、天正年間(1573-92)には伊東(中地)薩摩守盛恒が居城、湖南各地に一族を配して勢力を拡大した。しかし天正十七年(1589)摺上原合戦で蘆名氏は伊達氏に惨敗し、湖南地域の諸城館は伊達氏の別働隊によってことごとく攻め落とされたという。盛恒は摺上原で討死とも伝えられるが、一説には一族の横沢城主横沢彦三郎の摺上原出陣の誘いを拒否したため攻撃を受け、支城
鶴山城に逃れて防戦するも討死したとも伝えられる。だが福良千手院に残る盛恒の画賛には、天正十八年(1590)大崎・葛西一揆鎮圧に向かった蒲生氏郷に従い、名生城で討死したとある。この盛恒の死によって、領主としての安積伊東氏一族は全て滅亡し、この小倉城も天正年間末期には廃城となった。

 舟津川沿いの小高い丘陵上に築かれた城で、主郭部には小倉神社が祀られており、周囲には土塁の痕跡と思われる高まりが見られます。城跡の北側には現在中野保育所がありますが、当時は出丸か城主の居館として使用されていたと考えられています。三森峠、勢至堂峠を押さえる場所として当時は重要な拠点だったと思われます。
トップさくらとおしろ福島県郡山市鞍馬城
鞍馬城
鞍馬城跡遠望。
鞍馬城跡遠望。
【所在地】 郡山市湖南町赤津字舘山
【別称】 名馬城、夕日城
【築城年】 元亀二年(1571)
【築城者】 赤津時綱
【城主変遷】 蘆名氏[赤津氏]
【廃城年】 天正十七年(1589)
【現状】 古舘山公園
 元亀二年(1571)安積伊東氏一族である小倉城主中地氏の一族、赤津弾正時綱が築城した。
 文治五年(1189)の奥州合戦で功のあった工藤祐経の子孫は安積郡内に勢力を拡大、各地に小領主として分散し統治していた。湖南地方一帯は小倉城を本拠とした中地氏が治め、更に各地に城館を築き一族を配していた。当地は天正年間(1573-92)頃には赤津氏が治めていた様で、この城の南東1kmほどの場所には朝日城が所在する。
 天正十七年(1589)摺上原合戦で、黒川城主蘆名氏が伊達政宗によって滅ぼされると、蘆名氏麾下にあったこの城も廃城となった。

 294号国道黒森峠の入口に立地しており、赤津集落の出入口を固めた形となっています。現在は舘山公園として整備され、徒歩数分で主郭部まで登れます。ただ付近に車を置く場所がないですが(笑)。解説板は公園入口に設置されていますが、現在はもう字が消えてほとんど読めません。初訪問時には微かに読めたんですけどねー。
 頂部は南東から北東にかけてそれほど大きくない3つの平場が直線状に並んでおり、それを堀切で切っています。中央の平場が最高所となっており、また面積も大きいです。しかしその両脇にある平場もあまり高低差はないので、公園化する際に削平してしまったのかも知れません。土塁などの遺構も特には見られませんでした。
トップさくらとおしろ福島県郡山市横沢館
横沢館
横沢館(岩辺地城)跡標柱及び稲荷神社。
横沢館(岩辺地城)跡標柱及び稲荷神社。
【所在地】 郡山市湖南町舘
【別称】 岩辺地城、岩ノ城
【築城年】  
【築城者】 伊東祐行(横沢金吾)
【城主変遷】 蘆名氏[横沢氏]
【廃城年】 天正十七年(1589)
【現状】 稲荷神社、月形小学校
 安積伊東氏一族伊東河内守祐行(改め横沢次郎金吾)が構築したのが始まりとされる。築城年は明確でないが、横沢氏3代祐規によって元応二年(1320)改修を受けていることから、それ以前であることは確かである。
 伊東祐行は、文治五年(1189)奥州合戦の功により安積郡を賜った工藤祐経の次男、安積伊東祐長の孫で、安積郡西部および会津郡北部の36郷合わせて6200余石を領有したという。後に名を横沢次郎金吾と改め、横沢氏祖となった。
 その後、安積伊東氏一族は勢力を結集出来ないまま戦国時代を迎え、横沢氏も10代持行の代(大永年間(1521-7)以前?)に黒川城主蘆名氏に服属した。そして横沢彦三郎の代の天正十七年(1589)、蘆名氏が磐梯山麓摺上原合戦で伊達氏に敗れると、伊達氏に降って仙台へ移住、この城は廃城となった。なお摺上原合戦の際、城主横沢彦三郎は、同族の小倉城主中地薩摩守盛恒に出陣を促すも拒否され、手勢を率いて盛恒を討ったとも言われている。

 いかにもな地名、湖南町舘に所在していますが、かなり目立ちません(笑)。「日本城郭大系」には、安積伊東氏の湖南、湖西進出の拠点としての諸条件を備え、その規模は湖南、湖西随一と称されたとありますが、そんなんかな〜、と思うのはわたしの目が腐っているからか…。月形小学校が北東隅に当たり、小学校から真南に進んで県道にぶつかる辺りまでが東辺、そこから西側へ進んだ長方形になる範囲が館跡の様です。その北側一角に城中守護の稲荷神社が残り、神木の大杉、大欅が残っています。舘集落内には遺構らしきものはだいぶあるんですが、さすがに宅地となっているとジロジロ見ていられませんでした。
 因みにまだ未訪問ですが、東方に出城と推定されている
茶臼館(花見御殿)が所在します。

【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「福島県文化財調査報告書第197集 福島県の中世城館跡」(福島県教育委員会1988)

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