南会津町
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駒寄城 |
駒寄城跡遠望。 |
【所在地】 | 南会津町古町
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【別称】 |
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【築城年】 |
建久元年(1190) |
【築城者】 |
河原田盛光 |
【城主変遷】 |
河原田氏(1190-1589) |
【廃城年】 |
天正十七年(1589) |
【現状】 |
駒寄神社、山林 |
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文治五年(1189)下野国河原田郷の豪族河原田近江守盛光は奥州合戦に従軍、その軍功により源頼朝から伊南郷を賜り、建久元年(1190)に築いたのが始まりとされる。
河原田氏は平素は居舘である東館、西館に住し、詰城として駒寄城、駒寄要害山を利用した。しかし天正十七年(1589)、摺上原合戦で蘆名氏を滅ぼした伊達政宗が黒川城へ入ると、11代治部少輔盛次(盛継)は服属するを潔しとせず、駒寄城を廃して新たに久川城を普請し、伊達勢に臣従しその先鋒と務めた鴫山城主長沼氏の軍勢を迎え撃っている。
現在は山林となっており、大手口である土塁状の虎口を上ると2つの削平地があり、一方は貯水池跡、もう一方は駒寄神社が祀られている。神社は当時の物見台と考えられており、一段高い岩山の上に鎮座し、その周囲には土塁、空堀が見られることから主郭であると考えられている。また南方山頂には詰城の駒寄要害山があり、削平地と堀切、竪堀が見られるという。
伊南小学校の南側に立地しており、何度か訪問していますがやっぱり登っていません(-_-;
訪問の度に今度こそは…と思うのですが、まずどこから入れば良いのかがわからんかったので(^-^;
次回訪問時は登ってきます…要害山山頂じゃなく駒寄神社までね〜。
しかし、平地館である駒寄城を廃して新たに久川城を云々とありますが、要害山に籠もらなかったのは南山の長沼勢に備えてのことなんでしょうかね? |
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鴫山城 |
鴫山城大門跡復元石垣。 |
【所在地】 |
南会津町田島
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【別称】 |
南山城 |
【築城年】 |
南北朝時代 |
【築城者】 |
長沼義秀 |
【城主変遷】 |
長沼氏…伊達氏[長沼氏](1589-90)−蒲生氏[小倉氏](1590-98)−上杉氏[大国氏](1598-1601)−蒲生氏[小倉氏、蒲生(上野田)氏、蒲生(谷崎)氏](1601-27) |
【廃城年】 |
寛永四年(1627) |
【現状】 |
愛宕神社、山林 |
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鎌倉時代、下野国小山氏一族の長沼宗政が南山を所領とし、南北朝時代に田島へ進出、長沼淡路守義秀によって愛宕山山頂に築かれたのが始まりという。
記録上には、享徳二年(1453)松本右馬允通輔(典厩)が黒川城主蘆名盛詮に叛した際、右馬允が日光へ逃れるのを鴫山城主長沼政義が妨害したというのが初見で、長禄三年(1459)には山中越中なる人物が白河勢を導き入れて鴫山城より長沼氏を逐い、蘆名氏の助力を得て長沼氏の手に復したとするとするものがある。
その後長沼氏は、蘆名氏や中丸城主山ノ内氏、駒寄城主河原田氏と並んで、会津四家と称される勢力となる。しかし、永正十八年(1521)長沼盛秀が蘆名盛舜によって鴫山城を占拠されており、また盛秀の子実国は永禄四年(1561)蘆名修理大夫盛氏の軍門に降るなど、自主性は維持しながらも山ノ内、河原田氏同様蘆名氏の勢力下にあった。
天正十七年(1589)摺上原合戦に敗れて蘆名氏が滅びると、実国の子盛秀は黒川城に入った伊達政宗に臣従、反伊達氏の立場を採った河原田氏攻めの先鋒となり久川城を攻撃に加わった。しかし翌十八年(1590)、豊臣秀吉によって伊達氏が会津を没収されると、長沼氏もこれに従って会津を去った。
その後鴫山城は、下野国へ通じる南会津の要衝として歴代の会津領主にも重視され、蒲生氏郷は小倉作左衛門、次いで上杉景勝は直江山城守兼続の弟大国但馬守実頼が城代となり、この頃近世城郭として整備、改修されている。その後再度蒲生秀行が会津領主となると、再び小倉作左衛門、そして蒲生(上野田)主計助郷貞、蒲生内記(谷崎忠右衛門)らが城代となるが、寛永四年(1627)加藤嘉明が会津を拝領するに及び廃城となった。
標高749mの愛宕山全山に及ぶ城跡で、北側山麓の侍屋敷、集落などを外郭で包み込む惣構の城郭であった。愛宕神社が祀られる主峰頂部から、尾根伝いに丸山、上の台、下の台の各出城が設けられており、上の台、下の台の間の姥平にも鎌倉時代後期まで遡る城館跡が認められる。大門跡には穴太積の石垣が復元されており、この石垣は安土城石垣の修復を手掛けた、故粟田万喜三氏が施工したものである。
大門跡までは国道からすぐなので何度か訪問していますが、山頂の愛宕神社までは数えるほどしか登ってないなー。最近登ったのは、自治体主催で会津古城研究会会長石田明夫氏の講演に参加した時か?
