稲敷市
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阿波崎城
阿波崎城石碑。
阿波崎城石碑。
【所在地】 稲敷市(旧稲敷郡東町)阿波崎
【別称】  
【築城年】 延元三年(暦応元・1338)
【築城者】 北畠親房
【城主変遷】 北畠氏…
【廃城年】 慶長七年(1602)
【現状】 霞南ゴルフ倶楽部
 延元三年(暦応元・1338)常陸国志太郡東条浦に上陸した南朝方の北畠親房は、当地の地頭東条氏に迎えられ、その居城神宮寺城を勢力回復の基盤、東国経営の拠点と定めた。しかしほどなく北朝方の佐竹氏、大掾氏らの軍勢により神宮寺城は落城、親房はこの阿波崎城に拠るもさらに逐われ、霞ヶ浦を渡り筑波郡小田城へ逃れた。


 現在は城域のほとんどが霞南ゴルフ倶楽部(訪問時は利根ゴルフ倶楽部)敷地となっており、台地北東端の外丸跡がわずかに公園化されて残っています。外丸跡には城跡碑、解説板などが建てられていますが、遺構は僅かに腰曲輪とも思える段が残っている程度で、現在は特に眼を引くものはありませんでした。
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江戸崎城
江戸崎城本丸跡。
江戸崎城本丸跡。
【所在地】 稲敷市(旧稲敷郡江戸崎町)江戸崎
【別称】 江戸崎陣屋か
【築城年】 永享十一年(1439)
【築城者】 土岐原景秀、土岐秀成
【城主変遷】 土岐(土岐原)氏(1439-1590)−佐竹氏[蘆名氏](1590-1602)−松平氏(1602-03)-青山氏[2代・1603-19]-丹羽氏[1代・1619-22]
【廃城年】 慶長七年(1602)か
【現状】 宅地、耕作地、城山稲荷神社、鹿島神社、江戸崎小学校、江戸崎中学校、瑞祥院
 永享十一年(1439)、永享の乱で鎌倉公方足利持氏の追討に功のあった土岐原左馬助秀成が、この地を与えられて築城したのが始まりとされる。また弘安年間(1278-88)に土岐原師親が信太荘地頭となり、その孫の景秀が築城したともされている。なお土岐原氏は美濃国土岐氏の一族であり、天文年間(1532-1555)美濃土岐氏の滅亡後惣領となり、姓を土岐氏と改めている。

 土岐氏は関東管領上杉氏の被官として小田城主小田氏らと抗争を繰り返し、山内上杉憲政が相模国小田原城主北條氏の圧迫により越後国へ逃れた後は、自立して常陸国南部に勢力を拡大した。その後土岐氏は小田氏と結び、そして北條氏の麾下に加わりそれを後盾に太田城主佐竹氏の南進に抵抗する。しかし天正十八年(1590)、9代治綱の頃に豊臣秀吉による小田原城征伐が行われ、豊臣方に参じた佐竹義宣の弟蘆名盛広の攻撃により江戸崎城は落城、ここに常陸土岐氏は事実上滅亡した。

 小田原城征伐に続いて行われた宇都宮仕置により、江戸崎城攻略に功のあった蘆名義広は、佐竹氏与力として4万石を与えられて龍ヶ崎城主となり、次いで4万5千石を以って江戸崎城主となった。義広は佐竹義重の次子で陸奥国黒川城主蘆名氏に入嗣していたが、この前年伊達政宗の侵攻により会津を逐われ佐竹氏の下へ身を寄せていたものである。宇都宮仕置に次いで行われた奥州仕置で、伊達政宗は切り取った蘆名氏旧領を全て召上となるが、その所領は義広には返還されずに蒲生氏郷に与えられたため、旧領回復はならなかったものの蘆名氏は大名として再興を果たした。なおその頃より義広を改め盛重を称したとされている。
 しかし慶長五年(1600)関ヶ原合戦において、兄義宣が西軍に与する動きを見せたため、それに連座して同七年(1602)所領没収となり、兄、父に従い出羽国へと移った。その頃には名を義勝と改め、佐竹氏家臣として仙北郡角館将主となっている。

 蘆名氏が去った後は土浦城主藤井松平信一が接収し、養嗣子信吉が名代として入城したが、ほどなく廃城になったとみられる。しかし慶長八年(1603)より青山忠成が1万石を以って入封し江戸崎藩が立藩されており、城跡にその陣屋が置かれたものであろうか。青山氏は元和五年(1619)武蔵国岩槻城へ加増移封となり、次いで常陸国古渡藩より丹羽長重が2万石で入封し、同八年(1622)陸奥国棚倉城へ加増転封となった後は廃藩となっている。


 江戸崎市街地中心部、標高24mの舌状台地に築かれた直線連郭式の城館で、江戸崎小学校南側の城山を本丸とし、北の瑞祥院(もしくは江戸崎中学校)までが城域だったようです。本丸跡は現在民家、畑地、公民館、市民研修センターなどとなっており、北東側に土塁、その下には腰曲輪が巡っています。二の丸跡は江戸崎小学校や鹿島神社、三の丸には瑞祥院などが建てられており、鹿島神社には土塁が遺っているとか…?訪問時には行かれなかったんですよねー。
 なお江戸崎藩時代の陣屋?が城跡に置かれたものかは、調べてもよく判らないんですよね。そもそも居所の格付は江戸時代初期には確立されていないでしょうから、陣屋と言って良いのかすら良くワカラン(-_-;
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神宮寺城
神宮寺城跡土塁。
神宮寺城跡土塁。
【所在地】 稲敷市(旧稲敷郡桜川村)神宮寺
【別称】  
【築城年】 南北朝時代(1336-92)
【築城者】 東条氏
【城主変遷】 東条氏…
【廃城年】  
【現状】 宅地
 南北朝期の延元三年(暦応元・1338)、主力であった北畠顕家を和泉国石津合戦で失った南朝方は、東国、陸奥国を勢力下に収めて挽回を図った。そこで義良親王を奉じ、顕家の父親房、鎮守府将軍に任ぜられた顕家弟の顕信らが伊勢国大湊より海路東国へ下ったが、天龍灘に差し掛かったところで暴風雨に遭い、顕信と義良親王の船は伊勢に引き戻されてしまう。親房の船は常陸国志太郡東条浦に漂着、当地の地頭東条氏によってその居城神宮寺城に拠り、近隣の武士団を結集して東国経営の拠点と定めた。

 しかし高師冬麾下の佐竹氏家臣小野崎正通、二方左衛門尉や、大掾氏一族鹿島幹寛、宮崎幹顕、烟田時幹らの攻撃により神宮寺城は落城、親房は小田氏の護衛を得て阿波崎城へと移り、さらに小田城へと落ち延びた。


 107号県道、神宮寺交差点から西に進むと解説板が設置されています。その解説板の南側の竹藪が城跡で、なかなか見事な土塁、堀が遺り、土塁の北角には「北畠准后唱義之所」の碑が建てられています。しかし訪問時は竹藪の状況がなかなかエライもんだったので、土塁を越えて郭の奥まで進むことが出来ない根性なしでした。

【参考文献】「日本城郭大系4 茨城・栃木・群馬」(新人物往来社1979)、「日本の名城・古城もの知り辞典」(主婦と生活社1992)

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