石巻市
旧石巻市 - 旧牡鹿郡稲井町(〜S42・旧水沼村(〜M22)分)
トップさくらとおしろ宮城県石巻市水沼館
水沼館
水沼集落の板碑群と水沼館跡遠望。
水沼集落の板碑群と水沼館跡遠望。
【所在地】 石巻市水沼字館下
【別称】  
【築城年】 室町時代
【築城者】 水沼氏か
【城主変遷】 葛西氏[水沼氏]…
【廃城年】  
【現状】 山林
 室町時代に水沼上野なる人物が居住し、後に葛西氏に臣従したという。水沼氏は水沼古館よりここに移り住んだものであろうが、その年代は明らかでない。
 なお仙台藩に和田杣之助という人物があり、水沼上野没落の後、高木の医師高橋玄量という人物に水沼氏を相続させた、と紫桃正隆氏が著述している。


 稲井地区の最も奥、水沼集落の西側に沿って突き出た台地上に所在する。台地南面に当たる先端部には平場以外特に目立った遺構は見られず、往時は物見として利用されたものとみられ、主郭部は尾根伝いの台地基部と推定されている。主郭部は南北約50mの楕円形の平場を中心に、東西それぞれ2段の壇が見られ、北面には3条、奥山とを切る空堀が切られている。全体の規模は高さ約60m、東西約120m、南北約300mである。


 …とさも見てきた様な書き方ですが、学生の頃もその後再訪した際も登城口さえ判らず。「仙台領内古城・館」の略図だと、集落南方から山裾を廻って主郭部に至る道が書いてあるけど…今もあるのかなぁ?
トップさくらとおしろ宮城県石巻市水沼古館
水沼古館
水沼古館跡遠望。
水沼古館跡遠望。
【所在地】 石巻市水沼字小多田
【別称】  
【築城年】 室町時代
【築城者】 水沼氏か
【城主変遷】 葛西氏[水沼氏]…
【廃城年】  
【現状】 民家
 葛西氏家臣水沼上野介の居館と伝えられる。水沼氏が水沼館へと移る以前に居住したものと思われるが、移住した年代、そしてその時期が葛西氏への臣従前か後かは不明である。


 高木集落から水沼集落へ至る途中、小多田集落の東側、山裾が南側へ突き出た舌状台地上に所在する。突端部は南北200mほどで、基部は谷となって現在道路が走り、独立した丘陵となっている。この谷も人工的に切られた空堀とも推定されており、谷の中央部から南側、主郭部へと至る道路が通じる。主郭部の規模は東西約80m、南北約120mで、西側は断崖、南、東側には段が開け、その先が断崖となって落ちる。北面は主郭部直下に空堀が認められ、その下に数段の壇が続き、前述の谷へと通じている。


 現在は私有地となっている様で、主郭部入口のところに関係者以外立入禁止の看板。往時と比べて防御は手薄であろうが、捕らえられると昔も今も大変なことになるのは変わらないので侵入は断念。丘陵西側の畑にいたお母さんに尋ねたら、“嫁だから昔のことはわかんないね〜”とのこと。ちょっと登ればすぐそこなんだが…残念。
石巻市
旧石巻市 - 旧牡鹿郡稲井町(〜S42・旧南境村(〜M22)分)
トップさくらとおしろ宮城県石巻市竹ノ下館
竹ノ下館
石巻専修大学正門より望む竹ノ下館跡遠望。
石巻専修大学正門より望む竹ノ下館跡遠望。
【所在地】 石巻市南境字竹下
【別称】  
【築城年】  
【築城者】 高木氏か
【城主変遷】 葛西氏[高木氏]…
【廃城年】  
【現状】 山林
 この館についての詳細は判りません。頼みの「日本城郭大系」には詳細不明とのみ記載され、「仙台領内古城・館」には記載なし。「石巻市文化財マップ」にある、土塁、空堀跡が確認されていたが採石のため破壊されている、という記述のみが所有する資料に載っている情報です。『石巻市史』でも読んでみるしかないのかな。


 学校の前に所在する館跡なので、講義に出たくない時(笑)などに行ってみましたが、採石場となっていたため進入は憚られました。館が所在したという丘陵先端部は完全に破壊されている様で、登城口はおろか全く遺構らしきものの手掛かりは得られませんでした。今だったら麓の住民の方にお話を伺う〜なんて行動を取っているものでしょうが、当時は暇つぶし的な要素が強かったものか…(^-^;
 現在はこの山の下をトンネルが通じている!しかも国道!20年も経つと便利になるものですねぇ…。
トップさくらとおしろ宮城県石巻市南境館
南境館
南境館跡標柱…倒れていたけどまだあるのかな。
南境館跡標柱…倒れていたけどまだあるのかな。
【所在地】 石巻市南境字館下、館山
【別称】 金沢古館
【築城年】 室町時代
【築城者】 大瓜玄蕃か
【城主変遷】 葛西氏[大瓜氏]…
【廃城年】  
【現状】 山林、畑地?
 創建は室町時代、葛西氏家臣大瓜玄蕃の居館と伝えられている。また藩政時代の仙台藩伊達氏在所の一か。

 館主とされる大瓜玄蕃は、黒川郡大瓜よりこの地に移り住んで大瓜氏を称したという。なお南東に所在する大瓜古館のほか、登米郡米山にも大瓜玄蕃の根拠地とされる大瓜館があり、その関係は未だ解明には至っていないという。
 また、藩政時代を通じて仙台藩伊達氏は膨大な家臣団を有しており、それを維持するために直接家臣に土地を支給する地方知行制を採っていた。南境には城、要害、所に次ぐ在所が置かれていたが、南境館跡がそれに当たるものであろうか。


 標高20mの丘陵端部に所在し、東西約50m、南北100m以上の主郭を中心に、その周囲を段築が巡る単郭式の館である。南端には館を区画する土塁、そして二重の堀が残っているという。


 主郭部は畑地となっている様ですが、相変わらず登り口がわからない…。学生時代に訪問した際の記憶を辿り、10年前に再訪した際に根本が朽ちて倒れている標柱を発見。現在もあの標柱は残っているのかな…?

【参考文献】「資料 仙台領内古城・館 第三巻」(宝文堂1974)、「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「伊達諸城の研究」(伊吉書院1981)

ご意見、ご感想は下記まで。
sakushiro.3946@gmail.com