戸崎城跡解説板(解説板裏が本丸跡、空堀を挟み右手奥が天神郭)。 |
【所在地】 |
かすみがうら市(旧新治郡霞ヶ浦町)戸崎
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【別称】 |
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【築城年】 |
応仁年間(1467-69)、文明年間(1469-87) |
【築城者】 |
戸崎大膳亮 |
【城主変遷】 |
小田氏[戸崎氏、菅谷氏?]…佐竹氏[飯塚氏](1595-1602) |
【廃城年】 |
慶長七年(1602) |
【現状】 |
耕作地、宅地 |
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築城年代、築城者は明確ではないが、応仁の乱(1467-77)の頃戸崎大膳亮によって築かれたとされている。
室町、戦国時代、常陸国南部は小田城主小田氏、太田城主佐竹氏の二大勢力が対立していたが、戸崎氏は小田氏の有力な部将として活躍した。しかし次第に小田氏の勢力が衰退すると、徐々に佐竹氏の圧迫が強まり、遂に天正元年(1573)宍倉城とともに佐竹氏の手に落ちた。同五年(1577)戸崎氏は戸崎城奪還を図るも果たせず、その戦いで戸崎大膳長俊が討死したという。
なお資料に戸崎城主として名が現われるのは宍倉城と同様菅谷氏で、永禄年間(1558-70)頃の城主は菅谷次郎左衛門とある。
落城後は佐竹氏の勢力下となり、文禄四年(1595)には家臣飯塚兵部少輔が居城したが、慶長七年(1602)佐竹氏の出羽国秋田転封に伴い廃城となった。
戸崎台地一帯が城跡であり、先端の北側が本丸、本丸南側の天神郭から二の丸、中城、外城と南西へ延びています。南北に細長い本丸は畑地となっており、北側に一部だけ土塁を思わせる土盛があります。本丸の周囲には腰曲輪が巡り、南側の天神郭との間は空堀で分断しています。
訪問時は当時搭載していたカーナビを頼りに探したんですが、地図ディスクが古くて却って苦労した記憶があります。現在は結構当たり前の装備になってますが、当時は標準装備なんて時代じゃなく、地図データもCD-ROMだったんです…時代を感じますな。因みにわたしは現在はカーナビ未搭載、アナログな分県地図とたまーに使用するスマホ地図アプリがメインです。閑話休題、素直に県道を走ってると案内板が設置されております。
うひょひょーと城跡を見学していた際、畑仕事中のお父さんにお話しを伺うことが出来ましたが、お父さんは「こんなお城にわざわざ来るなら姫路城とか行けよ〜www」とおっしゃってました(^-^;
しかしお父さん、あなたの畑は素晴らしい場所にあるんですよ〜。
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