いや、だいぶ陽が傾いてから登り始め、暗くなってから焦って転げ落ちる様に下山した時もあったしな…。
何れにせよ暫く訪問していませんが、見ているのは大門周辺から愛宕神社までの間くらいなので、また機会(と体力)があれば行って来たいですね。 |
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西館 |
西館跡土塁。 |
【所在地】 |
南会津町古町居平
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【別称】 |
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【築城年】 |
建久元年(1190) |
【築城者】 |
河原田盛光 |
【城主変遷】 |
河原田氏(1190-1589) |
【廃城年】 |
天正十七年(1589) |
【現状】 |
伊南保育所 |
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文治五年(1189)下野国河原田郷の豪族河原田近江守盛光は奥州合戦に従軍、その軍功により源頼朝から伊南郷を賜り、建久元年(1190)に居城である駒寄城を築いた。その麓の小滝平に築かれたのが、居舘である東館、西館である。
河原田氏は藤原秀郷の流れを汲む小山氏からの別れで、小山政光の五男盛光が下野国河原田郷に住して河原田氏を称したというのが始まりという。西館に住した盛光は、二女の婿として同族結城七郎朝光三男秀光を迎え、以後河原田氏は11代治部少輔盛次(盛継)が久川城に居を移すまで西館を居館とした。なお東館には2代宮内少輔朝次から11代盛勝までが住したという。
河原田氏は黒川城主蘆名氏、中丸城主山ノ内氏、鴫山城主長沼氏と並んで会津四家と称され、永く伊南郷に勢力を維持したが、天文十二年(1543)会津統一を図る蘆名修理大夫盛氏の来襲を受ける。駒寄城では防ぎ切れないと考えた河原田氏は南西の宮沢館に拠って防戦、ついに蘆名勢を撃退したが、その後合戦の記録はなく、次第に蘆名氏の麾下に属したと見られる。
なお盛次が山ノ内氏勝の妹を妻に迎えるなど、山ノ内氏とは特に昵懇だった。その関係は、両者の本拠を結ぶ伊南川、只見川沿いに展開した狼煙を使った通信網でも見て取れる。
現在は伊南総合支所(旧伊南村役場)に隣接する保育所の敷地となっており、土塁が西側から南側へかけてカギ形に、また保育園入口を挟んで東側に現存する。土塁の最高部は5mほどにもなり、一部現存する水堀は10mを計るという。また東館は支所東側に位置するという。
訪問したのはだいぶ前…北塩原から伊南は遠い(-_-;
その際に当時の村役場に質問に伺ったら村史編纂室に通して頂き、担当の方から“西館は天正十二年(1584)?の水害により4分の3が失われ、現存する遺構は4分の1なんだよー”といったお話などを教えて頂きました。河原田氏系図のコピーなども頂戴し、非常にお世話になりました。 |
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久川城 |
久川城跡遠望。 |
【所在地】 |
南会津町青柳
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【別称】 |
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【築城年】 |
天正十七年(1589) |
【築城者】 |
河原田盛次 |
【城主変遷】 |
河原田氏(1589-90)−蒲生氏[蒲生氏](1590-98)−上杉氏[長尾氏、藤田氏](1598-1601)−蒲生氏[蒲生氏](1601-15) |
【廃城年】 |
元和元年(1615) |
【現状】 |
公園、山林 |
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建久元年(1190)初代近江守盛光が築城して以来、400年にわたって駒寄城を居城としていた河原田氏が、天正十七年(1589)蘆名氏を滅ぼした伊達政宗の南会津侵攻に備えて築城した。居舘である西館、東館は平地館であり、また駒寄城も周囲が山続きで田島、舘岩方面からの攻撃に弱いため、伊南川対岸の小丈山に居城を移したのである。なお築城に当たっては僅かな普請で入城したとあり、また小丈山の名前は古城山に通じることから、もともと要害が築かれていたものと考えられている。
