石巻市
旧桃生郡河北町(〜H17) - 旧大川村(S30) |
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釣ノ尾館 |
釣ノ尾館跡標柱。 |
【所在地】 |
石巻市福地字町
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【別称】 |
駒ノ尾城、山内館、八幡館 |
【築城年】 |
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【築城者】 |
山内(福地)氏か |
【城主変遷】 |
首藤氏[山内(福地)氏]…葛西氏[山内(福地)氏]…伊達氏… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
山林、耕作地 |
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山内左馬之介(祐)の居城と伝わる。左馬之介は山内首藤氏一族で、七尾城主首藤義通の弟であり、福地左馬之介頼重とも称したという。
永正八年(1511)山内氏は七尾城、大森城に拠った首藤貞通とともに葛西氏に叛するが、この永正合戦は同十二年(1515)葛西氏の勝利に終わり、山内氏は葛西氏の軍門に降った。しかし永禄八年(1565)山内氏は北上川対岸にあった天野氏と共謀して再び葛西氏に叛し、気仙郡領主の矢作氏の討伐を受けて遂に滅亡した。なお山内氏の末裔は三陸海岸方面に逃亡したとされ、本吉郡内には山内姓が多く見られるという。
時代は下り仙台藩領となった江戸時代初期、天下への野望を持ち続けた伊達政宗が、将軍家徳川氏を相手に合戦に及ぶ際の最後の拠点として当地を想定したという。即ち政宗は、大御所徳川家康が死去した時が天下獲りの最後の好機と考え、また江戸幕府側も政宗が動くのはその時と想定、世間は幕府側が機先を制して伊達氏征伐の大軍を起こすのは必定と見ていた。政宗は幕府軍を迎え撃つにあたりまず白石城を第一の防衛ラインとし、最終的には北上川下流域まで退きこの古城跡に拠って決戦を挑むという計画であったという。現実として幕府による奥州征伐は行われず、伊達氏は奥州の雄藩として明治維新まで存続するが、家康死去時、江戸では政宗が兵を動かした、という風聞があったともいわれている。
横川集落東側、高さ約80mほどの八幡山に築かれた山城で、山頂には昔八幡神社が祀られていたためこの名があるという。南面を除く三方は断崖となり、その南面も奥山とは深い空堀が切られている。本丸は丘陵最高所となる南側となり、直径30mほどの円形の平場で、この平場を中心に同心円状に数段の壇が巡らされる。本丸北側には空堀を隔てて直径75mほどの楕円形の平場があり、ここが二の丸と推定されている。その周囲にも5段ほどの壇が見られる。全体的には東西約200m、南北約230mほどの規模を持つ、北上川の交通の要衝を押さえた山城であった。 |
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【参考文献】「資料 仙台領内古城・館 第三巻」(宝文堂1974)、「日本城郭大系3
山形・宮城・福島」(新人物往来社1981) |
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