会津美里町
旧大沼郡会津本郷町
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向羽黒山城
向羽黒山城跡遠望。
向羽黒山城跡遠望。
【所在地】会津美里町船場
【別称】 岩崎城、弁天山城、巌館、乾城
【築城年】 永禄四年(1561)
【築城者】 蘆名盛氏
【城主変遷】 蘆名氏(1561-89)−伊達氏(1589-90)−蒲生氏(1590-98)−上杉氏(1598-1600)
【廃城年】 慶長五年(1600)か
【現状】 白鳳山公園
 黒川城を拠点に蘆名氏最大の版図を築いた16代修理大夫盛氏が、永禄四年(1561)に隠居城として築城に着手、同十一年(1566)に完成したという。

 盛氏は嫡男盛興に家督を譲り、隠居して止止斎と号してこの城へと移り住んだ。しかしその盛興は、天正二年(1574)26歳の若さで嗣子のないまま早世してしまう。そこで盛氏は、盛興の後妻伊達氏を養女とし、
須賀川城主二階堂氏より盛隆を婿に迎えて蘆名氏当主を継承させ、自らはその後見役として黒川城へ復帰した。その盛氏も天正八年(1580)に死去、また盛隆以降の当主も相次いで早世し、遂に天正十七年(1589)磐梯山麓摺上原合戦で出羽国米沢城主伊達政宗に敗れて滅亡した。

 盛氏の黒川城復帰の翌年、天正三年(1575)には向羽黒山城は廃城になったされるが、蘆名氏は以後も着々と改修を重ねていた様で、それは以後の会津領主にも引き継がれていった。盛氏在城の頃から、黒川城の詰城としての機能が小田山城より向羽黒山城へと移っていたものであろう。
 文禄四年(1595)には豊臣秀吉の命により居城以外の諸城の破却令が出ており、この城も破却されたと考えられるが、上杉氏時代にも徳川家康の会津侵攻に備えて改修が行われている。

 東日本最大級の山城跡であり、保存状況も良好ということで、平成十一年国史跡に指定されました。度々現地説明会や見学会で訪問しておりますが、遺構も良く残っており見どころも多いお城です。
 …本当は資料も写真も割と多くあるんですが、取り急ぎ以前の解説文をそのまま記載し、一段落着いたら加筆、修正を行いたい…と思いつつ時が過ぎております(^-^;

【参考文献】「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(伊吉書院1980)、「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「福島県文化財調査報告書第197集 福島県の中世城館跡」(福島県教育委員会1988)、「解説 向羽黒山城(岩崎城)跡」(向羽黒山城跡検証事業実行委員会2000)、「武者たちの舞台 ふくしま紀行 城と館 下巻」(福島民報社2007)、「会津の城 戦国時代から戊辰戦争までの城と戦場」(会津古城研究会2015)

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