久川城に居城を移すと同時に南側に新たに町割を行っており、そのため現在も久川城南側が新町と称され、西館、東館の周囲が古町と呼ばれている。
天正十七年(1589)、河原田氏11代治部少輔盛次(盛継)は蘆名勢に与して摺上原合戦で奮戦するも、合戦は伊達氏の勝利に終わり、大将蘆名義広は居城黒川城へと敗走した。さらに義広は実家の佐竹氏を頼って常陸国へと逃亡したため、盛次はやむなく兵をまとめて伊南へと引き揚げた。
義広を常陸国へ逐った蘆名氏旧臣は伊達政宗を黒川城へ迎え入れ、会津盆地はことごとく政宗の勢力下に収められた。河原田氏と境を接する鴫山城主長沼盛秀も政宗に服従し、盛次にも帰順を勧める書状を送るが、盛次は武士として二弓を引くことは出来ぬとして新たに久川城を築城、伊達勢の侵攻を迎え撃つ準備を始めた。面目を潰された盛秀は、政宗より盛次討伐の許しを得、盛次同様政宗に敵対した山ノ内氏の布沢城、梁取城、河原崎城を攻め落とし、いよいよ盛次の籠もる久川城へと兵を進める。盛次は懸命に防戦に努め、只見水久保城に籠もる山ノ内氏勝と連携、隣国の上杉氏、佐竹氏らに救援を乞いつつ、また石田三成を通じて豊臣秀吉にも接近し頑強に抵抗した。そして翌年、秀吉の小田原城征伐が行われると、盛次、氏勝の抵抗はついに実を結んだ。政宗は小田原征伐への遅参、また会津への侵攻が関東奥羽惣無事令違反であるとして会津を没収され、河原田氏、山ノ内氏は所領を守りきったのである。
しかし伊達勢の猛攻を支え切った両氏も、次いで行われた奥州仕置において蘆名家中と見なされ所領を没収されてしまう。これは仕置ために長沼城に滞在する秀吉に謁見を願ったが、果たせなかったためであるという。
政宗が会津を去った後、秀吉は奥羽の押さえとして蒲生氏郷に会津を与えた。氏郷は黒川城下を整備して若松城と改めたほか、領内諸城を整備して城代を置き、久川城には蒲生左門郷可が配された。その後上杉景勝が若松城主となると長尾数馬、藤田吉左衛門(清野助次郎長範とも)が城代となり、再び蒲生秀行が若松城主となると蒲生五郎右衛門、蒲生忠右衛門が城代となっている。蒲生忠右衛門が居城した際に本格的に整備が行われ、現在残る遺構はこの頃に普請されたものである。しかし元和元年(1615)、一国一城令により廃城となった。
河原田氏の居館である西館、東館の北北西に位置する、標高632m、比高76mの小丈山全山とその南麓に続く侍屋敷が城域である。小丈山頂部は5つの郭が南北に並び、その中央部が本丸となる。各郭間は土塁、空堀で区画され、遺構の保存情況は良い。大手は北東麓であり、現在は失われているが野面積石垣の桝形が形成されていたという。そこから九折を登ると北の郭に入り、広大な平場を通って本丸、続いて二の丸、三の丸と通じ、さらに南の郭から虎口を2つ通過し九折を下ると搦手の桝形虎口に至る。頂部は東西約110m、南北約450mほどの規模である。
体力のないわたしでも、頂部に起伏があまりないので攻めやすい山城です。しかもかなり良く保存されており、お奨めのお城の一つです…遠いけど(^-^;
りんが2歳半くらいの頃に訪問した際、写真撮影に夢中だった父(だめな大人)は大手口でおもらしされ、薄暮の中幼女のパンツを脱がせていたのは良い思い出か?通報されてたら大変なので誰も通らなくて良かった…(-o-;
その後りんとあんよあんよしながら南の郭まで歩き、真っ暗な中搦手の九折を下っていたら、きつねも発見しました。
なお、その後の河原田氏の家臣たちは、蘆名氏、蒲生氏に仕えた者もいました(秋田県仙北市角館に武家屋敷が残ってますよね)が、多くの者が帰農して当地に残ったそうです。帰農したとは言え、独眼竜伊達政宗を撃退した伊南武者の子孫たちは今なお尚武の気風が高く、現在も武道が非常に盛んであるとの事。中学生の頃に剣道をやってたウチの奥さんや、弓道をやってた知人も、伊南の人たちは強かったな〜と言っておりました。 |
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【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「福島県文化財調査報告書第197集
福島県の中世城館跡」(福島県教育委員会1988) |
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